190202 歩く道(その8) <吉宗と才蔵を意識しながら和歌山城と周辺を歩く>
いつも何冊か同時並行で読んでいますが、最近は藤本清二郎著『奇襲藩主徳川吉宗』に少し惹かれています。吉宗について書かれた書籍は相当数にのぼり、おそらく読み込むのは私には無理かなと思っていますが、それは吉宗の多彩な才能と同時に伝説的物語にも関係するのかもしれません。
ただ、多くの吉宗像はやはり徳川八代将軍としての活躍というか業績が中心で、奇襲藩主時代は割合さらっとしか取り上げていないように思います。むろん小説だと、以前紹介した津本陽著『南海の龍』などでは秘密のベールのように包まれた生誕から青年藩主時代を痛快に描くだけでなく、農業生産増大の中心となった土木技術者才蔵を丁寧に描き、二人の対話場面まで用意しているのですから、さすが地元出身の作家だけあると思うのです。
ところで、藤本氏は歴史家で専門家の立場から、従来流布している吉宗伝承や歴史学者の見方に異論をはさむかのように、見逃されている紀州藩主時代に絞って、吉宗の業績を適正に評価しようと取り組んだのがこの著作です。吉川弘文館から発行されているだけあり、文献の裏付けを基に新説を唱えています。
吉宗の母方の祖母は、彦根を追い出され、結婚した夫とも死に別れ、男女二人の子を連れて熊野参詣する途中、和歌山市橋向丁にある大立寺の門前で伏せていたところをその和尚に助けられ参詣を終えた後もその世話で城下に暮らし、娘は藩士の下女を経て御殿奉公中、藩主光貞の子を宿し、吉宗を生んだのです。
驚きました時折訪れる和歌山地裁などに行く途中の道沿いに、大立寺がひっそりとした門構えで立っているのです。いままで知らなかったので今日はしっかり見ました。
藤本氏は、この母親の身分から生まれ、徳川御三家の藩主となり、徳川八代将軍となったこと、その吉宗が行った数々の施策の中に、この生誕にまつわる因縁といいましょうか、卑賤的身分から殿上人になったことを意識しつつ、乞食など弱者に対する救済策を、施策の基本においたように指摘するのです(藤本氏の指摘とは異なる表現ですけど私が受けた印象です)。
吉宗が救貧対策を行ったり、健康保険制度のない時代、貧者に治療を施す施策を行ったことは将軍時代の施策としても有名ですが、その源は紀州藩主時代にあり、その背景は生誕にあったともいえるのかもしれないというのです。
また、吉宗が将軍になるとき、その紀州藩での財政改革がすぐれていた成功したと言われることがありますが、藤本氏は吉宗独自の施策とは捉えず、父光貞時代からの倹約(他方で綱吉娘との婚儀費用や将軍御成費用に莫大な支出をして財政赤字が拡大したとも言われていますが)、干拓・用水開削・ため池修補などにより農地拡大・生産増大をすすめ、吉宗は長兄を経てその施策を引き継いだもので、吉宗独自の施策ではないとも指摘しています。
とはいえ、光貞時代に地方巧者として藩に取り立てられた才蔵が、次々と用水路開設をすすめる中、私が関心を持つ小田井用水は、これまでとは比較にならない長大な計画であったと思いますが、宝永2年(1705年)吉宗が藩主となった後、2年後の宝永4年(1707年)に開始し、その年の12月に伊都郡5千石分を完成しています。
その後も小田井は工事が継続し、才蔵が年齢(74歳)を理由に職を辞退した後に完成しています。才蔵を取り上げる際、いつも灌漑用水事業(ため池、井堰、用水路)を念頭に置いて水利に焦点をあて、いわば広義の治水事業をしたかもしれないけれど、治水事業についてはあまり行っていないのではないかと思っていました。
しかし、藤本氏は、吉宗の重要な資質というか才能が、危機管理能力に合ったのではないか(そういう表現はしていませんが)とでもいうかのように、宝永大地震・津波被害とその対応、正徳4年大凶作・飢饉対応に果敢に挑んだ吉宗の経験は、幕府が抱えるさまざまな問題に対処できる能力を持つ唯一の将軍候補となったというような見方ではないかと思うのです。
興味深いのは小田井開削工事を開始したのが宝永4年5月ですが、宝永大地震大津波は同年10月4日(旧暦)です。才蔵は地元学文路(禿)でその揺れを感じたとのことで、内意陸にも相当な影響があったかもしれません。それはともかく小田井工事は人に任せたのか、同年10月から翌年9月まで海岸地域の被害見聞をしています。才蔵の災害見聞能力の高さが認められていたのですね。
なかなか歩く道の話ができませんが、そんな思いを描きながら、今日は和歌山城の天守閣や御殿跡を見たり、多様な作りの石垣を見たりしながら、城内を歩き回りました。石垣の多様さは少しも勉強していませんでしたので驚きです。積み方がいろいろで、傾斜角30度もないような緩やかな勾配もあれば、80度近いところもあったり、当然ながら石の材質も全然違うものが場所場所で使われていました。昔、境界紛争で石垣の一つ一つをデジタル化して、名前は失念しましたが、立体化したうえで、平面に落として元の境界線を描き出すという作業をしてもらったことがありますが、懐かしい思い出です。
そういえば鞆の浦の架橋差止訴訟でも、景観の構成要素となる石垣についてそのようなデジタル化作業した成果を使わせてもらった記憶です。石垣もほんといろいろで少しくらい勉強しても複雑ですぐ忘れてしまいます。
その石垣との関係で、藤本氏は、紀ノ川の近世までの河口への流れであった水軒川にある水軒土堤防について、才蔵が津波被害の見聞で、破損を確認したと指摘しています。この水軒川は先の道を歩くの雑賀のとき、歩いた場所でした。今日は城歩きに時間がかかり、水軒土石垣堤防まで歩く時間がなかったので、その石垣堤について吉宗築造伝承に疑問を指摘する藤本氏の見解を現地確認することができませんでした。
その代わりといっちゃなんですが、少し手前の和歌川をちょっぴり歩いたり、和歌山中心街に近いところを歩きました。和歌川は中心街ではテラスを設け歩けるようにしたり、通りから降りる階段も用意したりしているのですが、いつ頃だったのでしょう、いまはうち捨てられた状態で、なんとも悲しい川の景観です。川幅は20mくらいあるのでしょうか、水量もある程度ありますし、流れもわずかながらありますが、なんしろ水の色からして水質の悪さを感じます。プラスチックゴミもあちこちにぷかぷか浮かんでおり、これでは道頓堀のように飛び込む御仁もいないでしょうけど、残念な風景です。
川に面したビルもたいていは川面を利用するといった風ではなく、見えないように背を向けている印象です。東京品川当たりの運河も、以前はひどかったですが、バブル以降でしたか割合整備して川床料理ではありませんが、川を楽しめるようなレストランなどいい風情の飲食店などが増えて、川も町も活きている印象がしてきたように思うのですが、和歌川は吉宗が生きていたら激怒するかもしれません。
まちなみを歩きましたが、都市計画というか区画整理でしょうか行き届いているようで、どうも昔の町割りを偲ばせてくれるようなところは見かけませんでした。まあちょっと歩いたくらいでは分からないかもしれませんけど。せっかく江戸時代から続くような町の名前を冠した住居表示を残しているのですが、その面影を見いだすことができませんでした。
だらだらととりとめもなく書き続けてしまいました。歩く道も焦点が絞れなかったのは致し方ないですが、藤本氏の著作はいつか別の機会に整理して紹介したいと思います。
今日はこのへんでおしまい。また明日。
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