180212 空海に学ぶ(10) <第十 秘密荘厳心>と河瀬直美氏の<心に刻んだ記憶 記録する感動>および高橋源一郎氏の<人生相談 彼がいるのに目移り変?>を読んで
空海の第十心論も、ようやく最後の段階にやってきたようです。ま、ページをめくればたどり着くのは簡単ですが、私の理解力ではまったく見えない世界というか内容になっています。その意味では、空海が説く「空」かもしれません?それは勝手ないい加減な解釈ですが・・・
ここで最も大事な?<第十 秘密荘厳心>(ひみつしょうげんしん)について、なにかを引用して私なりの考えを示そうかとも一旦は思いましたが、なにもわかっていないのに、引用するのも失礼な話しなので、やめることにしました。
吉村氏はこの第十を「密教の心」として、真言密教の到達点のような取り扱いをしているようにもみえます。
解説はやめるとして、吉村氏がいろいろ書かれ、他の著作による解説を引用などをして、内容を少しでもわかりやすく?しているのでしょうけど、具体の引用は全部やめます。
ただ、最初の冒頭くらいは、引用して、このテーマを読んでこられた方の参考になるかもしれないと思い、上記の言を撤回して、以下に書いてみます。
「密教と灌頂」という小見出しで、以下のようにまず空海の言葉を取りあげています。
「顕薬は齢を払い、真言は庫を開く。秘宝忽ちに陳じて、万徳即ち証す。」
これを吉村氏が次のように訳しています。
「病を治すための顕教の薬は、真実の宝庫の前の塵を払うもので、真言乗はその倉を開くものです。秘宝が直ちに並べられ、あらゆる徳を身につけます。」
続いて、吉村氏が顕教と密教の違い、後者における灌頂の意義を解説されています。
「ようやく第十の密教のところまでたどり着きました。仏陀のさとりそのものは、言葉を越えたもので、それを直接言葉で伝えることはできません。第一~第九までの顕教の教えでは、言葉を用いて言葉を超えた境地に導こうとすることがおこなわれています。それに対して密教は、言葉を超えた境地をダイレクトに師から弟子へと伝える教えです。そのためにおこなわれるのが灌頂という儀式です。」と。
では「灌頂」とはなにかについて、「加藤純隆・精一訳『空海「秘蔵宝鋪」――こころの底を知る手引き』により解説されていますが、最初だけ引用するにとどめます。
「第一の本能のままの住心から、次第に第九の住心に進んで来ると、心の内と外に付着
していたよごれもすっかり精錬されて、私達の心に本来そなわっていた憂茶羅の荘厳が
ようやく聞くのです。・・・」
では、第十の中身は何かとかは、先に述べたように、第四~第九もわかっていないわけですので、これはもう勝手な解釈はやめて脱帽してここで終わりとします。
で、私には即身成仏とか、色即是空とか、わからないなりに現代の現象を考えるときに、転ばぬ先の杖?というか暗闇を照らす一隅の灯りに見えるのです。
たとえばという、これまた飛躍的な話しですが、毎日朝刊の記事を2つ取りあげたいと思います。一つは今最も輝いている映画監督の一人河瀬直美氏による<たたなづく心に刻んだ記憶 記録する感動>と、もう一つは作家・高橋源一郎氏による回答<人生相談彼がいるのに目移り変?>です。
いずれも空海の第十心論とはまったく関係がないのだと思います。ただ、私の場合、空海ならどう見るのかなとか、時折ふと思ってしまうのです。
で、河瀬氏は自分の生い立ちを踏まえて、映像に残す意義を研ぎ澄まされた感覚でまるでその映像が流れるように語っています。それは空の世界とは違うかもしれません。色即是空を示すものでもないのかもしれません。でも、私にはそれに近い感覚を感じるのです。
一つは、彼女が生まれ、育った偶然という契機、また、血縁のつながりを超えて養父母との結びつきによりその心証形成が彼女の骨格を作っているという点です。そういった説明ではうまく言い表せていないことはわかるのですが、ただ、私が指摘したかったのは血縁関係を超えた家族においても人間が本来もっている豊かで微妙な感性を育てることができると河瀬氏の生き方から感じる点です。
もう一つは、河瀬氏自身の言葉、<わたしにとっての映画とは、そんなかけがえのない、「記憶」の「記録」からはじまっている。>というものです。記憶は刹那的であり、記録は永続的であるとも言えます。しかし、ある心の中に残る記憶は、ある事実を切り取り想像して映像で記録することにより、記憶の再現になる場合もあれば新たな記憶の想像にもなるように思うのです。それは人と人、人と社会の営みが瞬時に生まれ、消えていくものであるとともに、人の記憶の片隅や、なんらかの記録に残ることにより、いつでも再生される可能性のある、空であり、無でもあり、また色でもあるように思えるのです。
源ちゃん(とまったくご存じないのですが、あえてここだけで言わしていただきます、あまりにいつもその回答に同感するところがあるからでしょうか)の今回の回答も切れ味がいいです。
まだ20裁の女性が、高校時代から付き合っている男性がいる中で、あるすてきな男性に巡り会ったことから、「他に好きな人ができたという理由で別れるのは不誠実でしょうか?」と悩みを訴えています。
これに対して源ちゃんは、悪魔のささやきと称して、次のように回答します。私も同感です。
<恋をすることで、あなたはたくさんのことを知り、たくさんのものを得て、同時に、失うことも知るでしょう。つまり、人間がどういうものであるかをよく知ることになるでしょう。・・・だから、わたしの回答は「新しい出会いに進みなさい」です。>
ここで大事なのは、執着から自由になることではないかと思うのです。それはこの女性が付き合っていた男性の視点からいえば、女性が他の男性に惹かれていったとき、ストーカー的な行為はもちろん、あきらめきれない気持ちをいかに制御できるかが試されるように思うのです。女性のことを好きであれば、その女性が新たな船出を試みるのであれば、その男性がストーカー的な危険性のある人の場合は別にして、その女性の気持ちを尊重することこそ、本当に好きであり続けることができるのではないかと思うのです。これはいろんな考え方があっていいかもしれませんが、執着だけは避けたいものです。
ところで、仏教の五戒の一つは、「不邪婬戒(ふじゃいんかい)で、 不道徳な性行為を行ってはならない。」とされています。これは優婆塞など俗人向けですね。出家の僧は女性を近づけてはいけないということなんでしょうね。現在は違いますが、親鸞の浄土真宗以外は明治維新までそういった建前があったようですね。
では、理趣経はどうなんでしょうといつも気になるのですが、これも難解な内容なので、ぱらぱらとしか読んだことがなく、あいまいな知識で述べると、空海が最澄にその経書の貸出を拒絶した趣旨を理解しないことになるのでしょうね。
ま、ややこしい話になってきたので、源ちゃんの回答、万歳で終わりにしておきます。
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