尾花藍子@スクランブル。
今日は一日渋谷で
アーティストの尾花藍子さんを
さまざまな場所で撮影した。
欲望の蠢く街、渋谷。
学生時代からゆかりのある
渋谷の地場に反応して
カラダを動かしてもらう。
MEMENTO MORI。
死を想え。
死を想うことで、生が煌めく。
どんな仕上がりになるか、乞うご期待。
アーティストの尾花藍子さんを
さまざまな場所で撮影した。
欲望の蠢く街、渋谷。
学生時代からゆかりのある
渋谷の地場に反応して
カラダを動かしてもらう。
MEMENTO MORI。
死を想え。
死を想うことで、生が煌めく。
どんな仕上がりになるか、乞うご期待。
東中野RAFTでおこなわれた
ドドド・モリ公演「自然との対話(笑)」より。
ダンサー、羽太結子さん。
学校嫌いが高じて、中学卒業後は高校に行かず、4年間プーさんをやりながら日本中をリュック背負って一人で放浪。
たまたま行ったNYでヘンテコなパフォーマンスを見て、踊りたい欲求に火がつく。そのとき18歳。
その後、チョコチョコ演劇界にも出没しつつも、なんだかんだと踊り続ける。
…と、2008年の公演ページにはあった。
なるほど、観ていて性根が据わった感じがするのは、そのせいだろうか。
前回のbabyQ公演でも、他のダンサーとはひと味ちがった「キワどさ」「キワモノさ」があった
今回はソロの部分が多く、その分彼女の個性が際立っていた。
エロさに増して、バタフライナイフのような危険度が魅力だ。
ドドド・モリ公演「自然との対話(笑)」より。
ダンサー、羽太結子さん。
学校嫌いが高じて、中学卒業後は高校に行かず、4年間プーさんをやりながら日本中をリュック背負って一人で放浪。
たまたま行ったNYでヘンテコなパフォーマンスを見て、踊りたい欲求に火がつく。そのとき18歳。
その後、チョコチョコ演劇界にも出没しつつも、なんだかんだと踊り続ける。
…と、2008年の公演ページにはあった。
なるほど、観ていて性根が据わった感じがするのは、そのせいだろうか。
前回のbabyQ公演でも、他のダンサーとはひと味ちがった「キワどさ」「キワモノさ」があった
今回はソロの部分が多く、その分彼女の個性が際立っていた。
エロさに増して、バタフライナイフのような危険度が魅力だ。
東中野RAFTでおこなわれた
ドドド・モリ公演「自然との対話(笑)」より。
ダンサー、手代木花野さん。
震災で被災した宮城県の松島町出身とか。親近感をおぼえる。
被災地での復興イベントや子どもたちとのダンスを
定期的に催しているとのこと。
とにかくダンスが力強い。
彼女のダンスは二回目。
去年の3月29日にあった石和田尚子さん主宰のshoppin'gocart
「明日が消えた日」でお会いしていた。
このとき、彼女はどのような気持ちだったのだろう…と、ふと思った。
ドドド・モリ公演「自然との対話(笑)」より。
ダンサー、手代木花野さん。
震災で被災した宮城県の松島町出身とか。親近感をおぼえる。
被災地での復興イベントや子どもたちとのダンスを
定期的に催しているとのこと。
とにかくダンスが力強い。
彼女のダンスは二回目。
去年の3月29日にあった石和田尚子さん主宰のshoppin'gocart
「明日が消えた日」でお会いしていた。
このとき、彼女はどのような気持ちだったのだろう…と、ふと思った。
東海道線で「小田原」の2つ先にある「根府川」へ。
無人駅舎の防犯カメラに巣くった、ツバメのひなが餌を欲していた。
里山に生息する、人と自然との共存を象徴する野鳥、ツバメ。
これが最近頓に減ってきている。
雀も同様な状況。
震災で自然の畏怖をあらためて思い知らされたけど、
社会の趨勢は相変わらずIT一辺倒。
スマフォのgoogle_mapなしじゃ、
見知らぬ土地の散策もできないほど、
いまのニッポン人は情報に頼った生活をしている。
すべてが止まったとき、
どんな判断で凌いでいくのか。
普段から人間本来の勘を養っておかないと、
レジリエンスは高まらない。
ボクはそう思うけどね。
根府川はそういった意味じゃ、
まだ共生している土地だってこと。
無人駅舎の防犯カメラに巣くった、ツバメのひなが餌を欲していた。
里山に生息する、人と自然との共存を象徴する野鳥、ツバメ。
これが最近頓に減ってきている。
雀も同様な状況。
震災で自然の畏怖をあらためて思い知らされたけど、
社会の趨勢は相変わらずIT一辺倒。
スマフォのgoogle_mapなしじゃ、
見知らぬ土地の散策もできないほど、
いまのニッポン人は情報に頼った生活をしている。
すべてが止まったとき、
どんな判断で凌いでいくのか。
普段から人間本来の勘を養っておかないと、
レジリエンスは高まらない。
ボクはそう思うけどね。
根府川はそういった意味じゃ、
まだ共生している土地だってこと。
東中野RAFTにて本日より
ドドド・モリ公演「自然との対話(笑)」。
自然というものが人為的でないものだとしたら、
それと対話するというのは人にとって矛盾した行いのように見えます。
海や山といった自然というよりも、人が歩くうちになんとなく出来た道、なんとなく出来た街並み、
なんとなく出来た人間関係、というなんとなくな意味での自然に着目します。
子供が体の大きさを自在に変化させて様々な遊びに没入するように、
意識によって世界のサイズが変わっていく。外の世界を力任せに作り変えるよりも、
それを捉える意識を変化させていく方が、双方にとって面白いお話が出来ると思います。 ダンスです。
コレオグラファー新宅一平さんの言葉。
いや、でも、百聞は一見にしかず…で、凄かった。
細かく分析すれば、きっと「自然との対話」なんだろうけど、
どこまでも不条理な感じがあって、肉体で、なんというか息もつかせぬ感じで、
その着眼点…なのか、思考の道筋…なのか、もう言葉ではなく、
カラダから生み出した…造形物…そんな表現がぴったりくる
…そういった意味ではどこまでも「肉体」の延長線上にある舞台だったと思う。
のこりは明日、明後日の3回公演。
■演出/新宅一平
■出演/王下貴司、新宅一平、手代木花野、羽太結子
■楽曲提供/大島亮
ドドド・モリ公演「自然との対話(笑)」。
自然というものが人為的でないものだとしたら、
それと対話するというのは人にとって矛盾した行いのように見えます。
海や山といった自然というよりも、人が歩くうちになんとなく出来た道、なんとなく出来た街並み、
なんとなく出来た人間関係、というなんとなくな意味での自然に着目します。
子供が体の大きさを自在に変化させて様々な遊びに没入するように、
意識によって世界のサイズが変わっていく。外の世界を力任せに作り変えるよりも、
それを捉える意識を変化させていく方が、双方にとって面白いお話が出来ると思います。 ダンスです。
コレオグラファー新宅一平さんの言葉。
いや、でも、百聞は一見にしかず…で、凄かった。
細かく分析すれば、きっと「自然との対話」なんだろうけど、
どこまでも不条理な感じがあって、肉体で、なんというか息もつかせぬ感じで、
その着眼点…なのか、思考の道筋…なのか、もう言葉ではなく、
カラダから生み出した…造形物…そんな表現がぴったりくる
…そういった意味ではどこまでも「肉体」の延長線上にある舞台だったと思う。
のこりは明日、明後日の3回公演。
■演出/新宅一平
■出演/王下貴司、新宅一平、手代木花野、羽太結子
■楽曲提供/大島亮
元DRAFTの植原亮輔さんと渡邉良重さんのユニット、キギ。
ギンザグラフィックギャラリーで行われているキギ展にて(30日まで)。
ふたりのスタートとなったflower vase。
詰め替え用シャンプーのパッケージを植原さんが考えていた時に、
何気なく渡邉さんが庭に咲いていた花を挿したことから生まれた…という。
DRAFTの宮田さんが、常日頃から語っていた
「庭はクリエイションの宝庫」が発端だと、渡邉さんは語る。
vaseのカタチを四角いままに残したのも、そのデザイン過程を伝えたかったのと、
シンプルなカタチから浮かび上がるvaseの驚きにこそ、デザインの本質はあると、
今後の自分たちの方向性を打ち出す意味合いもあった…という。
キギの作品群は、その方向性が示すようにどこまでも驚きの連続。
「え、これ全部手作業なの?」という根気を必要とするものばかり。
カタチになったものすべてに時間の堆積を感じる。
だから、いつまでも手に馴染むし、いつまでも手元に置きたくなる。
「デザインは手仕事」という当たり前のことを、ふたりは作品で提示している…そう思った。
ギンザグラフィックギャラリーで行われているキギ展にて(30日まで)。
ふたりのスタートとなったflower vase。
詰め替え用シャンプーのパッケージを植原さんが考えていた時に、
何気なく渡邉さんが庭に咲いていた花を挿したことから生まれた…という。
DRAFTの宮田さんが、常日頃から語っていた
「庭はクリエイションの宝庫」が発端だと、渡邉さんは語る。
vaseのカタチを四角いままに残したのも、そのデザイン過程を伝えたかったのと、
シンプルなカタチから浮かび上がるvaseの驚きにこそ、デザインの本質はあると、
今後の自分たちの方向性を打ち出す意味合いもあった…という。
キギの作品群は、その方向性が示すようにどこまでも驚きの連続。
「え、これ全部手作業なの?」という根気を必要とするものばかり。
カタチになったものすべてに時間の堆積を感じる。
だから、いつまでも手に馴染むし、いつまでも手元に置きたくなる。
「デザインは手仕事」という当たり前のことを、ふたりは作品で提示している…そう思った。
本日、金環日蝕。
「日蝕」と書くと、なんだか厭世的な印象が伴う。
「日食」のあっけらかんとした表層的な捉え方より、
「日蝕」の含みを持った字面が、本来はふさわしいのではないか。
2009年7月22日の「日蝕」のときは沖縄だったので(写真はその時のモノ)
字の如く太陽が蝕まれ、晴天なのに雨雲に覆われたような光の喪われ方で、
体感温度も2度ほど下がったような感じになり、「おお、天誅なり!」と
思わず太陽神に祈りを捧げたものだけど、
今日の朝、ビル清掃の合間を縫って見上げた東の空は、
3年前同様、減光フィルターをかけたような色気のない情景となり、
東京のグレイッシュな街並とあいまって、その天誅度は増したように思えた。
それはやはり東日本の震災の情景を思い出させた。
人間の営みなんてものは、自然の猛威に比べれば露程のものでもなく、
太陽がこうして一瞬たりといえど暗黒に転化するだけで、決定的となる。
「天体ショーだ、日食だぁ」と、ひとつのイベントとして捉えれば、
それは過ぎ去っていくものでしかないのだけれど、
その背景にある宇宙のスケールと、摂理の不可思議さに思いを巡らせれば、
人間なんてものは、己の運命すら天任せな存在なのだ…と、
謙虚な気持ちに立ち返られるというもの。
まさに震災で思い知らされた人間の営みの「うたかた」さ加減は、
身の丈を弁えて日々を積み重ねることに尽きるのだ…と受け止めることでしか、
体得しえないたぐいの、現実であった。
…太陽が蝕まれる。
天体ショーではなく、現実として、そこに在る。
…午前7時30分からほんの数分の出来事…と予定調和に感ずるのではなく、
「マウンダー極小期」として来年から70年間は、気温が2度下がるのだ…という氷河期のイメージも膨らませて、
自分がいまここに存在するのは、希有なことなのだ、とその僥倖を噛みしめる。
そのような視野で世界を見渡せば、
世の中の歪みの根本はすべて、人間のその傲慢さに依るものだ…と、わかるはずなのに。
読売新聞主筆の渡邉恒雄は語る。
「そもそも日本が脱原発をしたところで、隣の中国は今後、
黄海から東シナ海沿岸にかけて二百基もの原発をつくるという。
中国高速鉄道の事故の例を引くまでもなく、中国の技術力の限界というのは想像がつく。
もし、中国の原発が事故を起こせば、その放射能は偏西風に乗って黄砂とともにニッポンにやってくる。
その事実に眼をつぶって、脱原発を叫んだところで意味はあるまい。
それよりは、日本が開発したより安全な原発を中国に輸出するほうが、
日本の安全保障上はるかに有効ではないだろうか」(文藝春秋4月号101pより)
ナベツネは今日の「日蝕」を楽しんだのだろうか?
「日蝕」と書くと、なんだか厭世的な印象が伴う。
「日食」のあっけらかんとした表層的な捉え方より、
「日蝕」の含みを持った字面が、本来はふさわしいのではないか。
2009年7月22日の「日蝕」のときは沖縄だったので(写真はその時のモノ)
字の如く太陽が蝕まれ、晴天なのに雨雲に覆われたような光の喪われ方で、
体感温度も2度ほど下がったような感じになり、「おお、天誅なり!」と
思わず太陽神に祈りを捧げたものだけど、
今日の朝、ビル清掃の合間を縫って見上げた東の空は、
3年前同様、減光フィルターをかけたような色気のない情景となり、
東京のグレイッシュな街並とあいまって、その天誅度は増したように思えた。
それはやはり東日本の震災の情景を思い出させた。
人間の営みなんてものは、自然の猛威に比べれば露程のものでもなく、
太陽がこうして一瞬たりといえど暗黒に転化するだけで、決定的となる。
「天体ショーだ、日食だぁ」と、ひとつのイベントとして捉えれば、
それは過ぎ去っていくものでしかないのだけれど、
その背景にある宇宙のスケールと、摂理の不可思議さに思いを巡らせれば、
人間なんてものは、己の運命すら天任せな存在なのだ…と、
謙虚な気持ちに立ち返られるというもの。
まさに震災で思い知らされた人間の営みの「うたかた」さ加減は、
身の丈を弁えて日々を積み重ねることに尽きるのだ…と受け止めることでしか、
体得しえないたぐいの、現実であった。
…太陽が蝕まれる。
天体ショーではなく、現実として、そこに在る。
…午前7時30分からほんの数分の出来事…と予定調和に感ずるのではなく、
「マウンダー極小期」として来年から70年間は、気温が2度下がるのだ…という氷河期のイメージも膨らませて、
自分がいまここに存在するのは、希有なことなのだ、とその僥倖を噛みしめる。
そのような視野で世界を見渡せば、
世の中の歪みの根本はすべて、人間のその傲慢さに依るものだ…と、わかるはずなのに。
読売新聞主筆の渡邉恒雄は語る。
「そもそも日本が脱原発をしたところで、隣の中国は今後、
黄海から東シナ海沿岸にかけて二百基もの原発をつくるという。
中国高速鉄道の事故の例を引くまでもなく、中国の技術力の限界というのは想像がつく。
もし、中国の原発が事故を起こせば、その放射能は偏西風に乗って黄砂とともにニッポンにやってくる。
その事実に眼をつぶって、脱原発を叫んだところで意味はあるまい。
それよりは、日本が開発したより安全な原発を中国に輸出するほうが、
日本の安全保障上はるかに有効ではないだろうか」(文藝春秋4月号101pより)
ナベツネは今日の「日蝕」を楽しんだのだろうか?