【YouTube】Caminhos Cruzados/Caetano Veloso
Quando um coração que está cansado de sofrer,
Encontra um coração também cansado de sofrer,
É tempo de se pensar,
Que o amor pode de repente chegar.
Quando existe alguém que tem saudade de outro alguém
E esse outro alguém não entender,
Deixa esse novo amor chegar,
Mesmo que depois seja imprescindível chorar.
Que tolo fui eu que em vão tentei raciocinar
Nas coisas do amor que ninguém pode explicar!
Vem, nós dois vamos tentar...
Só um novo amor pode a saudade apagar
●
疲れ果てた魂がもう一つの疲れ果てた魂に出会う時
愛が芽生えることがある、突然に
愚かだった、誰も解けない愛を一人で解こうとしていたんだ
愛だけが、古い愛を砕くのだから
From Newton Mendonca+Tom Jobim / 十字路
「十字路」…JobimとMendoncaの「さだめ」が交差した美しい創造。
ひとつの幸福な結晶だと、ボクは思う。
Bossa Nova黎明期の傑作。
●
3月28日、日曜日。花冷えの東京。
昨日よりも気持ち寒い気がする。
「ボクは結局、そういった人間の持つ祈りにも似た「想い」に共鳴しているんだと思う。」
…と昨日書いたけど、1年前の誕生日を読み返してみると、輪廻転生について触れていた。
今日も撮影しながら「想い」を写すってどういうことだろう…と考えていたんだけど、
そういや「念写」って言葉があるよなあ…と漠然と思った。
写真黎明期の時代は、「魂が盗られる」とまで恐れられていたメディア。
やはり「想い」とか「祈り」とか表層化しない部分を写し取る力が、
写真にはあるんじゃないか…少なくも銀塩写真にはその力が残っているんじゃないか?
ケータイでも簡単に写真が撮れる時代に、なんとアナログな…と思うだろうけど、
ボクはそういった「人の業(ごう)」に親しみを覚える人間だから、
どうしてもデジタルの割り切れた世界には気が削がれるのだ。
世界そのものが、…理屈では説明できない成り立ち。
人と人とが交差する…その偶然性・必然性も、
生と死を分つ…その理不尽なさだめも、
ボクが生きている…その事実自体も、決して説明はつかない。
そう、説明不要の事実として、ここに在る。
●
そんな「さだめ」の交差したところで、
新たな創造が生まれる。
ボクはそういった予兆を期待し、被写体にカメラを向ける
…のだと、思う。
いわば、写真は「過去」ではなく、「未来の兆し」なのだ。
Quando um coração que está cansado de sofrer,
Encontra um coração também cansado de sofrer,
É tempo de se pensar,
Que o amor pode de repente chegar.
Quando existe alguém que tem saudade de outro alguém
E esse outro alguém não entender,
Deixa esse novo amor chegar,
Mesmo que depois seja imprescindível chorar.
Que tolo fui eu que em vão tentei raciocinar
Nas coisas do amor que ninguém pode explicar!
Vem, nós dois vamos tentar...
Só um novo amor pode a saudade apagar
●
疲れ果てた魂がもう一つの疲れ果てた魂に出会う時
愛が芽生えることがある、突然に
愚かだった、誰も解けない愛を一人で解こうとしていたんだ
愛だけが、古い愛を砕くのだから
From Newton Mendonca+Tom Jobim / 十字路
「十字路」…JobimとMendoncaの「さだめ」が交差した美しい創造。
ひとつの幸福な結晶だと、ボクは思う。
Bossa Nova黎明期の傑作。
●
3月28日、日曜日。花冷えの東京。
昨日よりも気持ち寒い気がする。
「ボクは結局、そういった人間の持つ祈りにも似た「想い」に共鳴しているんだと思う。」
…と昨日書いたけど、1年前の誕生日を読み返してみると、輪廻転生について触れていた。
今日も撮影しながら「想い」を写すってどういうことだろう…と考えていたんだけど、
そういや「念写」って言葉があるよなあ…と漠然と思った。
写真黎明期の時代は、「魂が盗られる」とまで恐れられていたメディア。
やはり「想い」とか「祈り」とか表層化しない部分を写し取る力が、
写真にはあるんじゃないか…少なくも銀塩写真にはその力が残っているんじゃないか?
ケータイでも簡単に写真が撮れる時代に、なんとアナログな…と思うだろうけど、
ボクはそういった「人の業(ごう)」に親しみを覚える人間だから、
どうしてもデジタルの割り切れた世界には気が削がれるのだ。
世界そのものが、…理屈では説明できない成り立ち。
人と人とが交差する…その偶然性・必然性も、
生と死を分つ…その理不尽なさだめも、
ボクが生きている…その事実自体も、決して説明はつかない。
そう、説明不要の事実として、ここに在る。
●
そんな「さだめ」の交差したところで、
新たな創造が生まれる。
ボクはそういった予兆を期待し、被写体にカメラを向ける
…のだと、思う。
いわば、写真は「過去」ではなく、「未来の兆し」なのだ。