181012 刀狩りの効能 <NHK日本人のおなまえっ!魚偏漢字の謎>などを見ながら
田舎で仕事をしていると、時折自然の恵みの恩恵をいただく機会があります。突然、以前仕事をした依頼者が訪問して、これうちでとれたのでと箱入りのものをもってきてくれました。「松茸」と箱に書いてあって、仕事は事業をやっていたはずだけどと思ったら、うちの山で今朝とったものですというのです。ちょうど来客中でしたので、簡単なお礼で終わりました。
後で箱の中を見ると、普段スーパーなんかで見たことのないでかくて美しい松茸でした。料亭でも食べたことがないほど見事な物で、お礼の電話を入れました。すると以前はたくさんとれたとか、今年は雨が多かったとか、申し訳なさそうにいうのですが、すると以前はもっと大量、それももっと大きい物がとれたのかとまたまた驚いてしまいました。そうなんですね、田舎はなんにもないとかいうけど、自然の恵みはやはり豊富ですね。
ところで昨夜、NHKの<ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ!【鮪!鮭!魚偏漢字の謎】>を途中から一部見ました。その中で、魚偏の漢字が歴史的にぽーんと増大する時期の一つ、江戸時代のところでした。戦国時代を経て江戸時代に入って平和な250年の間に魚偏の漢字が増えた、というか魚種がたくさんになったということでした。
その理由はある政策によるといわれてもなかなか検討つきませんね。なんと刀狩りでした。それまで日本中を所狭しと活躍していた海賊たちが、この刀狩りによって、槍・刀・鉄砲などの武器を全部没収されたことにより、強奪事業?としても、傭兵事業としても、家業を続けられなくなったのですね。それで転職というか、新たな産業を興したというのです。それは本格的な漁業です。沿岸漁業はもちろんのこと、遠洋漁業も得意な分野として活躍することになったのです。
船は、海賊船として養った速くて丈夫な構造船のような形状だったのでしょう。漁業の道具も武器製造に関わっていたり利用してきたので、漁業にあった道具の開発も容易だったのでしょう。それで鱈とか鱧とか、どんどん新しい魚類を収穫していったのでしょうね。江戸の台所が豊かであった要因の一つが刀狩りとは驚きです。
NHKの古館氏の番組では魚偏がテーマでしたので、海賊が専門漁業者になったことでおわったのですが、私の関心は、百姓という農民であり、また、中世を支配した寺社勢力の中核的存在の僧侶(行人や聖)、神人です。
近世という時代に入った17世紀から、水田・畑面積も、農業生産も飛躍的な増大を示しています。私が関心をもつ大畑才蔵による大規模灌漑事業以前の、17世紀初頭より日本各地で灌漑事業や新田開発が行われています。近世で一番増大した時期ともいわれています。その背景は、海賊と同様、刀狩りが大きな要因の一つであったと思います。とりわけ戦国時代は、百姓も武器をもち、農地を守るだけでなく、傭兵として戦線に参加し、農地拡大など農業に専念できない状況があったと思われます。
むろん平和な社会の構築と、士農工商という身分制も農民が農業に専念することになったことの背景にあるでしょう。近世は農具の開発も進みましたし、灌漑技術も飛躍的に進展しました。百姓として農法の研究開発も農書という形で、各地で競い合うように作られ、流布していったと思います。
では寺社社会はどうだったのでしょう。たとえば、紀ノ川沿いは戦国時代、河口付近が雑賀衆(これは海賊ないし傭兵が中心でしょうか)、隣接して根来寺を拠点とする根来衆が70万石とか、その隣中流域の粉河寺は数十万石、上流にある高野山金剛峯寺は17万石と、大変な勢力であったわけですね。
その寺社勢力には金貸しという金融力に加えて、大荘園領主という農業支配、そして軍事力を兼ね備えていたと言われています。それは教義を学び修行に専念する学侶ではなく、行人という多様な職種の集団が武力を背景に、金融や貿易などをも駆使し、力を拡大したと言われています。
秀吉はこれら紀ノ川流域の勢力のうち高野山を除きすべて軍事力で壊滅させました。高野山が降参した後紀州に初めての刀狩りを布告し、その後に全国に展開しています。
その結果、寺社の中には表だっては武器がある状況にはなかったと思います。家康が秀吉との小牧長久手の戦いのとき、高野山に鉄砲の用立てを依頼したといわれています。高野山以外には鉄砲製造を裏付ける根拠がない、逆に言えば高野山のみが鉄砲製造が可能であった資料があるとも言われています(私が確認したわけではありません)。
なぜ余分のような話をするかというと、以前のブログでなんどか取り上げた高野元禄裁許と関係するのです。高野山行人1000人近くを追放等の処分し寺も1000か寺くらいを廃止したという1692年の寺社奉行による橋本での大がかりの裁判です。その裁判に当たり、江戸から500人近い武士を連れ、紀州藩も1万人以上が備えていたというのですから、高野山行人に対する恐れは相当な物だったと思われるのです。それが高野山人には当時、相当な武器が隠されていて、抵抗される可能性をおもんばかっていたのではないかと考えるのです。
とはいえ、いずれにしても寺社には中世まで力の根源の主要なものであった武器をとられたわけですから、僧侶であれば本来の宗教活動に専念し、あらたな宗教文化・社会をつくったのではと思うのですが、そこがどうもはっきりしません。
中世には一定程度導入されていた葬式仏教や高野山墓地への納骨といったことが、檀家制度の創設により、さらに進化したのかなと思う程度なのです。鎌倉期のような宗教改革ともいうべき新仏教は起こっていないといってもいいかと思うのです。この点はもう少し勉強したいと思います。
今日はこのへんでおしまい。また明日。
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