【6月1日の記述】
5月29、30日の日、月曜日。
双葉町の家を流されて喜多方市に避難中の小学3年生の甥っ子が、郡山市の私の自宅に遊びに来た。
家はもちろん、お気に入りだったおもちゃのすべてを流された。
内弁慶の甥っ子が、家族のいる喜多方を離れてわざわざ郡山の私の自宅に来る目的はふたつ。
ひとつは、親戚では2人きりの同世代の男の子であるうちの息子と遊ぶこと。
もうひとつは、その息子のおもちゃ。できれば、分けてもらいたい。そりゃあそうだ、自分のは全部、津波でなくなってしまったんだ。どこかで調達しなくちゃ。
一方の息子、たとえ被災者とはいえ、自分のおもちゃは何人にも分けたくはない。
こちらも当たり前。実に健全な、子供らしい本音。
◇
で、今朝(30日)、起きたらすぐにおもちゃの取り合い。
まだ6時ちょっと過ぎ、2階の寝室から1階の居間に下りていくと、すでに交戦中だった。
震災以来、我が家は避難者を受け入れ大人数になり、スペースの関係で、朝食は時差式で取るシステムになっている。
この日の1番目は私。朝7時前に家を出発しなくてはいけない。
居間にちゃぶ台を広げる。私が終われば、次は妻、息子、姪っ子、と続いていく。
◇
まず、私が納豆飯と味噌汁を掻き込む。
が、その隣で息子と甥っ子は、まだ仮面ライダーのカードやらメダルやらの取り合いを続けている。
男の子のいざこざなんて本来は歓迎すべきものだが、しかし、忙しい朝にはやはり迷惑だ。
◇
「いい加減にしろ」
迫力をもたせたつもりなのだが、2人ともまったくケンカをやめない。
「どうせ、もうすぐ出勤しなくちゃいけないんだろ。いいから、早く食べて会社に行きな」ってな調子。明らかにこちらの警告を軽く見ていることが伝わってくる。
◇
「チャラチャラするな!」
腹から、声を出した。
男の子は、危険を本能で察知する。
かつて、私もそうだったが、大人の男が本気で怒っているときの危険感知は、男の子にとっては生命線だ。
◇
「どうせ、あと何か月かでまた新しいライダーが出てくるんだぞ。どうして出てくるか、分かるか? 新しいおもちゃを作って、お前たちみたいに、すぐにほしがる奴らに売りつけるためだ。いま取り合っているメダルだって、すぐに時代遅れになっちゃうんだぞ」
テレビ番組とおもちゃ開発の連携、さらにはカードやメダルゲームとの連携は、子供だましだが、本当に子供をだますための巧みなシステムだ。
が、少し言い過ぎたか? 2人ともとたんに消沈している。
即、懐柔策に転じた。
「でも、実は、おじちゃんも子供のころは仮面ライダーが大好きだったなぁ」
◇
甥っ子の様子をうかがった。
しばしの時を置いて、甥っ子はうつむいたままで、「でも、おじちゃんが好きだったのは『昭和ライダー』でしょ…」
◇
昭和ライダー。
最近のライダーの先輩役としてしばしば登場して、子供たちには、そういうククリがあるらしい。
こんど消沈したのは、私のほうだ。
そして、私がぐらついたのを2人とも見逃さない。息子が甥っ子に続く。
「ぼくも、昭和ライダーなら、いらない」
◇
昭和ライダー、平成ライダー。単なる分類わけを超えて、「区別」というより「差別」の色合いが強い。
ともかく、誕生から40年以上の時間を経て、仮面ライダーは「変身」しすぎた。
「オールライダー大行進」なる映画もあるそうだが、いまや仮面ライダーは100種類以上もあるらしい。まさしく昆虫のように多様な進化(退化もある)を遂げ、もはや収拾がつかなくなっている。
◇
さらに、目を覆いたくなるのは、このところの関連商売のあざとさだ。
現在の仮面ライダー「オーズ」は、頭、上半身、下半身の3つがコンボとなって、複数の組み合わせができる体。直前の「仮面ライダー・ダブル」は右半身と左半身の組み合わせで複数の体ができる。「変身」は1→1ではなく、複数×複数の組み合わせを導入し、無限の変身組み合わせを導入してしまった。あざとい。
これによっておもちゃは1作品でも膨大な種類が販売可能となり、さらに変身のためのアイテムもメダル、メモリ、カードなど多種にすることによって、すさまじい数のおもちゃの販売を可能にした。
◇
○○ライダーで楽しませて金を巻き上げて、一年後には××ライダーで金を巻き上げる。
◇
ちょっと、待て!
1号機を与えて、貧しい過疎地が贅沢を覚えさせ、その効能(補助金)が減衰するころ、2号機増設が持ちかける。再び効能(補助金)を与える。
佐藤栄佐久・前福島県知事が著書「知事抹殺」の中で指摘していた、「原発麻薬」と同じ手法じゃないか。
地道な産業などには戻れない地域体質をつくる。
自分の力(地場産業の振興)で生きるという正常な力を失わせたうえで、麻薬(電源開発補助金)を次々と増やしていかなくてはいけない体質。
タバコ、麻薬と同じ「依存症」。これじゃ、ヤクザがやっている薬付け手法といっしょだ。
夕張や只見も同じなのだ…。
◇
うんざり…。
これが実体か。
仮面ライダーの商売も、原発も、目的は「効率」と「効果」なのか。
【6月5日の記述】
6月5日の日曜日、息子と2人で天栄村の「レジーナの森」に行ってきた。
小学2年生の男の子だ。震災以来、郡山市は外遊びが制限されているが、兎にも角にも、体を動かさなくては生きていけない年ごろである。
福島県の子供たち全員に共通すると思うが、みな、体力の持って行き場がなくて、本当に困っている。
で、私が単身赴任先から帰る日曜日は、とにかく息子を体を動かせる場所に連れて行くことが必修事項となっている。
◇
この国では、もはや国民が国を信じるということが、困難になっている。
優先すべきことを判別できない国会議員たちなど、言うに及ばず。
原発事故についても、放射線量についても、国も東電もうその上塗りで「オオカミ少年」状態。もはや、何を言っても、もはやだれも耳を貸さない。
◇
複数の情報を分析・照合した結果、羽鳥湖周辺は子供がマスクなしでも遊べるレベルだと自分で判断した。
カナディアン・カヌーに乗って、マウンテンバイクに乗って、約4時間。
十分に体を動かした。これでもかっていうほど、疲れた。
キャンプサイトがきれいだったので、「夏休みにはキャンプに来よう」と息子と約束した。
「レジーナの森」は、すてきだった。
◇
ただ、ちょっと気に掛かった。
キャンプサイトは「コールマン」一色。アウトドアグッズも「コールマン」製品ばっかり。調理スペースも入浴施設もやたらと快適に整備されすぎている。
便利すぎ。これじゃ、キャンプのまねをしたホテルみたいじゃないか。
◇
そういえば、このところ、スポーツ用品店のキャンプ用品売り場のガスは「コールマン」ばっかりなのだ。
福島の単身アパートにはガステーブルがないので、20年ほど前にキャンプで使っていた「EPI」のストーブ・コンロを使っている。
1週間ほど前、20年前からストックしていたEPIのガスがついに切れたので、スポーツショップに買いに行った。
そうしたら、EPIの在庫がなく、さらに、しばらくは入ってこないとのこと。棚には「コールマン」はずらりと並んでいるのに、である。
EPIは被災地に供給されているという。「コールマン」は性能が落ちるということではなく、生産量が多いということで、供給されているとのこと。
◇
どのメーカーのストーブにも「当社のガスのみを使用してください。他社製品を使った場合、万が一何か事故があってもあなたの責任です」みたいな旨の但し書きがある。
結局は自社製品の販売促進なんだろうが。
◇
しょうがないので、コールマンのガスを買って、EPIのストーブで使った。
問題なし。着火も、火力も、相性が良かった。
◇
ガスの側面をよく見ると「○○金属工業」の文字。ガスを充填している会社だ。
結局、表記メーカーの名前が違うだけで、ガスの充填会社は一緒だったのだ。
◇
名前って、すごい。
使うならば、人気メーカーのものが汎用性の面からいって、断然有利。
これからのことを考えると、EPIよりコールマンンに乗り換えたほうがいいだろう、きっと。
◇
でも、まぁ、おれは「EPI」を続けるだろうな。
巨人よりも近鉄のほうがはるかに魅力的なのだから、おれには。
【6月11日の記述】
今朝(6月11日)は、いつもより時間をかけて新聞各紙を読んだ。
このところの、新聞やテレビ報道の停滞に危惧を感じていたからだ。
被災情報を情緒的に流しつつ、原発事故の本筋報道を意識的に避けているような記事が目につく。
◇
ちなみに、福島県には「ラジオ福島」というメディアもある。アナウンス担当の(たぶん取材活動は中学生新聞並みの)社員が取材したことに対して情緒丸出しでしゃべる。で、決して、御上には楯突かない。
実にアブナイ。
情報の分析機能を持たないので、取材した社員の興奮状態の情緒が、ただただ流される。
しかも、テレビやネットにつながらない被災者、特に高齢者にとっては、ラジオは手軽な情報源。ゆえに、危険なのだ。
◇
ただし、新聞も、その「ラジオ福島」並みになってはいないだろうか? と、最近は、さらに大きな危惧に襲われる。
◇
ひっかかるのは3つ。
①これまでいろいろお世話になってきた(つまりは、莫大な広告収入をもらってきた)東電への遠慮
②護送船団意識(つまりは記者クラブ意識)丸出しのメディアスクラム
③自己保身の術にばかり長けたサラリーマン記者の身内に向けた(つまりは組織の上司に好かれるための)記事
権力者が不健全なのは世の常。が、新聞の変調こそがこの国の本当の危機なのだ。
◇
で、6月11日。新聞を判定するには、格好の条件がそろった。
①震災から3カ月②カタルーニャ国際賞授賞式の村上春樹氏のスピーチ③4月に内閣官房参与を辞任した小佐古氏の報告書ーの扱いが気になった。
「震災から3カ月」の特集は、当然ながら、どこも似通ったまとめ方。
◇
村上氏のスピーチは、名演説として後世に残るだろう。
リンカーンのゲチスバーグ演説やキング牧師の「アイ・ハブ・ア・ドリーム」、またはオバマやヒトラーの演説のような、韻を踏むリズミカルさはない。
そういう演説は日本語には不向きだ。
ただ、訥々と真実を表明した。新渡戸稲造が「武士道」で説いたように、華美でなく、人の欠点を強調せず、西洋にはない精神性を広く洋の東西を超え、世界に広く紹介した。
いまは高く評価できない人が多いかもしれない。しかし、きっと後世が高く評価するだろう。
◇
この日本人として誇らしいスピーチに関して、全国紙はどこも淡々とし、扱いは私の予想よりは随分と小さめだった。
小佐古氏の報告書に関しては、さらに小さかった。
唖然とした、朝から。
今朝、新聞がすでに市民の側にいくなってしまったことを実感した。
◇
「毎日」はネット連動で村上氏のスピーチの全文を紹介していた。「毎日」は、もはや紙ではなく、ネットに未来を求めたかようだ。
◇
一方、全国紙の「節電煽り」には閉口した。
電力需要の危機を殊更大きく使い、もう、原発の必要性を訴えかける記事をやり始めた。
アサマシイ。
この国の新聞は、ここまで落ちていたのか。
◇
ただ、ひいき目なしで、地方紙の「福島民友」は、村上氏のスピーチも、小佐古氏の報告書も、どの新聞より扱いが大きかった。きっと、被災者と目線が近いからだろう。
◇
これから福島県では低年齢層を中心に、甲状腺異常が増えていくことだろう。
それがきちんと公に伝えられていくだろうか。
もはや、新聞やテレビを頼るのは、あまりに儚い。
【6月15日の記述】
「文章を書く」という行為。
これまで、私の半生の中では、ごくありふれたで行動でしかなかった。
特段の自己表現手段として活用しては、ごく日常的な生活活動の一環。
食べることや、寝ることなどと同程度の、生活活動としての「書く」ということ。
その意欲が消失した。
中学1年生で「新聞委員」になって以来、初めて「書く」気がなくなった。
◇
25年前、私を新聞記者として初めて認めてくれた先輩の言葉が、私を支え続けたように思う。
「おれも、お前も、書くことが大好きだ。それが、人様の役に立っている。こんなに痛快で幸福なことはないだろう」
◇
書くことに関して、先輩は達人である。
その著書の多くには、多くの学びをいただいた。その先輩から、書くことが好きと評価されたのがだから有頂天になった。
先輩の著書に、何度か、若手記者として登場させてもらっている。
◇
書くことで、世の中の役に立てるものだと過信していた。
今回ばかりは、書く気になれない日が続いた。
◇
原発事故に絡んだ、国や県、東電のこと。さらに、新聞とテレビについても。
失望のほかに、すべきことはもう何もない。
◇
上杉隆氏がジャーナリスト廃業宣言をしたと、きょう知った。
やむなし。
もはや、この国の新聞、テレビは、「報道」を標榜することは許されないだろう。
将来、「ジャーナリズムの劣化が最も進んだ時代」と評価されるてしまうのではないだろうか。
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