171101 人と触れあう <認知症対応とユマニチュードへの期待>
昨夜NHKBS1だったと思いますが、認知症の将来と今後を取り上げる中で、「ユマニチュード」が行われ、劇的な変化が見られました。
残念ながら、この番組をきちんと見ていないかったので、内容把握が正確でないと思い、NHKの番組を探しましたが見つかりませんでした。
それでウェブ情報を参考に少しだけ取り上げます。
<誰もが学べ、実践できるユマニチュード。5つのステップで患者の心に近づく>では、この開発実践を行っているフランス人・ジネストさんがその由来、コンセプト、システムを話しています。
<、『生きているものは動く。動くものは生きる』という思想があります。ですから、この世界に入ったとき、大変なカルチャーショックを受けたのです。例えば、ベッド上で行われている清拭や、ケアを目的とした拘束などといった“不動”は、人の健康を退化させるのに、と」
その信念はまさに人間本来のあり方を追求するものです。<ユマニチュードの特徴は、「最期の日まで人間らしい存在であり続けることを支える」という哲学と、それに基づいたテクニックにある。「新たなメソッドを確立できたのは、既成概念のないまっさらな状態で発想してきたから。そして、先立つ理論があったわけではなく、多くの失敗を経た現場の経験から生まれたメソッドだからこそ実践的なのです」とジネストさんは語る。>
言葉の壁、文化の壁が日仏で大きいのではないかと不安があるはずですが、<、「日本にやって来て実際にケアをしてみると、自分の手を握ってくれる人、キスを返してくれる人は大変多く、日本でもユマニチュードは有効だと思えました。>私がNHK番組でその実際を見て、そのとおりと思いました。
その方法はよりシステマテックです。<ユマニチュードでは、前述した〈見る〉〈話す〉〈触れる〉〈立つ〉といった要素をバラバラに実践するのではなく、“話しかけながら相手に触れる”といったように、常に2つ以上の要素を組み合わせて行い、さらにケアの全てを「心をつかむ5つのステップ」という一連のシークエンス(一続きのもの)のもとに行っていく。>
このことを本田氏が解説して<「5つのステップは、①出会いの準備、②ケアの準備、③知覚の連結、④感情の固定、⑤再会の約束、から構成されます。5つの段階のなかで、清拭などのいわゆるケアを実施するのは3番目のステップで、その前には、自分の存在を知らせる〈出会いの準備〉をし、ケアの後には、『きれいになって気持ちよかったですね』と語りかけるなどポジティブな感情を伝え、次回へとつなげる締めくくりをするのです>というのです。
さらに具体的なケアの場面での具体化を展開しています。<ケアの場面においてはどうでしょうか。私たちは、ドアをノックすることはあっても、相手の反応を待たずに布団をはがし、入室した数秒後にはおむつに手をかけてしまっていることはないでしょうか。これでは、コミュニケーションにおける重要な手順である①②をとばして、いきなり③のケア行為に入ってしまっています。>
で、私が昨夜のNHK番組で見たのは、ジネストさんが患者ないしは利用者に具体的に行う内容です。ある意味とても自然で、柔らかい対応です。まるで赤ん坊に接するような。
ジネストさんに会う前は、怒りっぽく、数人の同種の方がテーブルを囲んでいるのに、その人たちを無視して、一人大声で怒っているのです。その険悪な表情は人を寄せ付けないものでした。
ところがジネストさんが、車椅子の彼女の前に膝をついて座り、目を直視し、語りかけながら、体に触れるのです。すると彼女の表情が怒りがなくなり打ち解けたリラックスしたように変化が見られました。さらに立ちましょうとジネストさんが言うと、なんと彼女は立ち上がろうとするのです。支えながらでも立ち上がりました。それを見て、いつも介護している方でしょう、泣き崩れました。うれしかったと思います。
それは彼女だけでなく、ジネストさんが試みるユマニチュードは、多くの人に効果が現れていました。
それまでベッドで寝たきりの方に、体位変換などを行うとき、安全に行うことが注意されますが、最初に声かけをしてもすべての作業は黙って行うのが普通だと思います。ところが時ネストさんは、足を上げる、体のどこに触れる、など一つ一つの動作について前もって言葉をかけるのです。まさに人に対する接し方、触れあい方ではないかと思うのです。
むろん終わった後も声かけをするのですが、患者の表情が一変します。そして立ち上がりましょうというと、無理にでも立ち上がろうとするのです。その方はその後、自宅に帰り、簡単な歩行訓練サポート器具をつかって、すでにある程度の歩行ができる状態になっています。なによりもその表情がすてきです。
ジネストさんの方法は唯一絶対ではないと思います。でも人と接する介護のあり方として、あるいは認知症予備軍の方、すでに認知症初期の方、さらに悪化している方、それぞれに応じて、本来あるべき対応の軸を示しているように思うのです。
多くの方は、家族の中に認知症の症状のようなものが見られても気づかなかったり、悪化して突然徘徊したり、怒りを発散したり、すぐに忘れてしまったり、あるいは家族の識別ができなくなったり、発語がなくなったりすると、どうしようもない、とあきらめて本来の人としての対処を少しずつ失ってしまっていないでしょうか。
少しでも変化に気づいたら、いや気づく前でも、ユマニチュードを理解してその中で、症状に応じて利用できるものはそのまま、あるいは応用して実践してみることで、人間関係がうまくいったり、さらに認知症状の発現が遅れることが期待できるのではないかと思うのです。
認知症状は、発症まで四半世紀かかると言われています。アスベストは長いと半世紀の場合もあるようですが、それに比べればより短いと思いますが、いずれにしても長期間かけて潜在的な、いわば時限爆弾を抱えているのですから、それはだれもが直面する課題で、まさに死に匹敵するくらい確実性が高いものです。
それへの対処は、ある意味、以前、触れた五木寛之氏の「玄冬の門」のごとく、生まれる段階と、死ぬ段階とほぼ同じ状態を前提に、対処するという自覚があっても良いのかもしれません。
赤ん坊がいくら泣き叫んでも不機嫌でも、文句を言う人はいないでしょう。言葉を発せられないことも当然、歩けないのも当然です。でもだれもがいかに優しく接して触れあい、その笑顔を求めるのではないかと思うのです。私もユマニチュードのメソッドや精神を学んでみたいと思うようになりました。
と同時に、わが国の各自治体が、それぞれ競って、こういうシステムを導入する方向で舵を切ることを競い合うことができないか、そういう自治体の出現を期待しています。わが町は、高齢者が健康で、認知症の方も笑顔で歩いていることを標榜するようなそんな町を・・
なお、ウィキペデアでは、<ユマニチュード(仏: Humanitude)>について、<包括的ケアメソッドのひとつ[1]。ひろく用いられているが、特に高齢者と認知症[2]患者において有用とされている。ユマニチュードとはフランス語で「人間らしさ」の意[>
ユマニチュードではまず評価を行う。
- 回復を目指す
- 機能を保つ(悪化しないようにする)
- 共にいる(そばに居て、穏やかに死を迎える)
といういずれの 段階にあるのか、評価する。
ケアの実施にあたっては
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