170126 韓国と日本 <「帝国の慰安婦」著者無罪>を読んで
今朝は当地では今期一番の寒さかなと思うほど、体にしみ込むような厳しさでした。高野山はマイナス13度とか。それに比べれば暖かいのですが。
さて毎日朝刊では、相変わらずトランプ暴風をはじめ、いろいろ情報が提供されていましたが、見出しの記事に興味を惹かれました。
著者の韓国・世宗(セジョン)大の朴裕河(パクユハ)教授は、以前、BSフジ・プライムニュースにも登場して、自分の著作が問題になっていることを踏まえて、議論されていました。そのときの印象が温厚で複雑な議論を丁寧に解説されていたので、好感を抱き、その後だったと思いますが、「帝国の慰安婦」を通読しました。
同書の日本版が出るまでは、慰安婦問題で日韓で議論されても、強制があったかどうかとか、軍が関与したかどうか、といった議論が中心ではなかったかと思います。植民地支配という帝国主義の思想はあまり大きな論点ではなかったように思うのです。
朴氏の見解は、多くの慰安婦に聞き取りして、そのオーラルヒストリーを基礎にしつつ、さまざまな文献資料など、その背景を追求し、帝国の存在こそ問題であったと捉えていたと思います(斜め読みと記憶なので不正確です)。
私自身、韓国の歴史を勉強したこともなく、日本史から見た朝鮮の半分程度の理解も危ういわけです。最近、古代史に関心をもつようになり、自然、朝鮮史として紀元前から7世紀ころまでは書籍を目にするようになった程度です。そのような私が朴氏の問題を軽率に取り上げるのはできるだけ避けるべきと思いつつ、朴氏の類い希な勇気とその洞察力、それと暖かい思いやりを感じさせてくれる議論の姿勢を見て、やはり一言言っておきたい気持ちになりました。
上記記事にもあるように、<元慰安婦の李容洙(イヨンス)さんらは2014年6月、朴教授を刑事告訴し、検察は15年11月に在宅起訴。>その内容は<著書にある「元慰安婦は根本的に『売春』のくくりにいた女性たち」「朝鮮人慰安婦は日本軍と同志的関係にあった」などの記述は虚偽で、名誉毀損にあたると主張し、昨年12月、懲役3年を求刑した。>とあります。
なお、上記記事では「売春のくくり」として著作を引用していますが、たしかそのような記述自体はなかったのではないかと思います。この「くくり」という用語はわが国には該当するものがないのではないかと思います。検察官が引用を誤ったとは考えにくいので、翻訳が正確なのか、あるいは当時の朝鮮ではそのような施設の表現があったのかもしれませんが、ちょっと指摘しておきたいと思います。朴氏は、翻訳文では「売春施設」といった表記をしています。そして「売春婦」という表記をして、慰安婦か売春婦かの表現上の問題より、植民地支配にあったこと、帝国の支配にあったことが問題だとされていたかと思います。
たしかに「朝鮮人慰安婦は日本軍と同志的関係にあった」との記述があり、韓国人としてその評価は勇断のいる内容だと思います。ただ、朴氏自身がみずから聞き取りした多くの慰安婦の肉声から、また先人の残した記録から、そうとしか考えにくい事実を積み重ねたうえで、その評価に到っており、相当の説得力をもつと思いました。事実、特攻隊に志願した朝鮮人の方々や朝鮮内で日本人と生活を共にした人にはそのような意識がうかがえることも別の文献や報道で指摘されています。
日韓が売春婦か慰安婦かと、強制か否かを対立して議論している中で、わが国と朝鮮・韓国との関係がどうであったか、当時の状況を克明な調査を基に帝国がもつ脅威を、日本以外のそれをも示しながら論述する内容は、どのような立場に立つとしても、多くの日本人が一度は読んでみる価値があると思うのです。
とはいえ、元慰安婦の方が、このような記述を取り上げて、名誉毀損として告訴することも理解できる面があります。朝鮮人慰安婦としてすべての慰安婦が同志的関係にあったとすることは、個々の人の心情や、慰安婦になった経緯の違いを考えれば、当然な憤りだと思うのです。その意味では、この記述は、いくら多くの慰安婦からの聞き取りなどを根拠としているとはいえ、言い過ぎではないかと思ってしまいます。しかし、それは朴氏が丹念に個々の事実を積み重ね、問題の本質をつかみ取ろうと悪戦苦闘して得た根底的な評価を適切に理解したものとはいえないのではないかと考えます。
この「同志的関係」ということは、私自身まだ違和感を抱いていますが、研究者の真摯な研究成果として提示された判断として、やはりその内容はしかるべき評価に値すると思うのです。少なくとも、特定の個人の名誉を毀損する意図は、いささかもなかったと思うのです。
この点、検察官は、産経ソウル支局長の逮捕・起訴の場合も然り、今回の朴政権の汚職にかかわる起訴、特に大統領に関するものなど、とても司法の独立の一翼を担っているとは言いがたい印象を抱くのは日本人の場合少なくないように思います。
その意味で、ソウル東部地裁の判決は、司法権の独立が示されたのかなと少し安心感を抱いています。
これを書いている途中で、新しい記事がウェブ上に掲載されましたので、取り上げたいと思います。
もう一つ、韓国裁判所が出した判決は、残念な内容です。毎日記事速報だと、<2012年に長崎県対馬市の観音寺から盗まれ、韓国内に運び込まれた長崎県指定文化財「観世音菩薩坐像」の所有権を主張する韓国の浮石寺(プソクサ)が、仏像を保管している韓国政府に対して引き渡しを求めた訴訟で、大田地方裁判所は26日、原告側の主張を全面的に認め、韓国政府に対して仏像を浮石寺側に引き渡すよう命じる判決を言い渡した。>とのことです。
問題の「観世音菩薩坐像」は津島市の観音寺が管理していた(所有権も認められる可能性がある)のが盗まれて韓国に渡り、現在、韓国政府が保管しているということですから、いくら韓国の浮石寺(プソクサ)が所有権を証明しても、その引渡を命ずることは法的根拠がないのではないかと考えますが、大田地裁は原告寺の主張を認めています。
記事によると、浮石寺の所有権を認める根拠としては、<像内にあった記録物に高麗時代の1330年を示す年号や「高麗国瑞州浮石寺」などと記されて>いること以外にはなさそうです。それ自体、所有権の根拠として薄弱ではないでしょうか。
次に、対馬へ搬出等について、<像内で発見された記録物に売買や贈与などの過程が記されていないことや仏像に一部焼けた痕跡があること>から正当な取引を裏付けるものがなく、むしろ<「略奪された根拠と見ることができる」>と判示しているようです。
そのような所有権の帰属についての判断にはいささか慎重さを欠くような判断過程や理由付けと考えますが、それは韓国の日本への強い反感を背景にしているのかもしれません。略奪したのは当時暗躍していた倭寇とも言われていることもその影響を感じます。
それにしても、観音寺が長崎県指定文化財として保管していたのを盗んで韓国に持ち込んだわけですから、まずは観音寺に変換するのが各国共通の法理ではないかと思いますが、世論の影響を受けたかのようなこのような韓国裁判所の判断は、司法権の独立の観点からも疑問を感じます。
日本と韓国は、長い歴史の中で古い時代には多くの文化芸術などや優秀な人材が日本に受け入れられ、また、相互に協力し合った時代があったと思うのですが、秀吉の時代、維新政府の時代など日本が行った侵奪や植民地支配、戦後も長く在日韓国人への差別など問題を残してきたと思います。そういった簡単な表現では言い尽くせないものがあり、そういう中で、司法の役割はより公正で独立したものであって欲しいを思うのです。
追加です。
毎日2月6日付けの風知草 山田孝男氏のエッセイで、朴氏の意見が引用されていましたので、補充します。穏やかで孤高の精神を感じさせてくれる、発言です。韓国人の集団行動に違和感を感じることもありますが、このような勇気ある個人を内心では受け入れている人が少なくないのではと思っています。
<「私が絶望するのは、求刑そのものではない。私が提出し、説明したすべての反論資料を見ておきながら見ていないかのように『厳罰に処してほしい』と言ってしまえる検事の良心の欠如、あるいは硬直に対してである。その背後にあるものは元慰安婦の方々ではなく、周辺の人々である。この求刑は、歪曲(わいきょく)と無知の所産である論理を検事に提供して、おうむのように代弁させた一部“知識人”たちが作ったものである」>
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