私が中学一年の時
バレーボールと珠算教室との掛け持ちをしていた。
年の違う従姉妹は、
すでに結婚し子供をもうけ珠算教室を開いていた。
男子2人だったので、珠算教室をいずれ私に継がしたいと思っていたらしいが
私が相談もせずに、バレーボール部に入ったので、大変怒っていたらしい。
珠算とバレーボールとは相性が悪い。
ピアノとも、バレーボールは相性が悪い。
指にボールが当たるため、指の節々が太くなり、細かく早いパフォーマンスは無理になると言われていたからだ。
バレーボールを辞めたくない私は、
珠算も辞めず、なおかつ、
時々は、珠算教室を手伝うことを条件に
しばらく、二足のわらじ生活をしていた。
しかし、小さな子に、珠算を教えるのは楽しい時間だった。
珠算で生活していけるなら、このままでもいいかとも思っていたりした。
しばらくして、私の兄が入院することになった。
母は付き添い、私は家事一切を仕切り、バレーボール部も、珠算教室もお休みすることとなった。
兄は既に持病を持っていたがために、
特殊な病気から、当時住んでいた家から
車で2時間の場所に入院した。
まだ、関西空港も出来てない時代。
高速道路も、全てが繋がっていなかったとき。
父と2人の生活。
しかも、家族4人で暮らし始めてから3年目。
事情があって、離れ離れの生活を経てやっと家族一緒にと暮らし始めてから、あっという間のこと。
また、家族が離れてしまったことになったせいか、毎日のように、父は病院に行くと言う。
私も家事を終えて一緒にいく。
その最中、珠算教室の従姉妹から連絡がはいり、どうやら、私は、珠算教室からの推薦で、最優秀の生徒だと表彰されることになったと言う。
それまで、なんの取り柄もなく、まして、表彰されたこともなかったため、父は喜び、その表彰の日は、休んで連れて行ってくれることになった。
場所は、大阪市の中之島『中央公会堂』
その時さえも、かなりレトロな建物だった。
第一次世界大戦のすぐ後に建設されたもの。
古びた建物が、より表彰されること自体の重みが感じられた。
むろん、表彰されたのは私ひとりきりではなく、沢山の方々が来ていたが、
来賓の人がどれだけ偉い人達なのかは、私は全くわからなかった。
興奮した面持ちで、
半泣きしていたような父は帰りの道すがら
いつも立ち寄るドライブインで
『今日は、どれだけ高いものをたのんでもいいから』と言ったが、
結局頼んだのは、いつもの大好きな『ハンバーグ』だった。
それから、長い年月がたった。
辰野金吾と言う、建築家を知る。
知る人ぞ知る、東京駅や、日本銀行を設計した近代日本の建築家として有名な方だった。
うちの相方の出身である温泉の楼門を作った方でもあるし、私がかつて表彰された、あの大阪の『中央公会堂』も設計されたことを知った。
あちこちで関わっていた場所に
一本の思い出の線のように
浮き上がる名前。
そんな思い出を何の気なしに
親友と話をしていた。
『うんうん』と静かに彼女は聴いていた。
つい、1週間前に
その親友は大阪に旅行した。
沢山の場所に足を運んだらしい。
そして、『実は行ってきたの』って
100歳になった『中央公会堂』に寄って来たと、そのお土産を持参してやってきた。
少しでも私が父との思い出を
大切にできるようにと、公会堂の中のショップでお土産を買って来てくれたのだった。
嬉しかった。
唯一の父と2人だけの思い出の場所。
ちょうど、100年のアニバーサリーのポストカードと、ピンバッチを手に入れた。
有り難くて、うれしくて、涙が出そうになった。
その建物があったからこそ
話ができ、その姿を確認できる
思い出も溢れた。
建物とは
たんに箱物と呼ばれるわけでなく
色んな思い出も一緒に連れて年を重ねていくのだと、あらためて思ったこと。
できるなら
私が再び、その前に立てればと思う。
バレーボールと珠算教室との掛け持ちをしていた。
年の違う従姉妹は、
すでに結婚し子供をもうけ珠算教室を開いていた。
男子2人だったので、珠算教室をいずれ私に継がしたいと思っていたらしいが
私が相談もせずに、バレーボール部に入ったので、大変怒っていたらしい。
珠算とバレーボールとは相性が悪い。
ピアノとも、バレーボールは相性が悪い。
指にボールが当たるため、指の節々が太くなり、細かく早いパフォーマンスは無理になると言われていたからだ。
バレーボールを辞めたくない私は、
珠算も辞めず、なおかつ、
時々は、珠算教室を手伝うことを条件に
しばらく、二足のわらじ生活をしていた。
しかし、小さな子に、珠算を教えるのは楽しい時間だった。
珠算で生活していけるなら、このままでもいいかとも思っていたりした。
しばらくして、私の兄が入院することになった。
母は付き添い、私は家事一切を仕切り、バレーボール部も、珠算教室もお休みすることとなった。
兄は既に持病を持っていたがために、
特殊な病気から、当時住んでいた家から
車で2時間の場所に入院した。
まだ、関西空港も出来てない時代。
高速道路も、全てが繋がっていなかったとき。
父と2人の生活。
しかも、家族4人で暮らし始めてから3年目。
事情があって、離れ離れの生活を経てやっと家族一緒にと暮らし始めてから、あっという間のこと。
また、家族が離れてしまったことになったせいか、毎日のように、父は病院に行くと言う。
私も家事を終えて一緒にいく。
その最中、珠算教室の従姉妹から連絡がはいり、どうやら、私は、珠算教室からの推薦で、最優秀の生徒だと表彰されることになったと言う。
それまで、なんの取り柄もなく、まして、表彰されたこともなかったため、父は喜び、その表彰の日は、休んで連れて行ってくれることになった。
場所は、大阪市の中之島『中央公会堂』
その時さえも、かなりレトロな建物だった。
第一次世界大戦のすぐ後に建設されたもの。
古びた建物が、より表彰されること自体の重みが感じられた。
むろん、表彰されたのは私ひとりきりではなく、沢山の方々が来ていたが、
来賓の人がどれだけ偉い人達なのかは、私は全くわからなかった。
興奮した面持ちで、
半泣きしていたような父は帰りの道すがら
いつも立ち寄るドライブインで
『今日は、どれだけ高いものをたのんでもいいから』と言ったが、
結局頼んだのは、いつもの大好きな『ハンバーグ』だった。
それから、長い年月がたった。
辰野金吾と言う、建築家を知る。
知る人ぞ知る、東京駅や、日本銀行を設計した近代日本の建築家として有名な方だった。
うちの相方の出身である温泉の楼門を作った方でもあるし、私がかつて表彰された、あの大阪の『中央公会堂』も設計されたことを知った。
あちこちで関わっていた場所に
一本の思い出の線のように
浮き上がる名前。
そんな思い出を何の気なしに
親友と話をしていた。
『うんうん』と静かに彼女は聴いていた。
つい、1週間前に
その親友は大阪に旅行した。
沢山の場所に足を運んだらしい。
そして、『実は行ってきたの』って
100歳になった『中央公会堂』に寄って来たと、そのお土産を持参してやってきた。
少しでも私が父との思い出を
大切にできるようにと、公会堂の中のショップでお土産を買って来てくれたのだった。
嬉しかった。
唯一の父と2人だけの思い出の場所。
ちょうど、100年のアニバーサリーのポストカードと、ピンバッチを手に入れた。
有り難くて、うれしくて、涙が出そうになった。
その建物があったからこそ
話ができ、その姿を確認できる
思い出も溢れた。
建物とは
たんに箱物と呼ばれるわけでなく
色んな思い出も一緒に連れて年を重ねていくのだと、あらためて思ったこと。
できるなら
私が再び、その前に立てればと思う。