アコギおやじのあこぎな日々

初老の域に達したアコギおやじ。
日々のアコースティックな雑観

事なかれは、事を大きくするのみ

2006-11-09 | Weblog
 6日より入院し、7日に手術を受けた。2月に骨折した左ひざに埋め込んでいたボルトを摘出するだけの手術だったので、8日にはベッドから出られるようになった。
 とは言っても、やはり体を切って異物を取り出すので、大変ではあった。ちんぽこから管を入れておしっこを出すし、麻酔による頭痛もあるし、切ったところももちろん痛いし。

 中でも、一番苦痛だったのは、やはりちんぽこの管である。手術直前、下半身麻酔が効いてから、麻痺してる下半身から手術中に尿が出てこないように、ちんぽこの穴に管を入れる。ちなみに大便のほうは心配ない。前日から絶食し、当日も早朝に強力な浣腸をして全身からから。きれいさっぱりである。このとき、「おれって今、だれよりも清潔なんだろうなあ」と思うのである。

 ちんぽこの管は、麻酔の効いているうちはいい。手術が終わって、その晩。次第に麻酔が切れてくると、どうもいつも尿がだらだらと垂れ流している感覚だ。これは結構、つらい。さらに生殖器の奥のほうが痛い。しかし、その晩は手術の疲れや麻酔の名残の茫漠とした意識の中でどうにか眠れる。


 で、翌日朝である。

食事は手術前日からしていないが、空腹感はない。手術を受けるのに相当のエネルギーを消費しているのだが、やはり麻酔によって体がきちんと機能していないのだろう。下半身や腹部の感覚が曖昧だ。ただ、喉の渇きは空腹感とは別物だ。意識は多少茫漠としたままだが、渇きの苦痛は鮮明だ。前日の夜から少しばかりの水分補給を許されているが、これは口の中を湿らせたという程度。で、朝になったら、いっきにがぶ飲みしたいと思う。かつてガッツ石松さんは、減量で水分を取らないときに出されるコップ一杯の水は何万円でも買う、と。それくらい、オレも渇いているのだ。しかし、記憶にはあるのだ。ちんぽこ管を外した直後の尿は、すさまじく痛い、と。

 しかし、やっぱりオレはどんな困難も三歩歩いて忘れるタイプなのだ。

 朝、管を外してもらった。とにかくうれしくてたまらなかった。看護婦さんに外してもらった瞬間「やったぁ」などと子どものように叫んでしまった。そうしたら、前回の記憶は霧散していた。
 濁流が一気に山間を駆け抜けるように、一気に水を喉に流し込み、幸福のビッグウェーブに身を任せるのである。しかし、やがて尿意のビッグウェーブもやって来るのである。


 自分のちんぽこで小便ができるというのは幸福である。が、今手術直後の放尿時の痛みも耐え難いものがある。

 そこで、思いつく。極限まで我慢して、放尿の回数を最小限に減らせばいいのだ。
 軽めの尿意は先送りしてみる。また、いやいや、まだがまんできる。もうすこし先に延ばして…。
 小さな「事なかれ」を重ねるのだ。しかし、ビッグウェーブは必ずやってくるのだ。


 激流となった尿は、文学少女のように繊細な、か細い私のちんぽこを稲妻のように駆け抜けるのである。
 そういえば、前回もこうだったな、と激痛に身悶えしながら放尿するのである。

 尿意が軽めのうちに事を解決すべきであった。問題先送りが大事を招くことは、三菱ふそうやパロマが教えてくれたはずなのに。

 「世界史の未履修問題も同じだなぁ」。
 遠退く意識の中で、私はしみじみ思うのであった。
 チンポコの激痛にも教訓は内包している、という体験談である。

 入院生活は、もう少し続く。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« いじめ? いちいち死ぬな | トップ | ジェシ・コリン・ヤングさん »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事