瀬戸内海を眺めながら育ち、広島湾に浮かぶ牡蠣(かき)筏(いかだ)の周りで遊んでいたのであるから、魚釣りで遊んだ事も多いし、楽しさも知って育った私である。
しかし、魚釣りに対してフトした事から考え方が変わった。
妻が二度続けて流産した。
我が家にはもう子供が授からないと希望の灯が消えかかっていた
時に、
還暦を過ぎた母が、自分の命と願いをかけて四国88箇所参りに詣でてくれた。
その途中、お寺で母が倒れたとの連絡が来て、駆け着けたら、
「悟美、親の命も子供の命も繋がっとるンよ。新しい命を授か
ろうと願かけてお参りしとる親の裏で、(息子が)殺生しとって
願が叶うワケないわ、今日、バチが当たったンよ……」
これには、一言も言い返せなかった。
命、それも母、このかけがえのないものを、また無くしてしまう
のかと寺で涙した。
「魚も親子で生まれとるンよ。娯楽で殺生をする人間に、親子の縁を
引き裂かれて、小さい魚は捨てられて、大きい魚は食べられて
しまうのを、魚は知っておるンよ」
「・・・・・」
「釣りをやめンさいたア言わンけえ、少しは考えンさい…」
広島弁でそれだけ言うと…寝息に変わった。
(釣を止めるけえ、母を逝かせないで…)
本堂で幾度も手を合わせて、仏に祈るだけだった。
母の命は取りとめられ母は初孫も抱けたが、私の心には重荷が
ずっしりと沈んだままだった。
(魚を釣ってピチピチ跳ねていたのを見て喜んでいたのは、
魚にとって見れば、もがき苦しんでいた姿であり
『水をくれー』
と断末魔の声を発しないから魚の見殺しが平気だったのか…)
自分の趣味の為に、魚であっても命を奪っているのであるなら
ば、自分の徳はそんなにあるモノじゃあないから、
運が途絶えるのは時間の問題だろう。
釣られた魚が馬鹿で釣った人間様が賢いという道理も自分勝手
である。
奴隷を人間と思わなかった時代の昔の国王が、狩猟や奴隷狩り
で遊興に耽っていたなごりの、生き物を殺す道楽の一つに
《魚釣り》
が現在も趣味・娯楽として残っている…と思え始めた。
それを胸に預けたまま、安全大会で
《命の重さ》を話す事がある。
朝食によく出てくる「ハム・エッグ」があるが、このどちらが
人間に対して命を張って貢献しているかを考えてみた事がありますか?
卵は鶏が一日一個産み落としたものであるが、鶏は生きている。
ハムは豚が一命を落とした事によって、人間が食べる事が出来るのである。
豚は食べられる為に生まれて来て、育てられているのかも知れ
ない。
安全活動を必死で行うのは、豚のように一命を賭すればこそ、
ハムになるものだ等と倫理・宗教上の観点からの話ではなくて、
職人さん達へ
『命の尊さ』
を話ているのも、この魚釣りが起因かも知れない。
話を戻して、
魚屋で売られている魚も、人間に食べられるために海で泳いで
いたのかも知れない。
だが、私が釣った魚や釣り上げたが捨てた魚は、・・・
魚 釣り(2)へ続く