01/21武蔵小金井にある「
雨デモ風デモハウス」で行われた
「
++(たすたす)セッション」。
4回目の今回は、
NPO田んぼ理事長、岩淵成紀さん。
私たちは大地の子であり、それ以外ではありません。
たかだか昭和30年台から始まった高度経済期の近代文明によって、
数千年来私たちに伝承されてきた風土が破壊されつつあることに心が痛みます。
NPO田んぼの概要にもあるように、岩淵さんの語りは、
多様な生態系の一部として人間が在ることを真摯に受け止める有り難いお話だった。
何よりも「目からウロコ」だったのは、
お米の等級問題。
1000粒ある米のうち1粒が虫食い米(斑点米)であれば、1等。2粒なら、2等。
カメムシも食すほどの美味しいお米を、見た目が悪いからと劣等に扱う。
農家は自然の恵みで得た米を、工業製品のように扱わなければならない。
そのような農薬推進の陰で、「冬水田んぼ」は喪われていったという。
「むかしの人は、腹が下ったら自分の土地の土を食って胃を整えた。
地産地消で多様な生物を畑の作物から摂取して、いわば共存して生きていたから、
体内の微生物も土に繁殖する微生物と同じだったんだね」
この話こそまさに、人間は多様な生態系の一部として在った証拠。
近代科学と技術は、伝統の知恵を理解できるカに達していなかった。
だからこそ、伝統に対してかくも破壊的だった。
どこまでも耳が痛い話だ。
あのとき印象的だったのは、村のなかを歩いていて、何度か風向きが変わってくるんです。
さっきまでは山から吹き下ろしていたと思ったら、こんどは山のほうへ向かって吹き上がったり、
家の方から渦を巻くような空気がぼくのほうへ襲いかかってきたり。人間が自然と触れ合ったり、
向き合ったりするときは、そういう予測のつかなさとか、しょっちゅう変化しているものに肌身で触れている。
ところが人間同士の世界というのはそうじゃなくて、いろいろな媒介を間に入れていくことなんですよね。
自分の心の中に風のように湧き上がってくる感情を直接相手の存在に吹きかけたり、
相手から感情の風や雨が自分に吹きかかってこないように、言葉とか、いろんな媒介をはさむ。それを文化と読んでいるわけです。
(踊る農業、踊る東北/中沢新一)
近代化という名の下に「文化的」な生き方を推奨し、土着的なものを劣等に扱った戦後ニッポン。
しかし「文化」とは結局のところ、さまざまな媒介を自然との間に挟んで、湧き上がる感情を忌避することだった。
何を勘違いして生きてきたのだろう、人間は。
それでも未だに科学への盲信がまかり通っている現代の病の根深さに、ボクは驚いている。
農業にはひとつの哲学がある。それは、自然が作り出す「具体的なもの」のもつ価値を、
守り育てようとする姿勢である。自然の活動の背後にある見えない力(それを昔のニッポン人は神と言った)が、
目に見えて、人の身体を養う「具体的なもの」となって、この世に出現してくる。
その出現の過程を繊細にいきとどいた心遣いをもって見守り、それをすぐに「お金」や「知識」のような
抽象物に変えてしまわないようにするのが、農民という存在なのである。農業とは「具体性」に固着しようとする人間の営為なのだ。
とうぜんそれは、あらゆるものを抽象化して、情報化してしまおうとする、現代の支配的な傾向には抵抗をしめす。
ニッポン人が農業民ではない、という主張がいまのニッポンで受け入れやすいのは、
この社会が抽象化の方向になだれをうって、進んでいるからに過ぎない。
ニッポンは農業国であると主張することのほうが、よっぽど未来的ではないか。
(リアルであること/中沢新一)
だからセッションの後半、マーケティングという文脈の中で、
岩淵さんのお話が消化されてしまう流れになったのは、ちょっと残念だった。
アウトプットの組み立ても、根本から考えるべきではなかったか。
とにかく、いろんな意味で脳味噌が耕された「
たすたすセッション」だった。