29歳で自ら命を絶った中国の胡波(フーボー)監督作品『大象席地而座』。
村上春樹の短篇「象の消滅」から着想を得たと言ってるので、
イ・チャンドン監督作品『Burning』(納屋を焼く)と非常に近しいトーンで厭世的だ。
映像は終始「視野狭窄」な近視ピントで、常に周りはぼやけてる。
アウシュビッツの囚人目線で撮られた『サウルの息子』に近い。
つまり「いっぱいいっぱい」で自分以外目に入らない状況を絵解き。
「象の消滅」は、経営破綻した動物園が売りに出され高層マンション建設予定地となるのだけど、
老齢の象だけ引き取り手がなく、そこの自治体が不動産会社と共同で飼育係を雇って飼うことになるのだが、
1年後、飼育係共々消えて無くなる話。
「納屋を焼く」は不要になった納屋を人知れず焼く話で、
どちらも経済一辺倒のこの社会を揶揄しているのだけど、
「象の消滅」が秀逸なのは、展示会で知り合った独身男女が意気投合してホテルのBARでお互いを語り合うまでになったあと、
男が「象の消滅」の話題を振った途端、会話の流れが止まり、ふたりもそのまま別れてしまう…ところ。
要は、開発の異物となった老齢の象は、押し進める経済成長の障害でしかなく、
誰もが口には出さずとも死ンデ欲しいと思っていたわけで、それが飼育係共々消滅したのは、
この社会システムに殉じたようなもので、語る言葉を持たない。
象の消滅を経験して以来、ボクはよくそういう気持ちになる。何かをしてみようという気になっても、
その行為がもたらすはずの結果とその行為を回避することによってもたらされるはずの結果との
あいだに差異を見出すことができなくなってしまうのだ。
ときどきまわりの事物がその本来の正当なバランスを失ってしまっているように、ボクには感じられる。
(村上春樹著『象の消滅』抜粋)
「やれやれ、流れに逆らったところで、なんら変わらないじゃないか。」そういう気持ちだろう。
この社会を構築する源の共同幻想は、そもそもの着地点が偏狭で自己顕示欲過ぎ、
犠牲を伴うことでしか持続できない仕組みなんじゃないか。
1985年のバブル最盛期に吐露したハルキの言葉が、2018年の中国でコダマし、
作家は命を賭して映画を作った。
ブルドーザーが邁進する如く地球全体が「便宜的」に開発され、
今日も象が一頭消滅しているのだ、と思うと、生きてることが罪なんじゃないかと、
その根本を正さないと、もはや立ってられない。「而座」はその隠喩でもあるわ。
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