従順なテクノクラート養成所であったKO大学工学部。折角補欠では入れたのだから、何とか卒業したい気も少しはあったのですが・・・押し付けられるのが大嫌いなのですよ。それで、授業に出ないから分からない。分からないから面白くないという悪循環に陥りまして、4年間通いましたが結局3年生に進級できず、中退となりました。マムシ谷を渡れなかったなんて言ってました。
それで、東京の下宿を引き上げて京都に戻ってきたのですが・・・親の勧めで名古屋の「経営後継者養成所」という名の専門学校に1年通わされました。そこも持ち前のさぼり癖が出て危うかったのですが・・・・何しろ全生徒数が6人!!だったので非常に手厚いフォローアップを受けまして、何とか卒業にこぎつけました。
父親が京都室町で着物の白生地の問屋を営んでおりました。それで、後継者となるべく教育を受けたのでした。・・・・何とか卒業後、京都に戻って同業他社、父親の知り合いの会社に就職、丁稚奉公ですね。
入社して、下働きがあまりに単調な仕事で・・・時間が全く進まないのです。一時間は経っただろうと思っても10分も過ぎていないなどと言う魔法の様な経験をしました。
そんな単調な生活に飽き飽きしていた私ですが、入社2か月でその単調な仕事から突然解放されることになりました。なんと、勤め先の会社が倒産したのです。突然会社がロックアウトされ、出勤不能となりました。そしてその一か月ほど後で、父の会社も連鎖倒産してしまいました。とうさんとうさんなんていっているばあいではありませんでした!
当時の室町通は呉服問屋の街でした。今でも呉服問屋の街ではありますが、生き残っているのは半分以下ではないでしょうか。「構造不況」などと言われていました。呉服自体の需要が下がる一方だったので、呉服白生地の問屋などと言う業種は、消えてしかるべきだったのかもしれません。
私としては、「嫌々継いであげようかな?」などと上から目線で鷹揚に構えていたのですが、継ぐべきものが無くなったのには少し驚きました。肩透かしを食らった感じでした。
2か月少々しか働いていなかったので失業保険も貰えず(ひょっとしたらもらえたのかもしれませんが、そう思い込んでいました)することもなく過ごしていた私に、高校時代の友人から声がかかりました。「暇やったらチリコせえへんけ!」
チリコ????なんやねんなそれ?
チリ紙交換や。結構おもろいで
ふうん、そなやってみよか
それで、チリ紙交換業を営むことになりました。
親方に軽トラを一日千円で借ります。その車で故紙(古新聞、古雑誌、段ボール等)を集めて回ります。それを集積所で種類別に下ろし、その都度カンカン(車ごと重さをはかる機械)に乗って車ごと重さを計測し、下ろした積み荷の重さを計ります。種類ごとに単価が決まっていて、たとえば新聞¥18/㎏、雑誌¥8/㎏ 段ボール¥10/㎏ 古新聞400㎏ 雑誌300㎏ 段ボール20㎏だったら、400×18+300×8+20×10=9,800円の売り上げとなります。そこから車の賃料¥1,000とガソリン代を引いたものが手取りになるわけです。
始業時間:自由、終業時間:自由 休日:自由
私、こういう単純明快なシステム好きなのですよ。それで、「天職やんか!」とか言って、大いに気に行って1年ほど働いていたのですが・・・
天職だと思っていた職業にも転職の時期がやって来ることに・・・・・
続く