この話はフィクションです。
私は今倉千代子でかなわなかった夢を埋めるようにそれこそあらゆる芸能人を好きになった。更年期と母との同居でまたまた自由が奪われそうになり、病気になった。病気の中でたまたま付けたテレビでクニコを見るのである。
とっさに「クニコさん!いいな!」と、思ったかどうかはわからないが、クニコの歌声に吸い込まれるようになっていった。
それから私は必死でインターネットでクニコを検索した。ほぼうんともすんとも私には言ってくれなかった今倉千代子はクニコに変わっていった。もちろん千代子を嫌いになったわけではなかった。千代子の追っかけもしながらクニコの追っかけもするのである。
病気の私はたまたま良い病院の良い先生と廻り合い、薬の力も借りつつクニコの追っかけをしていたら日増しに体調が良くなっていったのである。それには数年の月日が要した。
クニコのファンとも何人か友達になれた。それはそれで嬉しかった。私の体調は薄皮を剥ぐように良くなっていった。知り合ったクニコ繋がりの友達も私の体調の変化に気づいたようで嬉しかった。一番嬉しかったのは地元の数名の友達は私の体調が悪いときはずーっと見守ってくれたのである。
いわゆる私はうつ病だった。それは精神疾患の一つである。地元の友達はその事を理解し、元気になるまで待っていてくれたのだ!
私は同居の母に「あなたが原因で病気に!」とは言えなかった。
話は戻すがクニコの追っかけをするうちに私はみるみる元気になった。クニコは私のことを覚えてくれたのである。私はクニコに「ちいちゃん」と呼ばれるようになった。単なる1ファンなのにである。クニコは誰にでも優しかった。何度も合うファンには名前で呼んでくれていた。その証拠に知り合って友達になった人はいつも名前で呼ばれていた。
私は初めの頃、クニコの事務所宛に何度もファンレターを書いた。たとえ読まれなくても出すのである。しかし、クニコは私の出すファンレターを読んでくれていたのだ!その証拠に何度かハガキで返事をもらった。しまいにクニコがハガキに事務所にはたまにしか行かないので手紙は自宅にと住所を書いてきたのには驚いた。
そもそも今倉千代子は自宅の住所など教えてはくれなかった。それでも私は何とか自宅の住所をファンの人と突き止めファンレターを書いて出した。それがクニコはあっさり自宅の住所を書いてきたのだ!しかし住所がわかると以外に私はめったにファンレターは書かないのだ。なぜならあらかたのことはファンレターに書いてしまったからだ。
クニコはコンサートやライブであの今倉千代子の歌も歌っていた。クニコは千代子の歌が歌いたかったのだ。昔渋谷にあったライブハウスで初めて千代子の歌をクニコが歌ったと言う話を聞いた。お客さんに下手だと言われたそうだ。そしてその歌を出来ればCDにカバーしたかったのだが、レコード会社の関係でレコーディングは出来なかったのだ。
後にクニコがレコード会社を移籍し、その歌はレコーディングされアルバムに入れられるのだ。初めの頃こそ下手だったクニコのカバーはみるみる上手くなり、今やあの歌はクニコの物になったと言っても過言ではない。アルバムではもう一曲カバーもしている。
私は千代子の追っかけをする傍らクニコの追っかけもしたのである。どちらかというとさばさばしたクニコは良かった。ましてやクニコが庶民の気持ちも心もあることが好きだった。
そこには千代子に無いものがあったのだ。電車にもバスにも乗るのである。その辺で買い物もするのである。それは千代子には考えられないことだった。
後に私はクニコと同じシャンソン歌手の小野美子を好きになるのだ。そして何の繋がりもないが、その後浪曲師の電柱軒清月に巡り合うのだ。
この小野美子と天中軒涼月の話は後でしたいと思う。
私は今倉千代子でかなわなかった夢を埋めるようにそれこそあらゆる芸能人を好きになった。更年期と母との同居でまたまた自由が奪われそうになり、病気になった。病気の中でたまたま付けたテレビでクニコを見るのである。
とっさに「クニコさん!いいな!」と、思ったかどうかはわからないが、クニコの歌声に吸い込まれるようになっていった。
それから私は必死でインターネットでクニコを検索した。ほぼうんともすんとも私には言ってくれなかった今倉千代子はクニコに変わっていった。もちろん千代子を嫌いになったわけではなかった。千代子の追っかけもしながらクニコの追っかけもするのである。
病気の私はたまたま良い病院の良い先生と廻り合い、薬の力も借りつつクニコの追っかけをしていたら日増しに体調が良くなっていったのである。それには数年の月日が要した。
クニコのファンとも何人か友達になれた。それはそれで嬉しかった。私の体調は薄皮を剥ぐように良くなっていった。知り合ったクニコ繋がりの友達も私の体調の変化に気づいたようで嬉しかった。一番嬉しかったのは地元の数名の友達は私の体調が悪いときはずーっと見守ってくれたのである。
いわゆる私はうつ病だった。それは精神疾患の一つである。地元の友達はその事を理解し、元気になるまで待っていてくれたのだ!
私は同居の母に「あなたが原因で病気に!」とは言えなかった。
話は戻すがクニコの追っかけをするうちに私はみるみる元気になった。クニコは私のことを覚えてくれたのである。私はクニコに「ちいちゃん」と呼ばれるようになった。単なる1ファンなのにである。クニコは誰にでも優しかった。何度も合うファンには名前で呼んでくれていた。その証拠に知り合って友達になった人はいつも名前で呼ばれていた。
私は初めの頃、クニコの事務所宛に何度もファンレターを書いた。たとえ読まれなくても出すのである。しかし、クニコは私の出すファンレターを読んでくれていたのだ!その証拠に何度かハガキで返事をもらった。しまいにクニコがハガキに事務所にはたまにしか行かないので手紙は自宅にと住所を書いてきたのには驚いた。
そもそも今倉千代子は自宅の住所など教えてはくれなかった。それでも私は何とか自宅の住所をファンの人と突き止めファンレターを書いて出した。それがクニコはあっさり自宅の住所を書いてきたのだ!しかし住所がわかると以外に私はめったにファンレターは書かないのだ。なぜならあらかたのことはファンレターに書いてしまったからだ。
クニコはコンサートやライブであの今倉千代子の歌も歌っていた。クニコは千代子の歌が歌いたかったのだ。昔渋谷にあったライブハウスで初めて千代子の歌をクニコが歌ったと言う話を聞いた。お客さんに下手だと言われたそうだ。そしてその歌を出来ればCDにカバーしたかったのだが、レコード会社の関係でレコーディングは出来なかったのだ。
後にクニコがレコード会社を移籍し、その歌はレコーディングされアルバムに入れられるのだ。初めの頃こそ下手だったクニコのカバーはみるみる上手くなり、今やあの歌はクニコの物になったと言っても過言ではない。アルバムではもう一曲カバーもしている。
私は千代子の追っかけをする傍らクニコの追っかけもしたのである。どちらかというとさばさばしたクニコは良かった。ましてやクニコが庶民の気持ちも心もあることが好きだった。
そこには千代子に無いものがあったのだ。電車にもバスにも乗るのである。その辺で買い物もするのである。それは千代子には考えられないことだった。
後に私はクニコと同じシャンソン歌手の小野美子を好きになるのだ。そして何の繋がりもないが、その後浪曲師の電柱軒清月に巡り合うのだ。
この小野美子と天中軒涼月の話は後でしたいと思う。