ちいちゃんのひとりごと

ちいちゃんのひとりごとを勝手気ままに書いています。

突然なぜか浪曲?

2025年01月16日 | 介護
たまたまXで渋谷のラジオと言うので天野祐吉さんの奥さんがクミコさんの知り合いだった。
その天野祐吉さんの奥さんの伊佐子さんがご自分のラジオに浪曲師の玉川菜々福師匠を呼ぶということを知った。
はてさて浪曲とは?
興味を持った私は浅草木馬亭の浪曲定席に行く。
たまたまその時はNHKの番組の取材が来ていたが、客席はがらがらだった。
そのうち始まった菜々福師匠の浪曲でうっかり船を濃いでしまった。
これではいけないなと、年が明けてお正月に改めて行くつもりが、年末から神経性胃炎に悩まされ、お正月の定席は行かれなくなった。
それじゃあと2月の定席に行ったらたまたまとりが五代目天中軒雲月師匠だった。
もちろん菜々福師匠の浪曲もあった。ところが私的には菜々福師匠の浪曲よりも雲月師匠の浪曲の声にしびれたのだ。
それ以来五代目天中軒雲月師匠のファンになったのは言うまでもない。
声だった。
最初に好きになった歌手の島倉千代子さんは声はもちろん顔もだった。
クミコさんの時は歌が先であとから声と顔だった。
ところが雲月師匠の時は最初から声だった。
全身全霊で出す声は魂の声だった。
身振りも動作も格別のものがあったのだ。
菜々福師匠の時には船を濃いでいた私も雲月師匠の時は最初から釘付けだった。
それ以来浪曲と言うものにはまっている。
もっぱら私は聴く方です。
いまだに多くは語れません。
それでもあれだけの大病を克服して出される声と動作は何者でもありませんね。
その雲月師匠からは元気をもらっています。
多くの病気を克服して後進の指導に当たる。
ましてや今は浪曲協会の会長もしておられます。
その他にも浪曲教室の指導もしています。
後進の育成や指導などにご尽力を注いでおられます。
さすがにその頃は多少認知症が入った母には私が浪曲にはまり、五代目天中軒雲月師匠のファンになったことはわからなかった。
この師匠が頑張っている限り私も頑張らなくてはと思うのだ。
結婚した夫はやがていくつもの大きな病気を経験するのだ。
この事は後で話そうと思う。


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その3

2025年01月16日 | 介護
それは1月の15日だった。
朝起きたら突然すごい耳鳴りが襲ってきた。
原因不明の耳鳴りだった。
旦那が気晴らしに出掛ければ良くなるかもと?東京ドームで行われていたイベントに行った。
イベントに行ったが私の耳鳴りは一向に良くならなかった。
その後は市内の耳鼻咽喉科へ行くも一向に良くならなかった。
その頃不妊治療で通っていた大学病院の耳鼻科にも行ったが、一向に良くならなかった。
藁をもすがるような気持ちで埼玉医科大学病院の平行神経科にも行って内耳ブロック注射もしたが良くならなかった。
耳鳴りは現在もあります。
すっかり聴力も衰えました。
話は飛ぶが、更年期から別の病気になった私はたまたまその頃テレビで見たシャンソン歌手のクミコさんに心ひかれるのだ。
この声!この歌!この人だわ!
辛い身体を押してネットでクミコさんのことを検索する。
そして許す限りクミコさんのコンサートやライブやイベントに行った。
もちろん心療内科の薬は服用していた。
ところが薄皮を剥ぐように少しづつ私は元気になっていたのだ。
途中で自律神経失調症の1つの過敏性腸症候群にも見舞われた。
一番辛いと8日間も下痢が続くのだ。
この病気の根本的な治療法はないに等しい。
私は一度この病気になればストッパ下痢止めとビオフェルミンは必須です。
ところが辛い身体を押して薬を服用してクミコさんのコンサートやライブやイベントに行くと、帰りにはかなり回復しているのだ。
薬のお陰だと思うが、クミコさんの歌声にもあるのかもしれない?
同居の母はクミコさんの存在に気づいた。
島倉千代子さんの次にはクミコさんだ。 
そもそも芸能人の追っかけをすること事態が嫌いな母です。
ことあるごとに文句を言う。
嘘を付いて出掛ける。
夫婦で出掛ける。
夜行バスで行き大阪に1泊して夜行バスで帰るということもやった。
行ったはいいが、大阪や関西人には馴染めなかった。
嫌なこともありで、行かなきゃあ良かったと後悔もした。
その後は石巻に3回行った。
行ったと言っても強行軍です。
日帰り1回、1泊2日が2回です。
もちろん母にはクミコさんのコンサートなどで行くとは言っていません。
ちょうど東日本大震災で石巻で被災したクミコさんです。
私もSNSを通じて石巻に友達が出来ました。
そうしたご縁で行きました。
たまたま行った2度目が3度目に石巻繋がりの友達が別の友達を連れてきて、被災地の現状を車で見せてくれました。
そこで現実を目の当たりにした私は号泣したのは言うまでもありません。
この話は続きます。


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その2

2025年01月16日 | 介護
夢にまで見た結婚生活も甘くはなかった。
母から逃れるための結婚だった。
ところが働けなくなった母を我が家で引き取ることになったのだ。
再び私は母の管理下のもとで暮らすのだ。
入っていた地元の手話サークルも活動が夜で母には嫌がられた。
そのうち代表に得ればれそうになり、辞めた。
女性の夜の外出を喜ばない母がいる。
どこへ行く?
何しに行く?
何時に帰る?
これらは母の定番だった。
子供の頃から大好きだった歌手の島倉千代子さんの舞台やコンサートやイベントも嘘を付いて夫婦で出掛けた。
嘘を付いてもばれるのだ。
母と生活は嫌だった。
その頃友達が始めた近所の小規模作業所に時折ボランティアに行っていた。
その後、ボランティアでは悪いからと、時給をくれるようになった。
自宅で母と居たくない私は週に何日か?何時間か?近所でもそこに行くことは良かった。
そのうち私に更年期がやってきた。
初めはホットフラッシュだった。
そのうちこれはおかしいぞと、近所の婦人科に行っていたが、他所の婦人科2箇所も受診することになる。
病気は他のものだった。
おそらく母との同居から来るストレスもあったのだと思われる。
婦人科系の病気ではなかったのだ。
市内の精神科は嫌だと、その頃の知り合いに聞いた心療内科に通うことになるのだ。
心療内科の診察に付いてきた母は、先生に自分の言いたいことを言う。
原因は母にもあるのだが、自分が原因だとは思っていない母がいた。
子供を身ごもった経験もないのに、毎日つわりのように辛かった。
働いていた近所の小規模作業所にも迷惑がかかるので辞めた。
仕事は賄いのおばちゃんだった。
午前中は賄いのおばちゃんで午後からはメンバーさんと同じ仕事をした。
私の中には記憶はないが、ある時砂糖を山ほど買ってきたことがあったそうだ。
いくら砂糖が安売しているからといっても相当の数だったそうです。
職場には迷惑がかかるので私は仕事を辞めた。
連日の辛さに吐き気に気晴らしで旦那と出掛けるも辛かった。
同居の母は自分に原因があるとは思ってもいなかった。
私と心療内科に行く度に自分の都合のいいような話をするのだ。
私は母に心療内科に付いてこないように言うのだ。
その後は心療内科の診察は土曜日にしてもらい、主人が付き添いだった。
あれほど辛かった私も薄皮を剥ぐように回復していった。
しかし、この病気は治ると言うことはありません。
ある程度良くなって寛解しても心療内科に通うのです。

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夢にまで見た結婚生活

2025年01月16日 | 介護
結婚したら子供を産んで子育てがしたかった。
ところが結婚して2年目である大学病院に不妊治療に通うことになるのだ。
約4年間の不妊治療の末に子供を産むことをあきらめた。
高額な不妊治療のお金にそのたびに病院に寄り、仕事を遅れていく主人がいる。
街を歩けば楽しそうな親子連れを見かける。
特に旦那の趣味で行くところは親子連れが多かった。
映画館もイベント会場も親子連ればかりだった。
32歳で結婚した私は34歳で不妊治療を始める。
38歳で結婚した旦那は40歳で不妊治療に立ち向かうことになるのだ。
不妊治療を4年であきらめた。
他所からもらう。
世間体もありそういう選択肢は選ばなかった。
世の中の他人は45歳になった私に「赤ちゃんはまだ?」
「まだ大丈夫よ」などと心無い言葉をかけるのだ。
悲しい現実がそこにあるのだ。
主人は糖尿病と高血圧を患っている。
結婚した当初は無かったものだ。
身長が低いだけで至って健康だと…。
糖尿病と高血圧は主人の亡くなった母もそうだったし、兄もそうだ。
私はと言えば70歳で働けなくなった母を引き取り同居した。
底には悲しい現実が 待ち受けていたのだ。
そもそも私は結婚するまで母の管理下の下にいた。
結婚で自由を勝ち取ったと思った私に現実は甘くは無かったのだ。
何分にも母の話では私が留守の時に母は我が家に着ていたのだ。
鍵も無くは入れない部屋です。
庭の草むしりをして帰りを待っていたのだ。
ところがすぐには帰らない私に、母はあきらめて帰ったのだ。
同居をしたら再び母は私を自分の管理下に置いた。
夫婦の会話に割り込んでくる。
私たちが寝るまで起きている。
休日は「どこへ行く?」「何しに行く?」「何時に帰る?」
そんなことは当たり前のように聞いてきた。
お使いに行けば買ってきたものを聞かれる。
自分に必要のないものや気に入ら物は文句を言う。
現実はそんなに甘くはないのだ。
この話は続きます。

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不幸は続くよどこまでも

2025年01月16日 | 介護
全く不幸と言うものは続くものです。
日曜日からの風邪はしぶといのかなかなか良くなりません。
1日寝ていればいいのですが、それも無理ですね。
自宅には何もしない出来ない夫がいます。
今日も起きて朝ごはんを食べてもらい、デイケアに送り出しました。
どんなにつらくても苦しくても休めないのです。
日曜日から火曜日の朝までは母のベッドで寝ていたら持病の腰痛も悪化する始末です。
今日はかかりつけ医がやっているので、かかりつけ医に行こうと思います。
クリニックで出された風邪薬も5日分なのでね。
止まらぬ咳に鼻を噛み、痰も出てきます。
病院に入院している母は老衰かと思ったら食事も8割がた食べられるようになり、水分も摂れるようになり、おしっこも自力で出るようになり、退院を迫られました。
一昨年の暮れに入所した特養も相談員さんに籍を抜くように言われて今更その特養に戻ることも無理なのです。
ましてや自宅で私が看ると言うのも無理ですね。
自宅には3年前に脳の病気で入退院を繰り返した主人がいます。
歩けない母を私が自宅で看るのは難しい問題ですね。
とにかく問題は山積みです。

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