「音」とは森羅万象に共有され、それゆえ、森羅万象を一つに結び合わせることができる「魂」のことだった。
「魂」のなかには過去の時間と過去の空間が重層的に折り畳まれている。
その「音」、ライフ=インデキスとしての「音」に導かれるようにして「歌」が発生してくる。
「音」は、あるいは「歌」は、過去を現在に接続し、さらには現在を未来にひらく。
折口信夫にとって「音」とは、古代と現代、野生と近代を一つに結び合わせるものだった。
(中略)
歌とはまず聞こえてくるものだった。そしてその「音」は、現実の「物」から遊離してしまう場合もあった。
つまり、「音」にとって、現実と虚構の分割、客観と主観の分割、外部と内部の分割は、なんの意味ももたないものだった。
「音」は、現実的であるとともに虚構的でもあり、客観的であるとともに主観的でもある「像(イメージ)」を呼び起こす。
「像」が先にあって「音」が当てはめられるのではなく、「音」に導かれて「像」が生起するのだ。
そのとき生起した「像」と現実の「物」とは直接の関係をもたない。
折口信夫=釈迢空にとって、「自然・自己一元」とは現実でも虚構でもない地平で、外部にも内部にもない「音」の進展、
つまり「音」による外部と内部のリズムの同調として果たされる。
(安藤礼二著「折口信夫」より)
坂田明×
山崎阿弥「ぜんぶおんがく」@神保町「
試聴室」