
先日、日本語教師のボランティアをしている友人と話していて、言葉を教えるということについての話題になった。
昔、すこしだけ日本語教師の勉強をかじったことがあるけれど、わたしの記憶に間違いなければ、言語の教え方には、大きくわけてふたつあって、たとえば、日常で日本語を使っている人に英語を教えるときに、英語だけを使うやり方と、日本語を使って英語を教えるやり方とがある。
友人が師事している先生は、直接その言語で教えるやり方をされているということだった。
ふたつのやり方は、どちらがいいというものではなくて、習うひとの年齢や性格、生活環境、なんのためにその言語を覚えたいのか、などによってベストな方法は変わってくるだろうし、場合によっては、ふたつを組み合わせながら教える場合もあるだろう。
「わからない」という状況に、比較的長い時間耐えられたり、そのこと自体をたのしめたりする人と、どうしても我慢ができない、苦痛でたまらなくなる人との違いもあるだろうし、同じ人でも状況によって、「わからない」ということが、苦痛になったり楽しみになったり変化するのかもしれない。
だけど、すぐに別の言葉に翻訳して理解できたときに比べて、わからない言葉をずっとその言語だけで理解しようと苦労して、ある瞬間わかったときの感動ってすごいものがあるよね、ということで、友人と意見が一致した。
このことは、じつは同じ言語を話していて、通じていると思っているひとたち同士でもありうることで、ずっとわからないと思い込んでいた、あるいはわかっていると思い込んでいた、そのひとの言葉のつかい方や考え方が「わかった」と思えた瞬間の感動は、世界がぐるりと回転してみえるくらいの衝撃がある。
言葉ってほんとうに不思議で、おもしろい。
昔、すこしだけ日本語教師の勉強をかじったことがあるけれど、わたしの記憶に間違いなければ、言語の教え方には、大きくわけてふたつあって、たとえば、日常で日本語を使っている人に英語を教えるときに、英語だけを使うやり方と、日本語を使って英語を教えるやり方とがある。
友人が師事している先生は、直接その言語で教えるやり方をされているということだった。
ふたつのやり方は、どちらがいいというものではなくて、習うひとの年齢や性格、生活環境、なんのためにその言語を覚えたいのか、などによってベストな方法は変わってくるだろうし、場合によっては、ふたつを組み合わせながら教える場合もあるだろう。
「わからない」という状況に、比較的長い時間耐えられたり、そのこと自体をたのしめたりする人と、どうしても我慢ができない、苦痛でたまらなくなる人との違いもあるだろうし、同じ人でも状況によって、「わからない」ということが、苦痛になったり楽しみになったり変化するのかもしれない。
だけど、すぐに別の言葉に翻訳して理解できたときに比べて、わからない言葉をずっとその言語だけで理解しようと苦労して、ある瞬間わかったときの感動ってすごいものがあるよね、ということで、友人と意見が一致した。
このことは、じつは同じ言語を話していて、通じていると思っているひとたち同士でもありうることで、ずっとわからないと思い込んでいた、あるいはわかっていると思い込んでいた、そのひとの言葉のつかい方や考え方が「わかった」と思えた瞬間の感動は、世界がぐるりと回転してみえるくらいの衝撃がある。
言葉ってほんとうに不思議で、おもしろい。