最近、とても気がかりなのである。新聞やテレビが変調を来たしてはいないか、報道機関が基礎体力を失ってはいないか、と。
言うまでもなく、新聞やテレビとは政府や地方自治体などの広報機能ではなく、逆に、公権力や搾取階級への監視機能を担うべきはずだ。しかし、その尖兵であるべき記者たちが、このところ、公権力に安易に同調してしまったり、または自社の「営利団体としての都合」に合わせた記事を書き、それを恥じもしない。社の幹部や馴れ合い関係の一部の者たちに満足してもらうための記事を書き、本来その職責で第一に優先しなくてはいけない「読者」への責任は果たしていないのではないだろうか。
権力者側が不健全なのは世の常だ。しかし、記者たちが権力者たちに飼い慣らされ、擦り寄る社会…。これは、世の中が健康を害して、かなり危うくなってきているのではないだろうか。
主催者側(当局)発表の記者会見に頼る報道も多くなってきている。本来、会見などというものは、最小限の努力で記事を書きたい自堕落な者のために当局側が用意した「談合」なのだが…。
報道機関の中には、先輩方が経験をおとにつくった語呂合わせの訓戒が多くある。代表的なものでは、「健康より原稿」(健康の心配をする暇があるくらいなら原稿を書け)、「殺し3年、火事8年、デスクのバカヤロ15年」(殺しの取材は3年かかる。現場が混乱する火事は、情報収集が殺しよりずっと難しい。さまざまな情報をまとめて紙面化していくデスクはさらに難しい)、「記者は考える足である」(考えることと同時に、足を使って取材することを重視しろ)などなど。
そんな中に「人事が万事」というのがある。「一事が万事」の語呂合わせだが、役人でも経営者でも、取材対象の人事を抑えることが記者活動の基本であり、最終目標でもある、というような意味。つまり、人事を知り得るくらいに「食い込み」しているという感覚だ。
はっきり言って、読者には何の関係もない。その「食い込み」をどう活用するのかだけが問題なのである。人事ねたは、身内や社内での評価狙いの取材活動だ。こういう記者を「社会派記者」に対して、「社内派記者」という。「人事が万事」などという言葉が大切にされること自体、報道の危機なのだ。取材先からのリークにもすぐに食らい付く「談合記者」が多い。
「談合」つながりで例を挙げれば、「福島疑惑」もそうだ。
知事の周辺からのきな臭い話ではある。しかし、本意か不本意かの度合いは置いておいて、ともかく通常の職制遂行の中でどうしても発生せざるを得ないような、もしくは細心の注意を払ってようやく食い止められるかどうかの、ちょっと突つけば全国のどこの首長からでも見つかるような、そんな犯罪をなぜ今ことさらに取り上げるのか。確かに、税金を私する「汚職」はいつの時代にも許しがたい犯罪である。しかし、税金を掠め取る犯罪者集団は彼らだけではあるまい。いや、今回の捜査を特捜にやらせている者たちこそ、本当の盗賊であろうと、情報通で勘のいい記者ならば、考えるのがごく自然だ。しかし、記者たちは、「やらない」のである。
今回の疑惑で失脚した佐藤栄佐久前知事の排除を最も望んでいた者は誰か。国策である原子力政策への前知事による反対行動や、福島の建設業者の「地産池消」体質によって、最も食い扶持が減らされていたのは、どこのどいつなのか。記者たちは、本当は分かっている。今回の一連のグランドデザインを描いたのは誰なのか。
しかし、「やらない」。だから今、記者が絶滅危惧種となっているこの国が危ないのだ。
「国」という最悪のヤクザ組織から国民を守れるのは、健康な報道機関ではないだろうか…。隣の国を見れば、一目瞭然のはずだ。報道機関の「変調」は、社会の「偏重」に発展していく、と思うのだが。
言うまでもなく、新聞やテレビとは政府や地方自治体などの広報機能ではなく、逆に、公権力や搾取階級への監視機能を担うべきはずだ。しかし、その尖兵であるべき記者たちが、このところ、公権力に安易に同調してしまったり、または自社の「営利団体としての都合」に合わせた記事を書き、それを恥じもしない。社の幹部や馴れ合い関係の一部の者たちに満足してもらうための記事を書き、本来その職責で第一に優先しなくてはいけない「読者」への責任は果たしていないのではないだろうか。
権力者側が不健全なのは世の常だ。しかし、記者たちが権力者たちに飼い慣らされ、擦り寄る社会…。これは、世の中が健康を害して、かなり危うくなってきているのではないだろうか。
主催者側(当局)発表の記者会見に頼る報道も多くなってきている。本来、会見などというものは、最小限の努力で記事を書きたい自堕落な者のために当局側が用意した「談合」なのだが…。
報道機関の中には、先輩方が経験をおとにつくった語呂合わせの訓戒が多くある。代表的なものでは、「健康より原稿」(健康の心配をする暇があるくらいなら原稿を書け)、「殺し3年、火事8年、デスクのバカヤロ15年」(殺しの取材は3年かかる。現場が混乱する火事は、情報収集が殺しよりずっと難しい。さまざまな情報をまとめて紙面化していくデスクはさらに難しい)、「記者は考える足である」(考えることと同時に、足を使って取材することを重視しろ)などなど。
そんな中に「人事が万事」というのがある。「一事が万事」の語呂合わせだが、役人でも経営者でも、取材対象の人事を抑えることが記者活動の基本であり、最終目標でもある、というような意味。つまり、人事を知り得るくらいに「食い込み」しているという感覚だ。
はっきり言って、読者には何の関係もない。その「食い込み」をどう活用するのかだけが問題なのである。人事ねたは、身内や社内での評価狙いの取材活動だ。こういう記者を「社会派記者」に対して、「社内派記者」という。「人事が万事」などという言葉が大切にされること自体、報道の危機なのだ。取材先からのリークにもすぐに食らい付く「談合記者」が多い。
「談合」つながりで例を挙げれば、「福島疑惑」もそうだ。
知事の周辺からのきな臭い話ではある。しかし、本意か不本意かの度合いは置いておいて、ともかく通常の職制遂行の中でどうしても発生せざるを得ないような、もしくは細心の注意を払ってようやく食い止められるかどうかの、ちょっと突つけば全国のどこの首長からでも見つかるような、そんな犯罪をなぜ今ことさらに取り上げるのか。確かに、税金を私する「汚職」はいつの時代にも許しがたい犯罪である。しかし、税金を掠め取る犯罪者集団は彼らだけではあるまい。いや、今回の捜査を特捜にやらせている者たちこそ、本当の盗賊であろうと、情報通で勘のいい記者ならば、考えるのがごく自然だ。しかし、記者たちは、「やらない」のである。
今回の疑惑で失脚した佐藤栄佐久前知事の排除を最も望んでいた者は誰か。国策である原子力政策への前知事による反対行動や、福島の建設業者の「地産池消」体質によって、最も食い扶持が減らされていたのは、どこのどいつなのか。記者たちは、本当は分かっている。今回の一連のグランドデザインを描いたのは誰なのか。
しかし、「やらない」。だから今、記者が絶滅危惧種となっているこの国が危ないのだ。
「国」という最悪のヤクザ組織から国民を守れるのは、健康な報道機関ではないだろうか…。隣の国を見れば、一目瞭然のはずだ。報道機関の「変調」は、社会の「偏重」に発展していく、と思うのだが。
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