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たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

親の愛情と責任 <もう二度と 相模原殺傷事件1年 笑顔の娘、今もまぶたに>などを読みながら

2017-07-26 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

170726 親の愛情と責任 <もう二度と相模原殺傷事件1年 笑顔の娘、今もまぶたに>などを読みながら

 

今朝はどんよりした雲が天空を席巻していました。雲の動きも不穏な感じで、いつ降り出すかわからないような思いでした。ところが天気予報は曇りマークで降水確率はわずか。ほんとかいなと信用する気になれませんでした。この異常気象と局地的な気象変化には現在の天気予報では対応できないのでしょう。

 

案の定、朝食を済ませて、花に水やりをしようと外に出ると、ザッと落ちてきました。勢いよく雨が落ちてきて、雷もゴロゴロ鳴っています。やはり空模様は嘘をつかないなと思ってしまいました。

 

昨年の今日起こった見出しの事件、ほとんどの人がショックを受けたと思います。私自身、過去に同様の施設を定期的に訪問していたので、とてつもない衝撃を受けてしまいました。もし私が知っている方が被害に遭っていたらと思うと、ご家族の顔を思い出し、愛情一杯に接していたので、亡くなった方の遺族同様、誰にもいえない苦しい辛い思いをされたと思います。

 

相模原殺傷事件の被害者のご家族は、長く沈黙を通されていました。でもこのままだと自分の愛らしいこどもの生きた証が失われてしまう、理不尽な野蛮行為で奪われた命がいかに輝いていたか、本人も家族もともに喜びを分かち合えたことが、知られないまま、障がい者に対する社会の誤解が広がることを心配した親たちが少しずつ表に現れるようになったように思います。

 

記事では、ある女性の母親が描いたその子の似顔絵が掲載されています。そして<植松聖被告(27)は「障害者は不幸を作る」と繰り返した。>ことに母はとりわけ傷つけられたのだと思うのです。

 母は<「娘はキラキラした瞳で、多くの人に安らぎを与えてくれた。障害を持っていても、いろいろな力を与えてくれた。障害者が不幸なのではなく、そう思うことが不幸だと思う」

 裁判では「娘は不幸ではなく、無駄な命はないことを伝えたい」と思っている。>

 

子どもの突然の死、それも信じられないような理不尽な行為によって訪れた死に、親や家族は、なかなかそのことを受け止められなかったのかもしれません。また、こういった野獣のような暴力で被害を受けたなら当然のようにその心情を吐露し、子どもへの愛情を示すのが普通の親であるのに、長く沈黙を守ってきたように思うのです。

 

別の記事<もう二度と相模原殺傷事件1年 笑顔輝く君よ>によれば、事件から一年を迎えようやくその心情を吐露したり、愛らしい子どもの姿が写っている写真を提供したりして、親として子の充実した生きた証や家族が障がいを通じて助け合ってきた姿を示すようになりつつあるように思います。被害者となった多くの子どもたちの写真が掲載されています。

 

障がい者の子を持つ親としては、その姿を社会に示すことは、わが国ではまだまだ容易でない事情があると思います。しかし、どのような障がいがあっても、子は授かった命を懸命に生き、親もその姿に感動しながら、真の親になれた部分もあるのではないかと思うのです。

 

私自身、わが子にどのような障害があっても、その子とともに生きていくことが親のつとめでもあり、親になれる試練と思っていました。多少の病気はあっても障がいはなかったのですが、子がいつどのような事態になっても助けるのは親のつとめと思っています。それによって私自身が人間になれるのではないかと思ったりしています。助けることは自分自身がほんとは助けられるのかもしれないとも思うのです。助け合いというのは、助けるという行為の中に本来は自然に成立するのではないかとも思うのです。仮に一方的に助けるという気持ちでやっていれば、そこには真の助けにはならず、一方に負い目を感じたり、助ける方も負担になるように思うのです。

 

さて前置きが長くなりました。見出しの「親の愛情と責任」は、被害者の親についてというより、加害者の親について言及しようと思ったのです。

 

これまでの報道では、ほとんど加害者の親の状況はわかりません。むろん植松被告人はすでに26歳で、年齢的には独立した成人です。親の法的責任を問う話ではありません。

 

しかし、と私は思うのです。親としての倫理的責任は別だと思うのです。私の子が万が一、なんらかの重大な被害を他人に与えた場合、成人しているかどうか関係なく、親としての責任を免れようとは思いません。おそらくわが国の親はそのような意識を持つ人が少なくない、と思うのは現代では少ないのでしょうか。私は子の世話になるような生き方はしたくないですが、子が起こした不祥事が私の育て方になんらかの要因があると感じたら、それは親としての責任を甘んじて受けたいと思うのです。

 

とりわけ今回の異常事件は、植松被告人の事前の言動、事後の言動を見ると、その生育環境に大きな影響があったとの印象をぬぐえないのです。

 

私がウェブ情報で得たのは<相模原市の殺傷事件容疑者と両親の怒鳴り合いが近所に響くことも>といった概要的なものしかありません。それでも一つの参考になるかと思うのです。

 

彼は大学生の時、<将来に不安を覚えるようになっていく。刺青をいれたのは、その頃だった。>というのです。このこと事態、彼の両親はどう考えていたのでしょうか。

 

 <彼の不安は的中した。小学校の図工の教師をしていた父親の影響か、「幼少の頃から父親と同じ小学校の先生を目指していた」(近隣住民)という植松だが、夢だった教員の採用試験に合格することができなかったのだ。>というのですが、小学校の先生を目指していた人間が刺青をすること自体、ありえないことでしょう。

 

 <この頃の植松の様子を友人のひとりは、「あまりのショックで、一時的に引きこもりに近い状態だった」と話す。>これが真実なら、植松被告人はすごく気の小さい、おどおどしたところがあったのかもしれません。その彼に対して、両親が小さい頃から教師になることを強く求めたのかもしれません。でないとその教師になれないことの不安で刺青をしたりすることはありえないように思うのです。

 

一回の不合格で、引きこもりになったり、別の仕事に就くということも、本当は自分の希望ではなかったと思えるのですがどうでしょう。

 

ただ、卒業後<飲料メーカーの配送員として勤務するも、「給料が安すぎて、経済的にキツい」といって半年で退社。>というのですから、耐えることを家庭で学んでいない印象です。

 

<「長続きしない仕事のことや刺青の件で両親と頻繁に言い争いをするようになったようです。特に刺青に関しては、教育実習時の生徒や近隣住民に知られてしまい、両親が“消せ”と迫っていたそうです。夜中にお母さんが畳をバンバンと叩きながら泣き叫ぶ声も聞こえました」(近隣住民)>両親が彼の刺青を問題にしていたことはわかりますが、なぜ彼が刺青するに至ったか、そのことに両親が心を砕いたのでしょうか、単に感情的に責めるだけでは問題の解決とはならないでしょう。

 

その直後には<植松は事件の現場となった「やまゆり園」に非常勤として勤務。翌年4月に常勤の社員になった。>それも<「“小学校教師はハードルが高いから特別支援学校の教員を目指す”といっていました。その足掛かりとして、障害者施設に入ったそうです。>という安直な考え、それを許容する両親の態度には疑問を感じます。飲料メーカーの配送員がつとまらない人間が、小学校教師になるためにハードルの低い?特別支援学校の教員となる足がかりのため障害者施設に勤務するといった考え自体、障がい者に対しても、教員、教師に対しても失礼なもので、そのような彼の姿勢を両親がなぜ許したのか、疑問です。

 

<最初は仕事にやりがいも感じていたようですが、次第に“仕事が大変だ”と愚痴をこぼすことが多くなった。植松の体に刺青がどんどん増えていったのもこの時期です。

 両親の反対を無視して刺青を増やしたものだから、関係はさらに悪化。2013年の冬についに両親は、新たに中古マンションを購入して引っ越してしまったそうです。もはや親子関係は修復不能だったのでしょう」>

 

障がい者施設で働くこと自体、その当時の彼には無理があったのだと思います。それを無理に勤めさせ、継続を求めたことが、刺青の数を増やす要因になった可能性があります。

 

彼の両親、<図工教師を父に持ち、母親は美大出身で漫画家。>ということから<芸術一家に生まれ育ったためか、植松も刺青にのめり込んでいった。>という指摘がありますが、それは飛躍があるように思うのです。刺青というのは特殊です。両親が刺青についてなんらかの影響を与えたのなら別ですが、刺青に反対していたことからそれは考えにくいと思います。

 

両親がどのような子育てをしてきたかは、皆目わかりません。ただ、いえるのは両親いずれも芸術的な事柄に熱心だった可能性があるものの、子どもの感情に接する姿勢になにか問題があったことを感じられるのです。教師になることへの不安ということ自体が、両親からの圧力を感じさせます。その不安から刺青というのだとすると、彼自身家庭の中で心の自由がなかったことを感じてしまうのは少し飛躍がありましょうか。

 

いずれにしも、これだけの大惨事を侵した植松被告人と23歳ころまで一緒だったのですから、両親はその生育環境について、きちんと説明して、被害者および遺族の人たちに、真摯な思いを表すのが、人としての、親としての倫理的責任ではないかと思うのです。それは親は関係ない、過大な要望ではないかとの非難もあるとは思いますが、少なくとも私であれば、そうありたいと思うのです。

 

 

 


見聞と行動の間隙 <『何でも見てやろう』 ・・小田実の世界旅行記>を読みながら

2017-07-25 | 人間力

170725 見聞と行動の間隙 <『何でも見てやろう』 ・・小田実の世界旅行記>を読みながら

 

昨夜、録画してあったNHK<列島誕生 ジオ・ジャパン 第1集 奇跡の島はこうして生まれた>を見ました。これはいま読んでいる地質学者のいろいろな書籍と比べると、さすがNHKの描写力というのでしょうか、わかりやすくダイナミックスに描いていました。とはいえ、詳細を捨象しているので、物足りないはやむを得ないところでしょうか。

 

さて今日もいつの間にか5時を過ぎているので、本日の話題は何かと新聞を見ていましたら、いま話題の国家戦略特区についてその推進者、批判者などの意見がそれぞれの立場で掲載されていましたので、これを取り上げようかと思いつつ、これらの議論だけではまだわからないことだらけなので、別の機会にします。

 

それより冒頭の記事、正確には<岐路の風景『何でも見てやろう』 現地での交流も惨苦も 小田実の世界旅行記>を見て急に過去のある旅行を思い出し、つい自虐的ではありますが、書いてみようかと思ってしまいました。

 

まずは小田実著『何でも見てやろう』を熱心に語る<ノンフィクション作家の石井光太さん(40)>の発言を取り上げましょう。石井氏は<「本の中で小田さんは現地で知り合った文学者や女の子たちとすぐに仲良くなってしまう。日本にいたら人と人の間に感じてしまう壁のようなものを、外国に行けば乗り越えられるように思えた」>と言うのです。彼は10代の時にこの本に出会って大学に入って海外に羽ばたき、<「理屈が現実を前に壊れていく過程の方が真実なのではないかと思った」>というのです。

 

そして石井氏はさらに、<「小田さんは旅の中でタイトル通りのことを実行している。本来、人間には『何でも見てやろう』『何でもしたい』という好奇心があるが、みんな勇気がなくてできないでいる。この本はそんな好奇心を肯定してくれる」と石井さんは本の魅力を語る。>と、好奇心と勇気をこの本で得たようです。

 

その好奇心が時として問題になる点についても<「好奇心というのはともすると、『やじ馬根性』などの言葉に転化されて、否定的に考えられてしまう。このご時世、特に厳しく見られる。それでも、物を見るということは成長する上でとても重要なこと。この本はそれらすべてを認めてくれている。だからこそ読まれ続けているのではないか」>と否定的な面を乗り越えるだけの価値を持つことを訴えています。

 

そして最後に、<児童虐待をテーマにした著書『「鬼畜」の家』など、近年では国内での取材活動に力を入れ、「あらゆる分野に取り組みたい」と意気込む石井さん。尽きない好奇心と向上心には「何でも見てやろう」の精神が息づいているように感じる。「一つのことを専門でやっている人より、いろんなことをやっている人の方が僕にはかっこよく見えた。小田さんもその一人です」>と好奇心の有用性を専門的な研究よりもある意味で高く評価しています。

 

さてさて私自身、この小田作品をまだ読んだことがありません。その私がなぜこの記事を取り上げたかというと、私自身、ある種の好奇心だけでか、若気の至りか、浅間山荘事件があった頃、海外へ飛び立っていました。

 

羽田からアラスカを経て北極海経由でロンドンを出発点に、ヨーロッパ(当時は東西冷戦時代ですから西側だけですが)を飛び回り、そしてアメリカに渡りました。その後撮った写真を見ることもなく、忘却の彼方に行ってしまっています。それから20年近く海外に出ることが亡かったのです。

 

あまりにショックを受けたのかもしれません。小田氏のように美術館からトイレまでということもなく、誰とでも話すということもなく、ただ、心に残ったのはわずかな断片的な思い出でした。

 

美術館や博物館などは結構見て回ったと思います。ルーブル美術館ではモナリザの絵の前で一時間くらい?はじっくりと見つめていたような記憶がわずかに残っています。それほど混雑していないというか、ぱらぱらといる程度だった記憶なのです。大英図書館はマルクスが長年そこに通って勉強したことで有名ですが、私もそんな気分を一瞬でも味わおうと行ったはずですが、思い出せません。

 

あるフランスの若者(医者のタマゴ?だったか)と偶然出会い、パリのレストランで話をし、ワインをおごってもらい、マルセイユに行くので一緒に行くかなどと誘われたことがわずかに記憶しています。そのほか、スイスのジュネーブだったか、パリからの終着駅だったように思うのですが、それから先の電車もなく、とまるところも決めてない中、つたない英語も通じない、フランス語かドイツ語かもさっぱりわからず、結局、警察のご厄介になり、そして案内されたのはなんと女子修道院でした。

 

そのときあまり寝ていなかったので、疲れ果てて、そこで3日間くらいお世話になったように記憶ですが、自信がありません。なにせかわいらしい修道女?が食事を持ってきてくれたりしたので、居心地はよかったですし、ジャンバルジャンのように追われる身ではないので、のんびりすごさせてもらいました。でも会話が一切通じないので、身振り手振りでなにかを伝えるほどの勇気もなく、体調が回復するとまた別の旅を始めました。

 

いまとなっては夢幻の世界のような気がします。ほんとにそんなことがあったのかといわれても、そういう思い出しか残っていないのです。

 

後思い出としては、やはりニューヨークでの出来事でしょうか。美術館とかセントラルパークとか、まだ当時は世界一高かったと思うエンパイアステートビルディングとか、いろいろありますが、ほとんど記憶に残っていません。残っているのは当時はひどい状況の地下鉄に乗り、黒人街・ハーレムを歩いたことでしょうか。そしてとあるハンバーガーかなにかの店に入ったときのことが強烈な思い出として、いまだに残っています。

 

まず街の中を歩いていると、黒人の人たちがじっと私の方を見つめるのです。多くの黒人が通りにたむろしていましたが、その人たちが強烈な視線を送ってきました。当時、私はなにかあってもそれは仕方なし、なるようにしかならない、事実を見つめようと思っていたのでしょうか。日本では安保闘争がようやく沈静化しつつある中、なにかけだるい気分もあったと思います。多少は公民権運動にも関心があったのかもしれません。マルクシズムへの関心と混乱があったかもしれません。要は自らの立つ位置がわからなかったのでしょう。海外にでて何かを探し求めたのかもしれません。小田氏の本を読まなくても、当時、若者は悩んでいたと思いますし、私自身がそうでした。

 

店の中に入るにも勇気がいりましたが、なるようにしかならないという思いもあり、入りました。当然ながらすべて黒人です。一瞬、私は全身が凍り付いたのかもしれません。いまは思い出せません。ただ強い視線が投げかけられたじろいだ思いは残っています。

 

ただ、それだけのことです。どのようにして街をでて、再び地下鉄に乗って帰ったか、どこにとまったかもまったく覚えていません。よほど緊張していたのでしょう。

 

そのほか断片的な記憶はいくつかありますが、ハーレムの衝撃ほどではありません。でもそれが私に何らかの変化を与えたかもわかりません。小田氏のように記録を残せればよかったのですが、この旅行での経験をほとんど人に語ることもなく現在に至っているのですから。

 

何でも見てやろうというのは、若者の特権でもあり、それは若い意識があればいつまでもこの気持ちを発揮できると思うのです。しかし、見聞するといっても、見る力、聞く力、その理解力といったものがないと、見たとしても見えていないのではないでしょうか。聞いたとしても聞こえていないのではないでしょうか。

 

私の最初の旅行はまさにそれでした。突然、思い立って旅をして、準備もなにもせず予備知識もなく、英語もいい加減です。しかも行動力も、それなりの目的なり能力がないと、ただ動いているだけに終わってしまうと思うのです。石井氏のようにその旅行での経験を糧にできればいいのですが、私の場合は、何でも見てやろう、も中途半端でした。

 

いまはこういう具合に日々の思いを書き連ねていますが、以前は一切書いたこともありませんでした。何でも見てやろうは、最低限、その見たことを書くといった表現などを通して、ようやく意味をもつのではないかと思うのです。むろん書かなくても、その体験を踏まえて行動に移せればそれも意味があるかと思うのです。

 

私がその後海外にでるようになったのは日弁連の調査に参加するようになってからです。その中には、調査内容を出版したものもいくつかあります。私の先輩で一緒に調査旅行したとき日々の経験を細やかに物語風に残してくれた人もいました。これはわたしにとってはいい刺激でした。しかし、紀行文や日誌を書いたことがない筆無精な私には、その後も書くことがなく、ようやく数年前からfbで書くようになったのでしょうか。

 

この間一人でカナダに2年滞在していましたが、当時はメールもなく、せいぜい絵はがき程度を書いて送った程度ですので、その時のさまざまな経験は生かし切れていません。fbでは時折紹介したと思いますが、隔靴掻痒で、すでに20年近くたっているため鮮明な印象が、その時々の痛烈な感覚や問題点と感じたことがリアルでなくなっていて、折角の見聞も台無しです。

 

書き始めて来客があったため、中断してまた書き出したこともあり、いつものように冗長となり、趣旨不明になりつつある(いやもうすでになっているよでしょうか)ことから、そろそろおしまいとします。

 

見聞と行動の狭間というようり、見聞を有効にするには、事前、事後、そしてその瞬間を大事にしておかないと、自己満足に終わってしまう、何でも見てやろうになりかねないことを自分の不出来な体験話を交えてしました。終わります。

 

 

 

 


建築美の裏 <若者の自死が伝えた「新国立」の現実>などを読んで

2017-07-24 | 人の生と死、生き方

170724 建築美の裏 <若者の自死が伝えた「新国立」の現実>などを読んで

 

早朝の賑やかさはなんともいえません。野鳥の鳴き声がカエルやセミの声を打ち消すほど騒がしいのです。いろんな鳴き声が聞こえてきます。なかなか比定できませんが、楽しそうに聞こえてきます。多くはつがいが声を掛け合っているようにみえます。彼らは日々自分たちの食事と幼鳥への餌を探す以外は自由気ままなのでしょう。むろん外敵もいますのでその注意は怠らないでしょうが、奔放な生き方を自然は大事に育てているようにも思えるのです。

 

ところで人間社会はようやく飢餓や疫病などからは先進国ではおおむね解放されたように思うのですが、他方でさまざまな支配によって自由を奪われ、中には自死に追いやられるという、自然が想定していない事態になってきつつあります。

 

とはいえ、権力社会が成立すると、自然、強制的な労働が古代から続いているのも事実です。奈良大仏は、たしかに壮大で威厳があり、聖武天皇が庶民のため、仏法普及のため建立したのかもしれませんが、各地から集められた奴隷的立場の労働者の苦難は過酷だったと思います。私の好きな小説の一つ、帚木蓬生著『国銅』はその実態に肉薄する内容です。

 

それ以前の巨大前方後円墳や、その後の城郭づくりも、似たようなものではないかと思うのです。

 

江戸時代の「封建社会」と称される身分制を脱して、自由と人権を規定した明治憲法を制定した明治以降も、逆に女工哀史や小作争議でも明らかなとおり、自由も人権も無視されてきました。

 

ではより民主的なアメリカをならった日本国憲法の下で、個人の尊厳を高らかに宣言し、労働法制が確立して、労働者の人権保障が制度化されたので、労働者を含め自由と人権を享受し、心豊かな人生を歩めているでしょうか。そうではないという現実を見ないわけには生きません。

 

東京五輪パラリンピックは夢の祭典で、それを象徴する新国立競技場も日本美を代表するような巨大建築物の実現が多くの人から待ち望まれているのでしょう。

 

しかし当初決まった建築計画が明治の森といった周辺の景観に適合しないなど問題が生じ、新たに和風を醸し出す美しい建築物が選択されましたが、工期はきわめて厳しくなったことは素人でも理解できます。

 

今日付の日経アーキテクチャ<若者の自死が伝えた「新国立」の現実>は、そのしわ寄せを一番弱い立場の有望な若者に凝縮させていったことがわかります。いや、彼以上に厳しい状態の下請け業者や労働者がいるかもしれません。厳しい条件をなんとか耐えしのいでいるのかもしれません。それにしてもこの若者の死は、施工管理の拙劣さというだけではとどまらない問題をなげかけているように思うのです。

 

記事はまず、<201911月末の完成を予定する新国立競技場。20年夏季五輪の開催に間に合わせるため、整備スケジュールは関係者各所からの厳しい時間的制約を受けてきた。そのプレッシャーは、施工管理を任されていた新入社員にのしかかっていた。>と指摘します。

 

<男性が新国立競技場の建設現場で地盤改良の施工管理業務に従事したのは、161217日から。>で、<新国立競技場の地盤改良工事の施工管理業務に従事していた男性(当時23歳)が1732日に失踪し、415日に長野県で遺体で発見されていた>

 

<男性は5人ほどのチームの一員として、各作業段階の写真撮影、材料品質管理、安全管理などを担当した。入社1年目の男性は最若手だったとみられる。>電通事件で自死した女性も一年生でしたか。彼はこの新国立で仕事をしたのは、実質2.5月です。どれほど厳しかったかわかるような気がします。

 

代理人の川人博氏の記者会見で発表されたのでしょうか<男性の残業時間が約200時間だった2月は、睡眠時間が23時間しか確保できていなかったようだ。極度の長時間労働や業務上のストレスが原因となってうつ病などの精神障害を発病し、自殺に至ったと川人弁護士は推定している。>とのこと。

 

なぜこれほど過剰な長時間労働が強いられたのでしょうか。

 

彼の勤め先は一次下請の会社で、担当した<地盤改良は整備スケジュールでは最も早い工程の1つで、基礎躯体工事などの前段階となる。地盤改良の工期は17630日までだった。男性の務めていた建設会社によると、実際の完了日は710日だったという。>

 

で、彼がこの事業に従事し始めた<その約1週間前には大成建設・梓設計・隈研吾建築都市設計事務所共同企業体(JV)の代表者をはじめ、安倍晋三首相や小池百合子都知事などが一堂に会して、起工式を実施している。>

 

で、この現場は、同じ日経アーキテクチャ327日付け記事では、すでに彼が自死した後ですが(発表は720日)<60台の重機が動く「新国立」建設現場>とのタイトルで、<本体の建設工事は201612月から始まった。現在は約60台の重機で山留め・掘削工事を進めている。掘削工事は現場の北側を起点に、スタジアムの楕円に沿うように左右から同時進行で進めており、作業は終盤に差し掛かっている。>と工事の進捗が順調にいっている様子を描いています。

 

他方で、作業効率をよりいっそう進めようとしていることは<地盤の上に置くコンクリートの基礎は、作業効率を考えてプレキャスト(PCa)化している。大成建設・梓設計・隈研吾建築都市設計事務所共同企業体(JV)が作成した技術提案書では、工期短縮のために「スタンド部基礎躯体の7割以上をPCa化」と説明していた。

 施工者の大成建設の山内隆司会長は、日経アーキテクチュア2016211日号のインタビューで「自社でPC工場を持っている建設大手は当社だけ。基礎の梁から柱、梁、斜めの梁まで、できるだけPCa化を進めたいと考えている」と語っている。>ということからもわかります。

 

工事工程が複雑多岐になっている中で、それぞれの工程をできるだけ早くしないと次の工程に入れない訳ですが、それでも<整備スケジュールでは地下工事は4月からの予定だ。下野総括役は「先行して工事を進めなければ間に合わなくなる。施工者が作業の調整をできる場合は、作業を前倒しで進めている」と説明する。>と本来スケジュールどおりでは間に合わない恐れをにおわしています。

 

さて大成建設は、日本を代表する建設業者で、私も一緒に議論したりした同社出身の元技術者など、人格識見のすばらしい方をそれなりに知っています。ま、最近はやりの情報化施行についても<BIMとコスト・工期情報が連動、施工管理を効率化>といったことは早い段階から取り組んでいます。

 

しかしながら、建設業界は、多段階の下請け構造となっています。新国立のような国家的事業で、首相・都知事が肝いりの超厳格なスケジュールが予定されているのだと思います。そんな事業の一端を新人一年生の若者が現場に入って、おおむね半年強くらいの施工スケジュールが決まっていて、それに間に合わせてやりきるというのは、その肩にかかった重荷はあまりにきつすぎるものというべきではないでしょうか。

 

川人氏が指摘するようにその過剰労働の異常さがそのことを端的に示しています。国家的プロジェクトということで、それに従事する個々の労働者の精神・肉体への配慮、管理が適切になされていなかったことが明白では内でしょうか。

 

このような事態は、飛躍することは承知しつつ、戦時体制になれば、平気で滅私奉公を強制した過去を思い出させます。今回は明示的にそのようなことはなかったと思うのです。しかし、目標達成こそが何よりも優先課題として、個々の労働者への配慮を欠いた施工管理が平気で行われてきたことが明らかになったのです。

 

私たちは一人の責任感の強い、そして気高い精神をもった若者の死を無駄にしてはいけないと思うのです。この死をしっかり検証せずして、事業完成に邁進するとしたら、東京五輪パラリンピックは、何のために行うのか問われると思います。

 

この若者の死は、偶然に起こったものではないと思います。起こるべくして起こった、事業の施工管理上の問題があったと考えるべきではないかと思うのです。

 

そろそろ一時間が過ぎました。今日はこの辺で終わりとします。


精神障害者考 <措置入院後支援 精神保健士、増員進まず>などを読んで

2017-07-23 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

170723 精神障害者考 <措置入院後支援 精神保健士、増員進まず>などを読んで

 

今朝も早暁から目覚めてしまい、日本列島の成立史を解説する本を読んではうとうとしてしまい、目覚めると7時近くになっていました。

 

こころの天気図眠り妨げる夏の朝日=東京大教授、精神科医 佐々木司>によると、<気づいていない人もいるだろうが、外の明るさで早朝に目が覚めてしまい、睡眠不足に苦しむ人も少なくない。>というのです。

 

昔は木製の雨戸をしっかり閉めていたので、夏の強い朝日が目に入ることがなかったというのですね。たしかに雨戸を閉めると真っ暗になっていました。しかし、夏は暑くて閉めていなかった記憶で、蚊帳をつって、田舎の場合開けっ放しだったように思います。それはそれとして、精神科の先生のお話ですので耳を傾けたいと思います。

 

この対策として、佐々木氏は<一番の解決策は遮光カーテンだろう。さまざまな種類が売られている中で、できれば最も遮光性の高いタイプを選ぶといい。カーテンの隙間(すきま)から光が漏れては効果が半減してしまうため、大きさには余裕を持たせよう。カーテンレールからの光の漏れを防ぐには、レールを覆うボックスの設置が有効で、住宅設計関係者はさらに工夫してほしい。>

 

たしかに夏の光の強さを和らげるため遮光カーテンが出回っていて、私も事務所では使っています。でも自宅では使う気にはなれません。やはり夜中は星空を見上げながら、あるいは月光の光を浴びながら眠るのがいいと思っています。むろん満月の時は眩しいので多少は遮るように工夫しますが。そして早朝は日の出前の早暁の薄明かりもいいですし、とりわけ目覚めて寝床から外を見上げれば、その景観が心を和らげてくれます。ちょっと立ち上がると、慈尊院の少し上にある雨引山から高野の山々が屏風のように180度(これは少し誇張、100度くらいでしょうか)に広がっているので、うれしい限りです。

 

さらにいえば、というかなにより網戸越しから流れてくる涼風が遮光カーテンなんかがあると、遮断されてしまいます。たしかに朝早い目覚めは、佐々木氏が指摘されるように、睡眠不足になるかもしれません。でも私のような仕事では、昼時間を見つけて椅子に座ってスヤスヤしていますので、睡眠不足を悩むほどのことはありません。イタリアとかスペインのように昼の休みが2~3時間あるというのもいいでしょうが、私の場合うたた寝ですのでせいぜい15分か20分くらいですが、眠くなったら我慢せず眠るのでそのときは熟睡ですので、きっと全体として佐々木氏が指摘されているような問題にはならないのではと思っています。

 

さて長々と前置きを書いてしまいましたが、そろそろ本日のテーマに入りたいと思います。早く帰りたいので、残り30分くらいで簡単に整理したいと思います。

 

毎日朝刊トップ記事は、昨年7月に起きた相模原障害者施設殺傷事件を受けた国会対応について、<措置入院後支援精神保健士、増員進まず 今年度、5自治体どまり>と悲観的な実情を自ら調査したデータを基に、問題を追及し、さらに3面で大きくとりあげ<クローズアップ2017「措置入院」すれ違い 「支援強化急げ」積極的な国 「交付税足りぬ」冷めた自治体も>と国と自治体との対応に大きな隔たりがあることを指摘しています。

 

詳細は内容を読んでチェックしていただければと思いますが、専門家である<田村綾子・聖学院大教授(精神保健福祉論)は「身体や知的障害に比べ、精神障害は本人や家族の声が届きにくい。自治体の担当者が専門職でないと支援施策が後回しになりがちで、取り組みに温度差が生じる」と人員確保を急ぐよう指摘。その上で「国は措置入院の受け入れ病院全体の医療の質を上げることも必要。良質な病院から刺激を受けることで、自治体の意識も変わる」と話す。>のコメントにその問題の背景を感じています。

 

田村氏が指摘する<身体や知的障害に比べ、精神障害は本人や家族の声が届きにくい。>というのは、私自身、わずかの経験しかありませんが、身体障害や知的障がいは、その実際の程度・困難さはほんとはわかりにくいものの、外見でもおおよそわかります。ところが精神障害はその判断自体簡単ではないように思うのです。

 

私は、かなり以前に精神障害で精神病院に入院されている方の後見人として職務を行ったことがありますが、暴力的で、妄想・幻覚がひどいという家族の話でしたが、施錠された扉を開けて部屋で話をしたときの印象は、それほどの異常さを感じさせるものではなかったという記憶です。むろん意思能力が十分でないということで家裁で後見開始を決定したわけですから、精神科医の適切な診察・判断の下に行われたのだとは思うのです。

 

粗暴的な側面も感じませんでした。私自身が面談しているとき、事前の資料や説明から、緊張して対応していたことも関係するのかもしれません。むろん質疑という形の会話では必ずしもスムーズに話がされるわけではないので、十分な判断能力があるかというと疑問を感じますが、そういう注意を払っているからわかるので、そうでないと見過ごされるかもしれません。ある種、認知症の初期段階の方に似たような症状にも感じました。

 

むろん精神病院で処方治療を受けていますので、抑圧された状況にあったと思いますから、そういう薬効が薄れているときだと、どうかはまた違うのでしょう。

 

この方も、奥さんに暴力を振るうなど、問題があり、身近な病院で通院治療をしていたのですが、暴力や妄想がひどくなり、病院医師や警察などと相談して、精神病院への入院となったのです。そのとき措置入院だった記憶ですが、はっきりしません。

 

その方は退院を希望していました。でも、奥さんはこれ以上耐えきれないということで離婚訴訟を提起し、私が後見人として本人の代理をしたのですが、暴力や妄想・幻覚が悪化し直る見込みがないとして、離婚判決が確定しました。で、本人の病状は精神病院の診断では、退院できる状況にない、受けいれる家族もいないということで、入院を継続していました。

 

相模原障害者施設殺傷事件の被告人の場合とは事情がまったく異なりますし、私の経験した内容が措置入院とその後の対応のあり方に参考になるとは思っていません。

 

ただ、措置入院の判断自体、またその後の治療体制、そして退院の判断やその後の支援制度が、今回のアンケートの結果のように専門の精神保健福祉士を適切に配置できる状況にない現状だと、精神障害の疑いがあったり、精神障害者本人、本人を見守る家族、近隣、そして本人から課外を受けたことがあったり、将来うけるおそれを抱いている人たち、そういう不安な状況への対応がいつまでたっても改善しないことになるのではと思うのです。

 

それは精神障害者本人とっても気の毒なことだと思うのです。いまさまざまな事情で、精神的に追い詰められたり、精神的に不安に陥ったりする人は少なくない状況にあると思います。その人たちが直ちに精神障害と診断されたり、ましてや自傷、あるいは加害の危険性をもつことにはならないと思うのですが、早期に適切に対応する支援制度を確立しておかないと、社会はますます不安定な状況になるように思うのです。

 

こういう表面的な意見ではあまり意味がないことは承知しつつ、いずれこの問題についても検討してみたいと思うので、とりあえず今回は現状紹介の意味で取り上げてみました。

 

今日はこの辺で終わりとします。


親子の愛情 <相模原殺傷事件1年 天国でも抱っこしたい>と<認知症 祖母を孫の視点で描いた絵本>を読んで

2017-07-22 | 家族・親子

170722 親子の愛情 <相模原殺傷事件1年 天国でも抱っこしたい>と<認知症 祖母を孫の視点で描いた絵本>を読んで

 

今日は午後から3時間ほど、ある事件の関係者からヒアリングをしました。対立当事者ではない第三者的立場ですが、それでも聞き取りするのは少々疲れます。体力もなくなっているからでしょう。以前は聞き取りしながらタイピングで内容を確認してもらっていましたが、やはりそれほどの元気はありません。聞き取りだけで、疲れがどっとでてきました。

了解を得て録音しているので、忘れたら確認すればいいのですが、やはり聞き取った後少しして整理するのが一番いいのです。でも今日は疲れたせいか、簡単な整理で終わり、明日以降にすることにしました。

 

もう6時になろうとしているので、はやばやとブログを書き上げて帰宅しようと思っています。新聞をぱらぱらめぐっても疲れているせいか、なかなかきまりません。<伊方3号機停止認めず>という松山地裁決定は、知り合いの弁護士が団長なので、取り上げようかと思ったのですが、中身が重いので一時間で書き上げるのはきついかなと断念。

 

そしていきついたのは上記の2つの記事です。いずれも親子の間に通うとても深く辛く悲しいものの明日へのある種希望を抱かせる愛情を感じさせてくれました。

 

最初の記事<もう二度と相模原殺傷事件1年 天国でも抱っこしたい がんの父、甘えん坊の娘へ>は、親の子への愛情の深さ、強さ、強いきずなを感じさせてくれます。

 

障がい者施設に入所する子どもを持つ親や家族の多くは、この方と同じような思いを持っているように思います。むろん身体的・経済的虐待をする親がいることも私たちは注意深く見守っていく必要があると思います。

 

ただ、<相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が殺害された事件で、35歳だった長女を奪われた神奈川県内の父親(62)が毎日新聞の取材に応じた。「娘がこんなに可愛かったことを知ってほしい」。>という父親の思いこそ、人として尊敬したいと思います。

 

私自身に、それほど強い気持ちがあるかはわかりません。子に何かあったら、命をかけてくらいの思いはあると思うものの、この父親ほどの気持ちを抱けるかはわかりません。

 

<事件からまもなく1年になるが、殺人罪などで起訴された植松聖(さとし)被告(27)への感情は湧いてこない。「娘が亡くなったことを、まだ現実として受け止められない。娘がいなくなったことと事件が、まだ結びつかない」。考え込むようにそう言った。>という言葉に、私自身はほんとの心からの愛情を感じています。

 

子を殺されたりしたら、その殺人犯を憎み、極刑など責任追及することが子への愛情表現として語られることが少なくない時代、私自身は万が一わが子がそんな運命にあったとしても、この父親のような気持ちを抱きそうな気がしています。

 

<仕事人間だった父親は49歳で早期退職してから、長女と一日中、一緒に過ごした。長女はソファに腰掛ける父親の足や肩をトントンとたたき、抱っこをせがんだ。本を読もうとすれば「かまって」とばかりにはたき落とした。夜中になると布団に潜り込んできた。

 長女が食事を粗末にした時、怒ったことがある。すねて口を利いてくれなくなり、最後には折れて「ごめんね、お父さんが悪かった」と謝った。「気まぐれでわがままで、甘えん坊だった」>

 

この表現の中に、どれほどいとおしい存在であったかを十分に感じさせてくれます。障がいは親にとり、あるいは子にとり、家族の愛情を育むのに真の障害にはなりえないと思いたいと思っています。わが子には障がいはありませんが、仮にあったとしても、この父親・母親のようにありたいと思っています。

 

<父親自らは今春、がんと診断された。「もうすぐいくよ」。仏壇の前で毎朝、語り掛ける。>生はある意味、一瞬の出来事かもしれません。それを精一杯生きれば、死後は永遠の浄土かもしれません。

 

<思い出が詰まった自宅での1人暮らしは、つらい。洗面所で歯磨きをすると、後ろから抱きついてきた長女を思い出す。トイレにも、リビングにも……。施設に預けた自分を責めた。少しずつ現実を受け止めようと生きてきたが、ふとした瞬間に「もういないんだ」という現実が去来し、おえつしてしまう。

 今年3月、がんと診断されたが、延命治療は選択していない。>

そして<父親は「最後に抱っこしてあげられなかった。早く会って、抱っこしてあげたいなあ」と、ぽつりと漏らした。>

 

この父親の生き方は私に切々と何かを訴えてきます。人はどのように生き、どのように死を迎えるか、改めて家族というもの、社会というもの、そして私を見つめ直しています。

 

もう一つの記事<認知症祖母を孫の視点で描いた絵本 ベストセラー>は、<優しかったばあばが「忘れてしまう」病気になって、ぼくは逃げ出した--。認知症になった祖母を孫の男の子の視点で描いた絵本「ばあばは、だいじょうぶ」(童心社、1404円)が幅広い年代の反響を呼び、刊行半年で10万部を超えるベストセラーになっている。>

<自身の体験を元に作品を手がけた作家の楠章子さん(43)=大阪市=は「子ども時代の私のように、大切な人の変化に戸惑っている人に手に取ってほしい」と話す。>

 

おそらく作家は、自分自身の体験をそのまま自分の言葉で表すにはきつかったのかもしれません。孫の目線で見れば、自らも癒やされ、母親ともうまく接することができると思ったのではないでしょうか。

 

自分の母親を出すのはなるべく控えたいですが、認知症で私のこともわからなくなっているのですが、自宅での生活を続けています。兄が世話しているのですが、周りの人が母親と接すると癒やされるというのです。90歳を過ぎ今なお耳は確かで食事も普通に食べ活発に話もすることができ、ただ、兄以外は誰が誰だかほとんどわからなくなっているのです。

 

以前はよく徘徊して交番のおまわりさんのやっかいになっていたようですが、おまわりさんも母には癒やされるというのです。なぜかは私は身近にいないせいかわかりません。ただ、優しい物言いと、謙虚さだけは認知症になっても残っているようで、それがいい印象を与えるのでしょうか。といっても私が誰だかわからない、電話では話もできなくなったのは寂しい限りです。

 

とはいえ認知症は、過去のひどい経験や悪い思い出もなくしてしまうのでしょうか。誰に対しても幼児のようににこにことして優しく対応するようです。それが施設に入るとそうでなくなるように思うのです。家族の中で世話をしていると(むろんさまざまな虐待例もありますが)、上記の絵本で描かれているように、素直な親子間の愛情が無意識的に伝わって、認知症患者も幼児と同じように自然にその愛情に包まれて心豊かになっていくのではないでしょうか。そんな認知症患者だと、接する人たちも自然に幼児の笑顔を見るように心が和み、癒やされるのではと思ってしまいます。

 

筆者の<楠さんは「母は人に頼ること、優しくする気持ちを教えてくれた。物語が、優しさを引き出すきっかけになればうれしい」と語る。>

 

認知症になることにより、家族が真の愛情に気づく、あるいは自分の優しい気持ちを呼び起こすことになる、そういうことを期待できるいい話ですね。

 

まだ一時間経っていませんが、心に強い刺激を受けたこともあり、今日はこの辺で終わりとします。