180207 空海に学ぶ(5) <第五 抜業因種心>と<増える“子どもがほしい”同性カップル>への対応を考えてみる
吉村氏の仏教入門は、第四以降になると、どんどん縁遠く感じるのは仏教の心得が欠けているからでしょうか、仏教用語がわからないこともあり、その段階の差も混沌としてきます。
ま、わからないなりに、最後まで続けるかはともかく、もう少し背伸びしてみたいと思います。
今回は「第五 抜業因種心」(ばつごういんしゅしん)ということで、これは「独覚の心」(どくかく)ということのようです。
ますます仏教特有の世界に入り込み、他の仏教を念頭に置きながら解説しているように思えます。その意味では世俗の世界、現代社会の複雑多様な悩みを超克している、あるいは普遍性を求める内容のようにも思えるのです。
今回は割合、簡潔な説明に終わっています。見出しも、「十二支縁起を観想し解脱する」、「三世両重(さんぜりょうじゅう)の縁起」、「声門・独覚の限界」の三つだけです。
「十二支縁起」が何かとかをまず理解しないと感想も解脱もできないわけですが、これも難解ですね。
空海の言葉では「身を十二に修して、無名種を抜く。業生己に除いて、無言に果を得。」ということでしょうか。吉村氏の読み下しでしょうか、それを現代訳にすると「十二支縁起を観じて、苦しみの根源である無明の種を除きます。原因がなくなれば、それによって積まれる業とそれによる生も除かれて、その結果として、言葉で教えを説くことのない独覚仏の境地を得ます。」というようです。
私なりの理解では、「十二支縁起を観想し解脱する」ということは前者により苦しみの根源である無明の種を取り除き、苦はなくなるという風にも思えるのです。苦の原因がなくなる結果、言葉ではない、ここでの目標、「独覚仏の境地」に至るということでしょうね。
素人には具体的イメージが意識の中に取り込むことが容易でないですが、なんとなくわかった気になりそう?とも言えます。
従来の宗派の説明では、「三世両重(さんぜりょうじゅう)の縁起」の三世は、前世、今世、来世で、それぞれ煩悩、業、苦としての生があり、十二支縁起を分類説明するようですが、空海は独自の説明をしているとのこと。どちらにしてもこれだけではなかなか理解に至りません。
最後の「声門・独覚の限界」は、第五住心の中核になるように思い、その趣旨の空海の言葉もあるようですが、他方で最後にはその限界で締めくくられていると指摘されているように思います。声聞・独覚自体を理解することが容易でない、いや無理なのに、その限界と言われても・・・ ともかく最後のまとめ的な部分を引用しておきます。
「で仏陀を目指す菩提心が生じるのは、過去に仏陀を信じた縁で、諸仏菩薩の加持力を得ることによってである。そうやって長い長い時間をかけてようやく仏陀の境地に至るのだから、声聞・独覚の智慧は狭いものであり、それを願ってはならない」
これを理解するのはたぶん生まれ変わってからかもしれません・・・
ところで、今朝のNHKおはよう日本では<増える“子どもがほしい”同性カップル。妊活や子育てを取り巻く現状は?>が放映されていました。
同性カップルの結婚自体がようやく社会の中で一部で認容される方向に動いている中で、こんどは子どもを育てたいという要望が強まっているというのです。
画像に現れたカップルは女性同士が多かったような印象ですが、ともかく相当数のカップルが子育ての希望を強く持っているようです。
私自身、同性カップルの存在は特段違和感を感じることがないようになってきましたが、子どもを育てるということもその延長で自然な流れかとも思うのです。
ただ、それが体外受精で自分のお腹で育てるという希望については、多少ひっかかります。それは血縁というものにこだわるのでしょうか。そうでなく胎児かとして自分のお腹で育て出産し、その成長に携わりたいという、肉親の感情からでしょうか、それはこの番組だけではわかりませんでした。
世の中、幼子が両親と離れたり、虐待を受けて一人で育てられている、気の毒な例はたくさんあります。そういう幼子への気持ちはないのでしょうか。どうもそこが気になります。
もし血縁にこだわったり、自分のお腹で育てたいという気持ちが強いのであれば、なぜそういう心のあり方が当然の要望なのか、改めて考えても良いのではと思うのです。友人であろうが、全く知らない赤の他人であろうが、精子の提供を受けてまで、子を産むには、それなりの合理性・必要性を他の選択と比較して検討されても良いのではと思うのです。
人のそれぞれの欲望は、とどまることがないと思います。その欲望を時代に応じてどう調整というか調和的に解決するか、それはその個人と社会が真剣に考えていかなければならないものでしょう。
わが国の産婦人科学会のガイドラインでは、男女のカップル以外には、体外受精を認めない対応をしているようですが、現代の状況では合理性があるように思えます。むろん同性カップルの要望も今後しっかり受け止めて検討する必要がありますが、親としての要望だけで対処することは望ましいあり方でないことは学会も承知しているから、あまり動きがないのかもしれません。
他方で、子の将来を考えたとき、いまの社会で受け入れ体制がどこまでできているのか、慎重に考える必要があるでしょう。しかも他方で、いったいどのくらいの幼児・赤ん坊が捨てられ、あるいは虐待を受け、そうでなくても親子間がうまくいっていないか、その問題への解決・対応が十分できていない中、はたして親になりたいという要望だけで、対処して良いかは慎重な判断が求められると思います。
空海の十住心論は、現代の様々な苦痛・悩みの切実さ、真剣さにどう答えてくれるのか、それは空海思想を体現する僧侶をはじめ、思想を承継する人たちの役目でもあるように思うのです。かれらは、こういった問題について、いや次々と起こる問題について、より発言をしていってもらいたいと思うのですが、それは期待できないのでしょうかね。
それこそ空海の現代的な意義であり、かりに高野山信仰がさらに人の救いとなることを願うのであれば、それこそ期待したいところです。それは観光に訪れる場所といった「誤った」広報を是正する意味でも、また、財テクに走ってしまった金剛峯寺財務会計のあり方を是正する意味でも、考えてもらいたいと思うのです。
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