特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

人生上々

2017-11-30 08:58:39 | 遺品整理
出向いた現場は、郊外の住宅地に建つ有料老人ホーム。
特別養護老人ホーム等とは違い、そこに入所するにも そこで暮らすにも ある程度のお金がかかる。
高級ではなくても、軽費型であっても、相応の費用がかかる。
つまり、ある程度の経済力がないと、入所することはできない。
満額の年金+αが必要。
となると、それが叶わない人もいるわけで・・・
立派な造りの建物を見ながら、私の脳裏には、自分の将来に対して一抹の不安が過った。

まだ少し先のことだけど、私も、“五十”という節目の歳が近くなっている。
「俺が五十!?・・・五十って・・・若くないどころか、もうじき爺さんじゃん・・・」
頭では年齢を受け入れていても、心のどこかでそれを拒否している私。
まだ充分に若いつもりでいる自分がどこかにいるからだろう、四十代を迎えたときよりも、大きなショックと重い悲壮感を抱えている。
同時に、常々、“死”を意識して生きてきた私だけど、そのリアルさが増し、より身近に感じるようになってきている。
「俺の人生、もうじき終わるんだなぁ・・・」
「俺、もうじき死ぬんだなぁ・・・」
特に悲観的になっているわけではないけど、つくづくそう想っている。
そして、時折、緊張している。

でも、余生が短くなることがリアルになるのは、悪いことばかりをもたらすのではない。
減酒、素食、運動、体重維持等々、健康を意識して、そのためにできることをやるようになったから。
おかげで、病院のお世話になるようなこともなく、現場でもキビキビ動けている。
また、以前は、軽はずみに
「もう死んでしまいたい・・・」
「このまま死んじゃってもいいかな・・・」
なんて投げやりになって心を疲れさせることが多かった私だけど、このところ、そんな思いが湧いてくることは少なくなってきた。
その逆に、この頃は、
「辛かろうが苦しかろうが、死にたかろうが死にたくなかろうが、どちらにしろ、人生の終わりは近い」
「だったら、それまでは精一杯生きてみよう!」
と、上を向くことが増えてきた。
これは、なかなかラッキーなことである。


頼まれた仕事は、その施設の一室の遺品処理。
依頼者は初老の女性。
亡くなったのは、この施設に入所していた女性の高齢の母親。
部屋には、故人が使っていた家財や生活用品が残されていた。
そうは言っても、そこは老人ホームの一室。
大型の家具もないし、一般の住宅に比べたらその量は少なめ。
いちいち部屋を歩き回らなくても、荷物の量を把握することができた。

クローゼットの上の段には、何着かの洋服がかかっていた。
それらは外出用の服で、晩年の故人はほとんど袖を通すことはなかった。
そして、下の段にはアルバムが整然と並べられていた。
背表紙には「○年度○年○組」の文字。
一冊一冊、大きくしっかりしたモノで、三十~四十冊はあった。
結構な数に 私が目を留めていると、
「それは、母が大切にしていたアルバムです」
「永年、小学校の教師をしていて、そのときもモノなんです」
「ここに入るときも、“持っていく!”ってきかなかったんですよね・・・」
「重いし 場所もとるので反対したんですけど・・・」
「一人暮らしが無理になって・・・そうは言っても同居もできなくて・・・」
「母をここに入れてしまうことに罪悪感みたいなものもあったので、認めたんです・・・」
と、女性は、その事情と苦悩を打ち明けてくれた。

当初、故人は老人ホームには入りたくなかった。
想い出がタップリ詰まった我が家、愛着のある我が家で余生を過ごしたかった。
しかし、身体の衰えがそれを許さず。
単に“不便”だけのことだった故人の一人暮らしは、“危険”な領域に入ることも増えてきて、いよいよ決断のときが迫ってきた。
そして、苦慮の末、“女性(娘)達家族に迷惑をかけたくない”との思いで余生に対する望みを捨てた。
ただ、せめてもの慰め、心の支えとして想い出のアルバムだけは持って出たのだった。


故人は、教師一筋の社会人生活を送った。
新米教師からスタートし、いくつものクラスを受け持ち、長い時間を幾人もの子供と共に過ごしてきた。
その道程は平たんではなく、悩んだこともあれば、苦しんだこともあった。
大病を患って休職したときは退職も考えた。
また、失敗したり、戸惑ったりしたこともあった。
父兄との確執で担任を外されそうになったときも退職を考えた。
それでも、故人は、教師という仕事に強い愛着を持っており、諦めずに続けた。

アルバムの中の子供達は、何百人・・・いや、千人を超えていたかも・・・
その中には、たくさんの笑顔があった・・・
今を楽しんでいる笑顔が、
希望に満ち溢れる笑顔が、
見えない明日を恐れない無邪気な笑顔が、
・・・人として大切にしたい笑顔があった。

故人は、教え子達の同窓会にも積極的に参加。
それは、現役のときだけにとどまらず、退職後も招かれるまま出かけていた。
そして、家に帰ってきて、その時の模様を嬉しそうに女性達家族に話してきかせるのが常だった。
ただ、そんな同窓会も、回を重ねるとともに参加者・不参加者は固定化。
来る人はいつも来るけど、来ない人はまったく来ない。
もちろん、不参加でも、「遠方に居住している」とか「時間の都合がつかない」とか、理由がわかっていれば心配はない。
しかし、不参加者の中には、その理由はもちろん、住所も連絡先も不明になってしまった人もいた。
「人生がうまくいってないんじゃないかな・・・」
と、故人は、そういった教え子達のことを案じていた。


そう言えば、私も、小中高通して同窓会といった類に一度も参加したことがない。
ハッキリは憶えていないけど、始めのうちは案内が届いていたようにも思うけど、多分、無視していたと思う。
したがって、現在に至るまで、小中高時代の友人との関わりは一切ない。
スマホの電話帳にも一人も入っていないし、SNSの類もまったく興味がないし、連絡がくることもなければ、私から連絡を入れることもない。
ただ、当然のようにそうして生きてきたため、寂しさはない。
しかし、それは、故人の言うとおり、“人生がうまくいっていない”せいかもしれない・・・
・・・イヤ・・・ちょっと違う・・・
うまくいっていないのは“人生”ではなく“自分”。
“面倒臭い”という理由がありつつも、結局は、自分のカッコ悪さを恥じて、敗北感や劣等感を覚えるのが嫌で、学友を遠ざけたように思う。


人生、うまくいく時もあれば うまくいかない時もある。
ただ、人生がうまくいっているかどうかは、見方と感じ方が変える。
正の見方・感じ方をすれば“うまくいっている”と思えるし、負の見方・感じ方をすれば“うまくいっていない”と思えてしまう。
つまり、「心の持ち様による」ということ。
しかし、それは、出来事や事象に大きく左右されやすい。
不運を歓迎できるはずもなければ、災難を喜べるはずもない。
平穏を好み波乱を嫌うのは当然のこと。
現実には、心の持ち様だけではどうにもならないこともある。
だけど、そういう心を持つための努力と挑戦は続けるべきだと思う。
それが、人生がうまくいくための秘訣のように思えるから。

・・・なんて偉そうなこと言ってるけど、大方の見方・多くの感じ方によれば、私は“負け組の負け犬”。
とても、人生がうまくいっているようには見えないはず。
まぁ・・・確かに・・・そう見えてしまう要素は、自分でも笑ってしまうくらいたくさんある。
だけど、それでも、私の人生は結構うまくいっている。

贅沢な暮らしには程遠いけど、三食に困ったこともなければ、飲みたい酒が欠けたこともない。
カッコ悪い仕事だけど、頭と身体もちゃんと働くし、ささやかながら やり甲斐もある。
小さなことかもしれないけど、日々に幸せがあり、日々に楽しみがある。
もちろん、苦労もあれば苦悩もある・・・数えればキリがない。
だから、そんなもの数えない。
ただただ、幸せと楽しさだけ数えることを心がけ、苦労と苦悩を薬味にしながら、それなりに楽しくやっている。

後悔しようがしまいが、過ぎた時間を取り戻すことはできない・・・
不満を抱えようが抱えまいが、今は終わっていく・・・
憂おうが憂うまいが、未来は消えていく・・・
そう・・・この人生は すぐに終わる。
クヨクヨしてるヒマはない!
腐ってる場合じゃない!


持ち帰ったアルバムはゴミとして処分。
その様は、故人の人生が終わってしまったこと、その教え子達の人生が終わりゆくこと・・・・・人の人生には終わりがあることを象徴しているように見えて、何とも言えない切なさを感じた。
と同時に、故人が、アルバムを開き、一つ一つの想い出をめくりながら色んなことを懐かしみつつ、自分や教え子の人生に愛おしさを感じていた様が思い起こされ、それは、「残りの人生、少しでもうまくいくよう頑張りたいな」といった上々の想いを私に与えてくれたのだった。



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Enjoy life

2017-05-07 08:58:50 | 遺品整理
楽しかったGWも今日でお終い。
長い人は九連休だったらしい。
連休なんて私には縁がないけど、それでもGWっていいもの。
休暇やレジャーを楽しむ人々の笑顔に、平和・平穏な世の中を見ることができるから。
自分が労苦していたとしても、それだけで心は和む。
しかし、楽しい時間って過ぎるのがはやい。
アッという間に、いつもの日常に戻ってしまう。

春もまた短い。
穏やかに過ごせる季節も終わりが見えてきている。
ついこの前まで冬の寒さが残っていたのに、もう、このところは初夏が感じられるような陽気が続いている。
酷暑の夏がくるのも時間の問題。
だからこそ、この春を楽しみたい。
青い空、白い雲、新緑の樹々、色とりどりの花々を愛でては、灰色に覆われがちな心を楽しませている。

そんな心地よい春にいながらも、このところ目眩(めまい)が再発している。
ただ、これは既に経験済みの症状。
昨年の秋、初めて発症したときには泡を食ったが、今回は、そう慌ててはおらず。
知り合いの医師からも
「季節の変わり目に発症しやすい」
と言われていたので、
「またでちゃったか・・・」
と冷静に受け止め、また、抵抗せず受け入れている。

自分で抑えられない以上、うまく付き合っていくしかない。
就寝時、暗い部屋で、壁に光る蛍光灯スイッチが視界を流れる様を見ては、
「流れ星みたいできれいだな・・・」
等と思ったり、グルグル回る天井をジッと見上げては、
「回転のスピードが どれだけ上がるか試してみよう・・・」
と妙なチャレンジをしたりして遊んでいる。
ただ、現実に、フラついて尻餅をついたりすることがあるから、楽しんでばかりもいられない。
また、転倒してケガをしたりしてはいけないし、車の運転も重々注意しなければならない。

あと、このところ、不眠症も重症化。
とにかく、同じ姿勢で寝ていることができず、頻繁に寝返りをうつ。
しばらく同じ姿勢でいると、すぐに身体がだるくなってきて、ジッとしているのがキツくなる。
色々な悩みが沸いてきて、生きることが辛くなり、静かにしていられなくなることもある。
また、死ぬことが恐ろしくなり、胸が騒ぐこともある。
特に肉体疲労がたまっているような自覚もないのだけど、身体が軋むようなダルさや身体が固くなるような重さがあるのだ。
そうして、寝返りをうつ度に目が覚めるわけで、長く睡眠を続けることができないわけである。

しかし、それでも、この不眠症とは長い付き合い。
治らないものは仕方がないわけで、うまく付き合っていくしかない。
睡眠不足に不満を募らせても自分のためにならないので、
「横になって休んでいられるだけでもありがたい」
と、あえて感謝するようにしている。
ただ、日中、特に、車を運転しているときに襲ってくる睡魔には要注意。
人にケガをさせたり自分がケガをしたりしてはいけない。
だから、車にはガムやコーヒーを常備し、時間に余裕があるときは車を止めて仮眠をとるようにしている。



遺品処理の依頼が入った。
依頼者は、初老っぽい女性。
ただ、その話しぶりは明るくハキハキ。
声にも張りがあり、耳から受話器を離してもその声は聞き取れるくらいだった。

遺品の持主は、その亡夫。
ある程度のモノは女性と子供達で処分したのだが、趣味のものを中心に故人が特に愛用していた品が残っているとのこと。
それを自分達の手でゴミ同然に始末するのに抵抗感を覚えているよう。
「細かな片付けでもやっていただけるんでしょうか・・・」
と、少し申し訳なさそうに声のトーンを落とした。

細かな事情や心の機微を汲むには、直接会って話をするのが肝要。
実際に現物を確認する必要もあるし、例によって、私は、現地に出向くことに。
女性の都合に合わせて、現地調査の日時を約束した。

現場は、一般的な分譲型のマンション。
現場である女性宅は、その一室。
約束の時間の数分前に1Fエントランスのインターフォンを押すと、女性はすぐに応答。
名乗って用件を伝えると、すぐにオートロックを開けてくれた。
そして、私がエレベーターを上がって部屋に着くときには、女性は玄関ドアを開けて待っていてくれた。

問題の遺品は、寝室押入の一角に収められていた。
モノは軽登山用の道具・装備、カメラと付属品類。
野山に出かけては四季折々の風景や草花を写真に撮るのが故人の趣味で、女性もよく一緒に出かけていた。
“自分の手で処分できないほど愛着があるモノを他人の手で処分されて平気なのか?”
“生活の邪魔になるほどの量でもないし、気持ちの整理がつくまで このまま置いておいてもいいんじゃないか?”
私はそう思ったけど、“それを口にするのは もう少し話を聞いてからにしよう”と思い、黙って女性の話に耳を傾けた。

故人は女性の夫。
享年は67歳、死因は肺癌。
故人は、若い頃から年に一度、勤務先の健康診断を受けていた。
そして、定年退職の後に再雇用された関連会社でも、続けて健康診断を受けていた。
更に、還暦を迎えたのを期に、念のため、自費で人間ドッグも受けるようにしていた。
“肺の影”は、亡くなる前の年の人間ドッグで見つかった。
詳しく調べると、それは癌。
「癌」と聞いてはじめは動揺したものの、自覚症状がでてからの発見ではなかったため、意図して楽観に努めた。
しかし、診断はステージⅢ、やや進行した状態。
「摂生してきたつもりなのに・・・」
「キチンと受けてきた人間ドッグは何だったのか・・・」
故人は、憤りにも似たショックを受けた。

しかし、現状を憂いてばかりでは何も解決しない。
とにかく、回復に向かって最善の策を講じることに。
まずは、癌が掬っている片肺を切除。
転移がなかったからできた手術だけど、二つある肺のうち一つを失うわけだから、尋常なことではない。
呼吸をするのも重く、酸素が不足することもしばしば。
退院後の私生活でも、しんどい思いをすることが多かった。

また、再発転移を防ぐための抗癌剤も繰り返し投与。
投与する度に二週間ほどの入院するのだが、入院中と退院してからの一週間ばかりが特に辛かった。
入院中は、強い吐気と倦怠感に襲われ、自宅に戻ってからもしばらく倦怠感と食欲不振は続いた。
ともなって、身体は徐々に衰弱。
食欲不振は身体の衰弱をもたらし、身体の衰弱は更なる食欲不振をもたらす・・・
この負のスパイラルが故人を弱らせ、入院中は車椅子を使用してしのいだが、自宅では立って歩くこともほとんどできなくなってしまい本人も家族も難儀した。

身体が病気に負けてきていることは、誰の目にも一目瞭然。
医師の診断を待つまでもなく、本人もそのことを自覚。
そして、嫌な予感は的中し、その後、癌は再発し転移。
リンパ節にまで転移したところで覚悟を決めた。

医師から余命宣告を受けたのは、それからほどなくして。
快方の希望は捨てなかったものの、同時に人生をしまう心積もりもした。
故人は、妻子の負担を考え、また、逝った跡が濁らないよう、できるかぎり自分の手で後始末をし、遺言を残し、死支度を整えていった。
そんな時間は、切なくもあり、寂しくもあり、また、家族にとって、かけがえのない大切なものでもあった。

「自分の家っていいな・・・家族っていいな・・・」
「人生って楽しいな・・・生きているだけで楽しいな・・・」
死期が迫ってきた故人は、よくそう言った。
その言葉が意味する深いものを家族も感じ取った。
そして、それを、後の人生に生かそうとも思った。

“生”も不思議なものだけど、“死”もまた不思議なもの。
ただ単に、“有”と“無”では片付けられないものがある。
女性の頭には まだシッカリ亡夫の姿や声が残っており、その心には亡夫との楽しい想い出が残っていた。
それが、あまりにリアルに感じられるため、夫の死を現実として受け入れることを阻んでいるよう。
だから、葬式が済んでも、身体が骨になっても、姿が見えなくなっても、夫が死んでしまったことが夢のことのように思えて仕方がないようだった。

ただ、それはそれで、一人の生き方、一つの生き方。
死人と共に生きることによって、その後の人生が楽しくなるならそうした方がいい。
愛する人との死別は、深い悲しみ、大きな悲しみをもたらすものだけど、その後の未来を照らす光にもなるのだから。
そして、それが、生きる指針や力を与えて、残された者の残された時間を濃くしてくれるのだから。



勝手に“十年から二十年くらい”と想定しているけど、私の余命はどれくらい残されているのかわからない。
一日かもしれないし、一週間かもしれないし、一ヵ月かもしれないし、一年かもしれない。
また、それ以上かもしれない。
ただ、ハッキリしているのは、死にたかろうが死にたくなかろうが、いつか死ななければならないということ。
そして、人生は、自分が思っているほど長くはないということ。

過ぎてみれば、時が経つのははやい。
節目の時季にかぎらず、日常でそれを感じることも多い。
したがって、多分、過ぎてみれば、人生もアッという間なのだろう。
ということは・・・“短く感じる”ということは、“楽しい”ということでもあるのではないだろうか。
もちろん、人生には悲哀や苦悩が少なくない。
楽しいことばかりではないし、笑ってばかりで生きられるわけでもない。
しかし、苦と楽も、不幸と幸も表裏一体。
苦の中に楽があり 楽の中に苦があり、不幸の中に幸があり 幸の中に不幸がある。
苦楽ある人生そのものが楽しいものなのではないか・・・
人生の根底には普遍的な楽しさがあるのではないか・・・
達観しているわけでもなければ確証があるわけでもないけど、私は、そんな風に思う。

大切なのは、その楽しさに気づくこと。
苦労の真味が美味であるように、遊興快楽ばかりが心を楽しませるのではない。
ただ、重い生活の中にあって、それに気づくことは難しい。
どうしても、目に見えるものに流され、表面的な感覚に惑わされてしまう。

能書きだけは上等(?)の私もそう。
日常の楽しみは たまの晩酌くらいで、特に楽しみがない日々を送っている。
代わり映えのない毎日、平凡な毎日、わずかなお金に執着して大きな労苦を背負い、つまらない世間体に囚われ大きなストレスを抱えている。
しかし、そんな つまらない人生が、とても贅沢なものに思えるときがある。
それは、自分の晩年と死を想ったとき・・・
漠然とではなく、他人事としてではなく、それを 恐怖感を覚えるくらいリアルに感じたとき。
意識して得られる感覚ではないけど、その心境に至ると気分はとても清々しくなる。

子供も、若者も、中年も、老人も、私も、我々に残された時間は短い。
そして、残りの人生は、楽しく清々しく生きていきたい。
だからこそ、“死がくれる生”に想いを馳せながら、“今を楽しもう!”と強く思うのである。



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特別な日

2016-12-01 07:25:14 | 遺品整理
このところの私、色々と弱っているため体調を崩したネタが多い。
体調が悪くても頑張っていることを自慢しているみたい?だけど、無論、そんなつもりはなくない。
それはさておき、今度は風邪をひいてしまった話。
この前の日曜から喉が少し痛み始め、次第にその痛みはヒドくなっていき、翌月曜の夜になると唾を飲み込むのも躊躇われるほどのツラい痛みに。
そんな具合だから、夜中もしょっちゅう目が醒める。
おまけに、汗をかくくらいの熱がでてしまい、熱いやら寒気がするやら。
ただでさえ目眩でヨロヨロしてるのに、更に、倦怠感まで加わって、結構 大変。
それでも、体調不良にかこつけて、むやみやたらにゴロゴロ・ダラダラするのは、逆に、心身によくないから、“よく食べ よく動き よく寝る”の生活を心がけている。

何はともあれ、今日から12月、何かと慌ただしくなる師走に突入。
桜や新緑を愛でたのは、ついこの前のような気がするのに、もう冬。
それまでは寒暖を繰り返していた気温も、下降の一途をたどりはじめたよう。
先月24日、季節はずれの雪が降った日を境に、寒さも厳しくなってきているように感じる。

夏の暑さも堪えるけど、冬の寒さも相当に堪える。
現場作業は冬のほうが楽だけど、冬場は気分まで冷えてきて苦悩する。
そういって不満を覚えながらも春夏秋冬を愛でたがるこのワガママ人間は、結構なエコイスト(≒ドケチ)でもあり、寒くなっても暖房は最低限。
今年も、バームクーヘン調ファッションで寒さを凌(しの)ごうと思っている。

重ね着もそうだけど、寒さを吹き飛ばすには、積極的に身体を動かすことも有効。
そうすれば、始めは寒くても、じきに温かくなる。
現場仕事となると、真冬でも汗をかくことがある。
また、現場作業だけでなく、ちょっとした運動でも身体は温まる。
私にとっての運動はウォーキングだけど、股関節痛と仕事の都合で、ここ二ヶ月弱の間、それまで日課にしていたウォーキングを中断していた。
しかし、最近、股関節痛も和らいだし(代わりに目眩を発症してしまったけど・・・)、仕事にも余裕がでてきたので、目眩による多少のフラつきをともないながらも、徐々に再開している。
やはり、適度に身体を動かすのは、身体的健康だけではなく精神衛生上もいいことのように思えるから、身体と時間がゆるすかぎり日課としていきたい。

日課といえは、最近、新しい日課ができた。
それは、朝の独り言。
“朝の独り言”だなんて、根クラで変態的な感じがするけど、詳細は以下。

人の死に日常的に接している私は、時間の有限性や希少性を痛感している。
事故、事件、災害、急病・・・
亡くなった人や悲哀に苦しむ遺族に対して無神経な言い方かもしれないけど、人間ってものが呆気なく死んでしまう場面は少なくない。
最も多いのは闘病の末に亡くなる人なのだろうけど、そうでない人も意外と多い。
そう・・・“死”というものは、いつ どんなかたちで現れるかわからない。
また、いつ どんなかたちで現れてもおかしくない。
“必然”は“生”ではなく“死”。
にも関わらず、当り前のような気分で生きている(生かされている)。
その辺のギャップが、人(自分)を滑稽に映し、また、人間らしく映している。
そして、その辺りの見識を活かした生き方ができないため、苦悩している。
そこで、それを少しでも解決するために思いついたのがコレなのである。

朝の起床時や出勤時などに
「2016年12月1日、一度きりの今日 二度とない今日は、俺にとって 俺の人生にとって特別な日! 大切に過ごさなきゃ!」
と、口にするようにしている。
小声で一度つぶやくだけだけど、心で思うだけではなく声をだして言うようにしているのだ。

何のためか。
今日一日を頑張るため、今日一日を充実させるため、今日一日を無駄にしないため、
自分を励ますため、自分を鍛えるため、自分を喜ばせるため、
・・・意味や目的は色々ある。

どうでもいいような些細なことだけど、実際、このセリフを口にするだけで、ちょっと気分が変わる。
憂鬱な気分に支配されることが多い私にとっては、これがちょっとした妙薬になる。
ドシャ降り雨の気分が いきなり快晴に変わるような劇的な変化はないけど、曇空に薄日が差すくらいの好転はみられる。
また、時間に対する意識と、その使い方が少し変わってくる。
そして、それが、うつむきがちな顔を上げ、止まりがちな足を進める。
働くうえでも、休むうえでも、学ぶうえでも、遊ぶうえでも、これを意識して、とにかく、ただの“ひまつぶし”で時間を浪費しないための自律訓にしているのである。



遺品処理の依頼が入った。
現場は、郊外の閑静な住宅地にある、やや古い一戸建。
故人は、その家の主で、行年は初老。
残されたのは、その妻で、夫と同じ年代。
傷心を癒すために遺品を片付けないでおいたのだが、夫の死からしばらくの時が経つうち、自分の先々にとってそれはプラスにならないような気がし始めて、思い切って片付けることを決意したのだった。

女性の夫(故人)は、とある企業で、長くサラリーマンをしていた。
仕事人間で、もともと健康志向は薄く、酒を飲みタバコも吸い、運動らしい運動もせず、食生活も自分の好みに従った食事が中心だった。
60歳で定年退職すると、不摂生生活は更に加速。
生活の足しにするためアルバイトを始めたが、それでも、サラリーマン時代に比べると時間は有り余った。
時間を持て余す日々が続き、タバコや酒の量は増え、おまけに食事や間食の量まで増えていった。

そんな夫を女性(妻)は心配した。
が、夫は、そのまま不摂生な生活スタイルに陥ることはなかった。
生活習慣病による同年代の友人の壮絶な闘病生活とその後の寂しい死を目の当たりにし、自分の老後の生活や健康寿命が急に気にし始めた。
そして、それまでの欲に任せた生活スタイルや嗜好を見直し、改善すべきところは改善するべくチャレンジすることにしたのだった。

まず始めた着手したのは、タバコと酒の減量。
長年に渡って嗜好し続けたタバコや酒を急にやめるのが不可能なことくらいは、自分でもわかっていた。
だから、ストレスとのバランスをとりながら、徐々に減らすことに。
収入が減ったことに対する家計節約も一助にしながら、少しずつ減らしていった。
また、多めだった体重を適正値に減らすべく、ダイエットも実施。
そのため、それまではまったく縁がなかった運動・・・ウォーキングをするように。
食事にも気をつかい、肉中心だった食生活も野菜穀類中心に切り替え、更に、腹八分を心がけた。

はじめは、少し辛そうにしていた夫だったが、しばらくすると、逆に健康管理を楽しむように。
いそいそとウォーキングに出かけるようになり、以前なら車を使っていたような距離でも、わざわざ歩いて出かけるように。
また、それまでは興味を示さなかった地域のイベントにも積極的に参加。
家にいるときも、ゴロゴロ・ダラダラするのをやめ、家事を積極的に手伝うようになった。
女性には、そんな夫の時間が充実しているように見え、またその性格も、以前より明るく温和になったように思えた。

そんな具合に、“血の滲むような努力”というほどではなかったものの、余生を家族に迷惑かけることなく健康に快適に過ごすため、故人なりに努力していたのだった。


朝、夫は、女性より先に起きるのが日常だった。
そして、極端に寒い日や悪天候の日でなければ、早朝からウォーキングに出かけていた。
その日の朝も、夫はいつもの時刻に起き出していった。
女性も、いつも通り布団に横になったまま「いってらっしゃい・・・気をつけて」と、寝室を出ていく夫に声をかけた。
ただ、いつもなら、すぐに玄関を出て行く音が聞えてくるのに、その日は、その音が聞えてこない。
女性は、少し変に思ったけど、たいして気にすることもなく、自分の起床時刻がくるまで布団の温かさに身体を委ねた。

起床時刻になり、いつも通り起きだした女性は、いつも通り着替えて、いつも通り洗面。
そして、朝食の支度にとりかかるべく、いつも通り台所に向かった。
すると、その視界に夫の姿が入ってきた
夫は、ウォーキングには出かけず、食卓の椅子に座っていた。
寒い中 暖房もつけずに。

変に思った女性は、すぐに声をかけたが、返答はなし・・・
夫は、グッタリと首を下げたまま動かない・・・
女性は、“居眠りでもしている?”と思いながらも、日常では見たことがない姿なので心配になり、すぐさま駆け寄った。
すると・・・
夫は息をしておらず・・・
耳元で大きく声を発しても、身体をゆすっても反応はなし・・・
すぐに救急車を呼んだが、時すでに遅し・・・
必死の救命処置にもかかわらず、夫の蘇生はかなわず・・・
穏やかな老後を過ごすつもりでいたのに、人生の終わりは、突然やってきたのだった。

死因は、高血圧の中高齢者がなりやすい急性の血管系疾患。
事前の兆候はほとんどないうえ、発症した場合の致死率は高く、危険な病気。
それまでの故人は、大病を患ったことはなかったが、気づかないところで色んなところが傷んでいたのかもしれなかった。


「健康には、かなり気を使っていたのに・・・」
「何のために我慢してきたのか・・・ 何のために頑張ってきたのか・・・」
「こんなことになるんだったら、好きなようにしてればよかったのかも・・・」
女性は、そう嘆き悲しんだ。
対する私の胸内には、
“そんなことはない・・・故人なりに頑張って生き、その時間は充実していたはず”
との思いが湧いてきた。
が、そこには、そんなセリフで女性を慰められるほど やわらかい空気は流れておらず。
私は、故人の晩年に賛同の意を持ちつつも、女性の話を、ただただ黙って聞くことしかできなかった。


世の中、“結果がすべて”みたいな価値観や風潮は蔓延しているけど、そんなことはない。
もちろん、直接的な結果や成果は大きな意味がある。
しかし、努力した事実、辛抱した事実 チャレンジした事実が無意味なわけではない。
間接的な結果や成果もたくさんある。
大切なのは時間の使い方、無意味なのは時間の無駄遣い。
いちいちそんなことを深刻に考えながら生きるのは窮屈かもしれないけど、少なくとも“ひまつぶし”のような生き方をするほどの退屈さはない。

死は、誰にもやってくる。
死は、どうしたって避けることはできない。
結局、みんな死んでしまう。
だからといって、“どうせ死ぬんだから、生きても無駄”なんてことはない。
それは、“どうせ腹は減るんだから、食べても無駄”と悲観するのと同じこと。
食べ物があること、食べられること、美味しいこと、腹が満たされることは幸せなこと。
同じように、生まれてきたこと、生きること、生きていること・・・生きるプロセス(時間)に意味(楽しさ)があるのだ。
だから、そのプロセスを無駄にするのはもったいない・・・無駄にしちゃいけないと思う。


2016年12月1日。
一度きりの今日 二度とない今日は、誰にとっても 誰の人生にとっても特別な日!
大切に過ごさなきゃ!  ・・・ね。



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椅子とりゲーム

2016-03-22 08:44:29 | 遺品整理
“椅子とりゲーム”
子供の頃、やったことがある人は多いと思う。
頭数より少ない椅子を並べ、その回りを音楽に合わせてグルグルまわり、合図とともに座るってヤツ。
競い争い、最後まで残るのが、このゲームの目的と娯楽性。

当然、ゲームの途中で、一人一人、脱落者が生まれる。
生き残るには、相手を押しのける必要がある。
時に強引に、時に乱暴に、そして、奪い取ることが必要なときもある。
そうして、最後まで座り続けることができた者が最終的な勝者となる。
私だけかもしれないけど、何故だか、この遊びは、負けたときに独特の寂しさを覚え、勝ったとしても独特の切なさを覚える。
結局のところ、独特の虚無感を覚えるため、私のとっては、あまり楽しい遊びではなかったように記憶している。

大人になって社会にでると、また別の“椅子とりゲーム”をやるハメになる。
そう・・・朝夕の満員電車だ。
多くの人が座りたいのに、限られた人しか座れない。
車内は、冷静を装った熱気と緊迫したムードに包まれる。

通勤時間帯、始発駅でもないかぎり、乗ってすぐ座れることなんてない。
何駅が通過して、先客が降りて席が空かないと座れない。
そのためには、まず、座席の前に立つ必要がある。
ドア付近や通路に立っていては、立つ客と入れ替わって座ることなんてできないから。
更に、自分の真ん前の人が立たないかぎり座れない。
どれだけの可能性と確率があるのか、運に任せるほかない。
毎日のことだから、中には、特定の人の顔を憶え、その人が降りる駅を把握し、その人が座っている前に立つような達人もいるよう。
しかし、大方の人は、運と可能性に身を任せるしかないのである。

会社に行くと、今度は、本格的な“椅子とりゲーム”が始まる。
そう、出世競争。
電車とは違って、これは、かなりの長期戦。
新卒20代の頃は、一人前になるのが精一杯。
同年代も無役が多くて、役職はあまり気にならない。
しかし、30代に入ると役に就く者が現れ、ギアチェンジを余儀なくされる。
そうして、限られた椅子を巡っての戦いが始まる。
主任・係長・課長・部長・取締役・常務・専務・社長・会長・・・
上位にいくに従って椅子の数は減っていき、競争は激化。
篩(ふるい)は容赦なく揺れ動き、力のない者は落とされていく。
そして、勝ち残った者だけが上へ上へと登っていく。

こんな私にも大手企業に勤める知人が何人かいるけど、同期に先を越されると、かなりの敗北感や劣等感を覚えるらしい。
ましてや、後輩に追い抜かれるなんてことがあると、それが会社を辞める原因になることさえあるという。

会社や社会に競争原理は必要。
それは人に向上心をもたせ、努力や自己啓発をうながし、広くは、社会成長や経済発展につながる。
しかし、それが過度に働くと、多くの敗北感や大きな劣等感がうまれる。
そして、それらは、人の心と人生を暗い方へ追いやるようになる。
社会の競争原理と人の競争心は、適度なところで保たなければ、大きなマイナスを生むことがあるのである。

幸い?私の会社は超零細企業。
しかも、職種もかなりマイナー。
したがって、会社組織として競争原理が働くほどの体もなければ、そんな場面もない。
「特掃隊長」なんて椅子は、座りたくて座っているわけでもないし、そもそも誰も座りたがらないから競争は起こらない。
ある意味で平和である。

そのせいでもないだろうけど、私は、“椅子とりゲーム”が下手。
人を押しのけてまで座ることができない。
もちろん、座りたくなるような椅子そのものがないのだが、仮に、あったとしても大した椅子に座ることはできないだろう。
勝ち残るための能力もさることながら、競う勇気がないのである。


出向いた現場は、郊外に建つ古い一戸建。
高級住宅地に建っているわけでもないし、「豪邸」というほどでもなかったが、わりと大きくて立派な建物。
ただ、庭は荒れ、長く空き家になっているような、寂れた雰囲気。
約束の時間を待って、私はインターフォンをプッシュ。
すると、すぐに「お待ちしてました」と言う声が返ってきて、玄関から依頼者である中年の男性が出てきた。

「腐乱死体現場」と聞いてやって来たのだが、家の中に入って気になったのは、ジメっとしたカビ臭さくらいで、例の異臭は感じられなかった。
ただ、庭同様、少々荒れ気味。
全体的に薄汚れた感じで、いたるところホコリだらけ。
ゴミが散らかっているということはなく整然とはしていたけど、印象としては、モノクロの冷たい世界。
そんな荒んだ(すさんだ)雰囲気に、よんどころない事情があることを察した私だったが、その心情は男性にとって不愉快なものかもしれなかったため、平然を装い、あえて呑気な表情を浮かべた。

男性は、一階リビングにあるソファーに私を座らせると、
「何からお話すればいいんでしょうか・・・」
「恥ずかしい話なんですけど、亡くなった父と私達家族は、あまりうまくいってなくて・・・」
と、言いにくそうに事の経緯を話しはじめた。


亡くなったのは、男性の父親。
仕事はしばらく前に引退し、晩年は、慎ましい年金生活。
故人の妻、つまり男性の母は健在だったが、この家を出て男性(息子)家族と同居。
結果的に、故人は、この広い家で一人暮しとなっていた。

現場の家と男性宅は、そんなに離れていなかった。
歩いて行き来できるほど近くはなかったが、車で30分もかからない程度。
それでも、男性と故人は疎遠だったよう。
男性の母親(故人の妻)もまた同様で、特段の用事でもないかぎり連絡を取り合うこともなかった。
その結果、故人の死に気づくのも遅れてしまったようだった。

妻がいるのに一人暮らしなんて、一般的にみると不自然。
家族間に難しい問題があったことは容易に察することができた。
が、それは、私が詮索する必要のないこと。
ただ、男性は、プライベートな事情をどこまで話す必要があるのか線を引けないよう。
男性が、
「“体調が悪い”とか“病院にかかっている”等といったことは聞いてなかったんですけどね・・・」
と言ったところで、あえて私の方から話を切り、話題を実務的なことにスライドさせ、依頼の内容を尋ねた。

「父(故人)が使っていた椅子を始末と、書斎の消毒と消臭をお願いしたいんですけど・・・」
依頼を受けた私は、とりあえず、二階の書斎へ。
そこは、ドラマのセットかと思われるような本格的な書斎で、ホコリをかぶった机と、古ぼけて傷んだ椅子があった。
故人は、その椅子に座ったまま亡くなっていたよう。
ただ、不幸中の幸いで、寒い季節で暖房もついておらず、肉体の腐敗は軽度。
椅子に残った痕も、素人目にはわからないくらい薄いもの。
また、異臭レベルも低く、素人鼻には、少し強めの体臭くらいにしか感じられない程度だった。

他例では・・・
少ないけど、重汚染でも家族が自分達の手で掃除するケースはある。
「家族なんだから・・・」といった具合で。
今回の現場のような軽汚染なら尚更で、家族が始末するケースは珍しくない。
その場合、私の仕事(売上)は減ることになるのだけど、私は、そんな人達に好感を覚える。

しかし、男性と家族は、自分達の手でその椅子を片付けるのはイヤなよう。
それが、死を怖れてのことなのか、孤独死を悼んでのことなのか、はたまた、単に気持ち悪いだけのことだったのか・・・
それとも、その椅子が、故人と家族を隔てる象徴のように思えて、抵抗があったのか・・・
どちらにしろ、そこに、あたたかな家族愛は感じられなかった。

デスクマットには、何枚もの名刺が並んでいた。
そこに記されていたのは、某企業の名
そして、氏名はすべて同じ、故人の名。
ただ、所在地・部署・役職はそれぞれ異なっていた。
どうも、それは時系列に並べてあるらしく、順を追って見ていくと、故人が出世街道を歩いていく様が浮かび上がってきた。

最後は重役の肩書き。
そう・・・故人は、重役にまで登りつめたよう。
ただ、その“椅子とりゲーム”を勝ち抜くために故人がなした努力・忍耐・戦いも相当なものだったはず。
家族より仕事を優先せざるを得なかったことも多かっただろう。
家でストレスを吐き出すことも少なくなかっただろう。
知らず知らずのうちに、結構な“ワンマン親父”になっていたかもしれない。
ただ、そんな故人が獲得した経済力によって、家族の生活が守られていたのも事実のはず。
その利害が生み出す矛盾と葛藤が、徐々に故人と家族との距離をあけていったのかもしれなかった。


生前、故人は、時折この椅子に座っては、一人で過去の名刺を眺めたことだろう。
華々しい戦歴が刻まれた名刺に何が見えたか・・・
そして、どんな思いが湧いてきたか・・・
達成感を抱いたか、満足感を得たか、誇らしく思ったか・・・
疲労感を覚えたか、虚しさに苛まれたか、寂しさに襲われたか・・・
根底に流れる懐かしさは、あたたかいものだったか、それとも、冷たいものだったか・・・

冷たくくたびれた故人の椅子は、“椅子とりゲーム”の勝者が味わう人生の機微を語っているように見え、私に妙な切なさを抱かせたのだった。


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二人三脚

2015-11-17 08:47:19 | 遺品整理
遺品処理の問い合わせが入った。
電話の向こうの声は初老の女性。
上品な言葉遣いと穏やかな語り口。
日常において、私みたいな下世話な人間と関わることはなさそうな雰囲気の人だった。

そんな女性の用件はこう・・・
しばらく前に母親が死去。
それにともなって、遺品が大量に発生。
友人や知人の手を借りながら、かなりの物は処分。
ただ、家具等の大型重量物が手に負えない。
そこで、その処分をお願いしたい。
・・・というものだった。

問題の大型重量物は、たったの数点。
手間はかかるが、費用は行政の粗大ゴミ処分を利用したほうが安く済む。
その他の遺品は自分の手で処理したわけだから、粗大ゴミだってできないわけはないはず。
したがって、女性の用件は、仕事になる可能性が低いうえ、仮に仕事なったとしても少額の売上にしかならないことが容易に想像され、私は、いまいちやる気が起きなかった。

私は、遺品の内容を確認し、概算の費用を伝えた。
そして、「行政の粗大ゴミ処分を利用されたほうが費用も安く済むと思いますけど・・・」と、アドバイスして、この話を締めかけた。
しかし、女性は、私が提示した金額を「高い」とも「安い」とも言わず。
どうも予算が決まっていないみたいで、「とにかく、一度、見に来て欲しい」と言う。
私の頭は、金にならなそうな依頼に難色を示したが、「これも何かの縁」と考えをあらため、スケジュールは私の都合を優先させてもらうことを条件に、現地調査に出向くことを約束した。

訪れたのは、閑静な住宅街。
女性宅は、少々古かったが大きな建物。
その敷地はかなり広く、下世話な私は、すぐさま頭の中で不動産価格を算出。
「うあぁ・・・こりゃ結構な資産だな・・・」
「固定資産税もハンパじゃないだろうな・・・」
「でも、それが払えてるんだから、これ以上の資産があるんだろうな・・・」
等と、他人の懐事情を勝手に想像し、
「いいなぁ・・・どうやったらこういう生活ができるんだろう・・・」
と、羨ましく思った。

金持ちだろうがそうでなかろうが、かかる費用(売上)に差は生じないのに、金持ちが相手だと妙に卑屈になるクセがある私。
私は、電話のときとは別人のように作り声を高くし、インターフォンに話しかけた。
そして、傍のカメラに愛想笑いを浮かべ、ペコリと頭を下げた。

玄関を開けて出迎えてくれたのは、電話で話した依頼者。
声のとおり、初老の女性だった。
門扉をくぐって玄関を入ると、外見のとおり家の中も広々。
私は、くたびれた中年男には似合わないきれいなスリッパに足を入れ、招かれるまま一階の和室へ。
そこは、晩年の故人が過ごした部屋・・・故人が存在した跡がにわかに残る部屋・・・
細かなモノの多くは既に片付けられており、介護ベッドをはじめとする家具ばかりが目立つ整然とした部屋だった。

対象物が限定されていたので、検分は短時間で終了。
私が提示した費用は、電話で答えた金額とほぼ同額。
私は、再び「行政の粗大ゴミ処分のほうが安いと思いますけど・・・」と言いそうになったけど、女性の考えが「安けりゃいい」というものでないことが察せられたので、その言葉を呑み込んだ。

「やっぱりそれくらいかかっちゃうんですね・・・」
女性は、特に困った様子もなく、淡々としていた。
そして、
「今、お茶をだしますから・・・」
と、出した見積に可も不可も言わず、また私の都合も訊かず台所に向かった。

通常なら、テキトーなことを言って断るのだが、次の予定まで結構な間があった私は、すすめられるままリビングのソファーに腰をおろした。
話したいことが山ほどあるのか、話す時間が山ほどあるのか、お茶と菓子を運んできた女性は席に着くなり口を開き、お茶の前で切れていた話を続けた。

女性は70代。
処分対象のベッドを使っていたのは、100年近い天寿をまっとうし、ひと月余前に他界した女性の母親。
母親は、最期の数年、認知症を罹患。
ただ、暴力的な症状はなし。
また、足腰は丈夫で、寝たきりになったのは最期の数日のみ。
普段は、テレビを観たり手芸をやったりデイサービスに行ったりと、平穏に生活。
食べたい食事もハッキリ言い、トイレも自力。
付添人とシルバーカーがあれば外出もできていた。
そうはいっても、長い時間目を離すことはできず、生活上、女性の世話や介助は必要不可欠だった。

女性にとって、母親の世話は大変な重荷だった。
生活のリズムも、食事のメニューも母親中心。
何事も母親を最優先にしなければならず、自分のことは二の次 三の次に。
一人で自由気ままに外出することなんて、夢のまた夢。
デイサービスやショートステイを利用することはあっても、自分中心の自由を手にすることはできなかった。

心が折れそうになったとき、女性を支えたのに母親に対する恩義と長年の思い出。
幼少の頃から老年に至るまで、母親が自分にしてくれたことを一つ一つ思い出すと、折れかかった心は元通りになった。
そして、「最期まで面倒をみる」という決意と覚悟をあらたにすることができた。

そうして数年の時がたち・・・
母親が亡くなり、生活は一変。
女性は、肉体的な負担も精神的なプレッシャーも減り、時間や気持ちに余裕を持てるようにもなった。
生活の中心を母親から自分に戻すことができ、好きなときに好きなことができるようになった。
にも関わらず、心の支えを失ったかのような状態に陥り、心身に力が入らない・・・
葬式が終わってから一ヵ月間、何をするにも気力が涌かず、家で静かにしていることが多くなった。
受けた印象から察するに、「悲しい」「寂しい」とは違う何かが、「安堵」「気楽」とは違う何かが女性を覆っているように思えた。

母親の面倒をみた数年で、女性自身も歳をとり、身体も衰えた。
結果的に、貴重な時間の多くをそれに費やしてしまった。
それでも、女性に後悔はなかった。
それよりも、「最期まで面倒をみることができた」という達成感と誇りのほうがはるかに大きいよう。
そして、頑張り通せた自分を褒めているようでもあり、亡き母親に感謝しているようでもあった。

女性宅には男手がなかったため、結局、この商談は成立した。
ただ、片付けるモノが少ない分、売上も少額。
仕方がないことだが、金銭的には旨味の少ない仕事となってしまった。
しかし、それ以上に、人間の旨味を充分に味わわせてくれ、金のことばかり気にして窮々となりがちな自分の懐を厚くしてくれた仕事となったのだった。


人生は、ときにマラソンのようであり、障害物競走のようであり、また二人三脚で走るようなものでもある。
一人ならスマートに歩けそうに思えるし、はやく走ることだってできそうに思える。
それでも、人と人とは支えあって生きている・・・支えあわないと生きていけない。
そして、自分が前進するためには相手も前進させなくてはならない。

一方が倒れたら、手をかして起こす。
一方が遅かったら、それに合わせて歩を弱める。
人と息を合わせ、人と歩調を合わせ、人の立場を考え、人のことを思いやる。
そういう隣人愛を人は、「気遣い」とか「思いやり」とか「優しさ」等と呼ぶのだろう。
ただ、「自分は支えている側の人間」と思っていても、実のところ、それが自分に跳ね返って自分を支えているということもあると思う。
そして、人間とは、そういうかたちの歩みを必要とする生き物であり、その心は、そういう歩みを喜ぶようにできているのではないかと思う。

私は、狭い世界に生きている。
友人知人の数も極めて少ない。
しかし、直接的にしろ間接的にしろ、私を支えてくれている人は世の中にたくさんいる。
このブログひとつとってみてもそう。
陰気クサイ内容のクドイ文章にも関わらず、それでも読んでくれる人がいる。
そして、誰かが読んでくれるからこそ書くことができるし、そこに気持ちを込めることもできる。
・・・そう、これも、書き手と読み手、一対一の二人三脚で成り立っているもの。
そして、私にとっては、そのことが嬉しいし、楽しいし、ありがたいことなのである。

お互い、顔も名前も知らない相手との二人三脚。
心の荒波に翻弄されながらの二人三脚。
それでも、私には、読んでくれる人の存在が支えとなり、液晶画面のぬくもりが、そのまま、その向こう側にいる人のぬくもりのように感じられることがある。
だけど、向こう側の誰かの支えになれているかどうかはわからない。
しかし、そうなれることを願っている。
巡り巡って、それが、私自身をも前進させるのだから。

私=特掃隊長は、この実世界とインターネットの世界に片足ずつを入れている。
そして、ブログという紐で誰かと足を結び、一度きりの人生を、二度とない今日を共に闊歩したいと思っているのである。



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ワンワン ワンワン

2015-11-11 09:23:27 | 遺品整理
11月11日、胸のすくような快晴。
一並びの今日はチビ犬の命日。
一年・・・はやいような、遅いような、とにかく一年が経ち、また、寒い季節がやってきた。
ついこの前までは半袖でいられたはずなのに、もう重ね着しないと寒さを防げない。
しかも、この寒さは、これからもっと厳しくなるわけで、考えただけで憂鬱になる。

悲しみに暮れたアノ日・・・
はじめから、この悲しみは時が解決してくれることがわかっていた。
そして、代わり映えしない毎日ながらも、一年は確実に過ぎた。
少しずつだけど、その分、悲しみも寂しさも癒えてきている。
そうは言っても、チビ犬のことを忘れる日はほとんどなく、毎日のように思い出していた。
無意識のうちに・・・この現実世界にチビ犬がいた痕は少なくなってきているのに、思い出さなかった日は数えられる程度しかないと思う。

アノ時は、ホントに悲しかった!
いい歳のオッサンが子供のように泣く姿を思い出すと気恥ずかしい部分もあるけど、ま、それも私という人間。
そう・・・死んだ日とその後の三日間は涙の材料に事欠くことはなかった。
どこに行っても何を見ても涙が溢れる状態だったが、とりわけ、ヤバかったのは食器に残された食べかけの竹輪。
「ちょっと前まで喜んでかじってたのに・・・」
「全部食べないまま逝っちゃったんだ・・・」
その姿を脳裏に甦らせると、もう・・・悲しくて!切なくて!胸が痛くなった。
そして、ワンワンと号泣した(そのことを思い出すと、今でも目が潤んでくる)。

使い手のいなくなったペットフードや消耗品類は、早々にボランティア団体(動物愛護団体)に寄贈した。
ただ、その他のモノはなかなか始末できず。
いなくなって数ヶ月の間、トイレや食器等のチビ犬用品はそのままの状態で部屋に置いていた。
そして、時間を置きながら少しずつ片付けていった(しまっただけで捨ててはいない)。
今は、部屋の隅にハウスだけが残っている。
これもいつかしまわなければならないのだけど、なかなか気持ちが決まらない。
邪魔になっているわけでもないし、誰かに迷惑をかけているわけでもないし・・・
結局、もうしばらく、そのまま置いておくことになるのだろうと思っている。



遺品処理の相談が入った。
依頼者は、私より少し若めの男性。
現場は、男性の実家で、部屋にある家財をすべて片付けたいとのことだった。

訪問した現場は、古びたマンションの一室。
間取りは小さめの3LDK。
生活感はあるものの、目につく家財の量は多くはなく、全体的に閑散としていた。

男性は、表情も穏やか、言葉遣いや物腰も丁寧で、接していて気持ちのいい人物。
家財の量に比例し、私が提示した料金はそんなに高いものにはならず。
私は、作業内容と費用の内訳を説明し、男性も、それを理解し二つ返事で了承してくれた。

ここに暮していたのは、男性の両親。
数年前に父親が亡くなり、その後、しばらく母親が独居。
その母親も、一年余前に亡くなっていた。

この部屋は、相続によって男性の所有物件になっていた。
賃貸マンションだったら、早めに家財を片付けて退去する必要に迫られるのだが、そういう事情はなし。
片付けは、男性のペースでやることができた。

母親が亡くなったことによって生活する人がいなくなった部屋だったが、男性は、すぐに家財の片付けを始めることができず。
放っておくと腐ってしまう食品類を早々に始末しただけで、あとのモノは放置。
一年近く経って、やっと、片付けに乗り出したのだった。

男性は、休日を利用し、自らの手で少しずつ片付けていった。
時間と手間のかかる作業だったが、ゆっくりコツコツ進めた。
当初から他人の手を借りることも頭にはあったが、心理的に抵抗があったためだった。

最終的には、ゴミとして処分される故人の遺品。
男性は、それを充分に理解していた。
ただ、現実はそうとわかっていても、どうしても遺品を両親と重ねて擬人化してしまい、機械的に処分することに抵抗感を覚えたのだった。

男性にとって、両親の遺品処理は、寂しく悲しい作業だった。
が、それだけではなく、どことなく嬉しいようなあたたかいような感覚もあった。
両親と一緒に暮した幼かった日々 若かった日々がいっぱい詰まった部屋で、誰に気を使うこともなく過ごす時間は、男性にとってホッとリラックスできるものだったよう。

そのうち、男性は、休日のたびにイソイソと実家に出かけるように。
自宅はそんなに遠くないにも関わらず、泊りがけで行くことも少なくなかった。
ただ、それを“良し”としない人物が身近にいることに気づかないでいた。

誰しも、一人の時間や一人の空間がほしくなるときはあると思う。
特に、家族持ちの人には、そんな人が多いのではないだろうか。
妻子ある男性にとっても、ここは自宅とはまた違った平安が得られる心地いい場所のようだった。

ただ、そんな単独プレーもほどほどにしておかないと、家族関係に歪みが生じる原因にもなりかねない。
始めの頃は、男性の遺品処理に理解を示していた妻だったが、それも限界に近づき・・・
予想をはるかに越えて長引く作業に業を煮やした妻の不満は、あるときに爆発したのだった。

早々にケリをつけないと夫婦関係がマズイことになることは必至。
危機感を覚えた男性は、自分の感情を抑えて他人の手を借りることに。
そうして、私と会うことになったのだった。

作業の日は、男性の心を映してか、薄日が差す程度の曇空。
雨が降らないかぎり支障はなく、作業は約束された日時にスタート。
私は、男性の心情を察して、ゴミとなる荷物でも必要以上に丁寧に取り扱った。

もともと男性が片付けを進めていたため、作業は、大きな問題もなくスムーズに進行。
問題といえば、男性が、運び出される荷物を名残惜しそうに、我々の作業をどことなく寂しそうに眺めていたことくらい。
私は、男性が荷物をまとめておいてくれたお陰で手が省けた分、男性の気持ちを乱さないようゆっくりと作業を進めた。

一通りの荷物を部屋から運び出し、最終的には、何点かの遺品が残った。
それは、家族の写真と母親の着物。
部屋には、男性が捨てることを躊躇う何冊ものアルバムと何枚もの着物が残った。

男性には、この他にも、取っておきたいモノ、捨てたくないモノがたくさんあった。
そんな中、苦渋の選択の末で残ったのが写真と着物。
男性は、これをどうするべきか迷っていた。

写真は、男性が生まれる前の古いものから両親の晩年のものまで。
両親の夫婦仲はよかったよう、着物は父親が母親に買ったもので、母親もそれをとても大切にしていた。
写真も着物もすべて、亡き両親の想いが凝縮されたものだった。

アドバイスを求められた私は、あくまで個人的な考えであることを前もって強調し、
「ゴミとして処分しても、それが故人を軽んじることにはならないと思うし、それが原因でよからぬことが起こるなんてこともないと思う」
という、かねてから持っている考えを伝えた。

ただ、それは個人的なもの。
人それぞれ思うところがあって然るべきであり、他人に勧めるような類のものでもない。
ただ、男性は、私がこの仕事に長く携わっていることに一目置いてくれたのか、意外なほどすんなりと私の考えを受け入れてくれた。

部屋が空っぽになると、男性は、部屋中をしみじみと眺めた。
ホッとしたように、そして、どことなく寂しげに・・・
そして、「助かりました」「ありがとうございました」と丁寧に礼を言ってくれた。

男性は、スッキリした気持ちと寂しい気持ちが入り混じった複雑な心境だったのだろう。
ただ、男性には、妻や子供がいる。
私は、これを機に、男性が、両親の思い出を心にあたためながら、その家族愛を妻子へシフトして幸せに生きていくことを想像し、和やかな気持ちで現場を後にしたのだった。



「目に見えるモノは、いつか消えてなくなる」
「アノ世には自分の身体さえ持っていけないのだから、目に見えるモノに執着しても仕方がない」
「思い出は、モノではなく心に残しておくもの」
等と、他人に対しては、結構サッパリとした理屈を吐くことができるのに、一年経ってもチビ犬の遺品を始末できないでいる私。
スマホの待受画面を変えることも全く考えておらず、独り言も減らないまま。
一体、いつになったら、これらを片付けることができるのやら・・・

それでも、いつか、「11月11日」という日を忘れる日がくる・・・
後の思い出に覆われる日か、老いて朦朧(もうろう)とする日か、命が尽きてなくなる日か・・・
忘れたいわけではないけど、いつか忘れる日、忘れられる日はくる。
ただ、それまでは、チビ犬が生きた証として、私が生きた証として、共に生きた証として、あの姿もあの鳴き声も心の中に大切にとっておきたい。

白とグレーの小型犬。
吠えるのは、何かを求めるとき。
目に焼きついているその姿は、今もなお、私に笑顔を与えてくれている。
そして、耳の残るその声は、私を頼りにしてくれているみたいで、「頑張ろう!」という気を起こさせてくれるのである。



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馬鹿に説法

2015-03-20 15:14:04 | 遺品整理
私の世界は狭い。極めて小さい。
特異な小コミュニティーに属し、世の陰でレアな仕事をしながらひっそりと生きている。
一日中、外の誰とも会話しない日だってザラにある。
車での移動中、単独での作業中等、一人で黙っている時間は一日何時間もある。
だから、心の中の独り言が多い。自問自答が多い。
ただ、このポンコツ中年男、そうして歳は重ねているけど、中身はそれほど成長していない。
それでも、仕事においては大ベテラン。幸か不幸か。
教えることはあっても教わることはほとんどない。
新しいことは自らが吸収し、わからないことは自らが考えるしかない。
また、この歳になると、道を説いてくれる人もいない。
先に逝った人々の生き跡や、残された人々の生き様を受けて心の向きを変えながら、頭で理解する正義と心が傾く悪楽の狭間でブレながらフラフラと歩いている。

私は、子供の頃から、人見知りで引っ込み思案な性格。
人と競り合うことが苦手。単なる“負けず嫌い”とは少し違うと思う。
他人を押しのけて先頭を走るタイプではなく、誰かの後を大人しく着いていくタイプ。
性格なんて、そんなに変わるものではなく、その辺のところは、この歳になってもあまり変わらない。
しかも、私は社交的な人間ではない。
だから、大勢の中に属することにストレスを感じる。
ただ、前ブログにも書いたように、不特定の誰かと限られた時間関わることに面白みを感じることがある。
特段の話をするわけでもないのだが、何気ない言葉のやりとりで自分の存在意義を感じられるときがある。
好きでやっている仕事ではないし、他の仕事を羨んでばかりいるけど、誰かと競り合うこともいらず、そういうところでは、この仕事は自分に合っているのかもしれない。


呼ばれて出向いたのは、一般的な一戸建。
依頼者は、初老の男性。
落ち着いた雰囲気をもった人物で、物腰は紳士的でもあった。
応接間に通された私は、すすめられたソファーに腰掛けた。
対には男性が座り、その隣にお茶の支度を持った女性(妻)も座った。
そして、依頼したいのは家財の整理処分であることと、それに至った経緯を話し始めた。

男性は、中堅企業のサラリーマン。
高校を卒業してすぐに就いた仕事だった。
男性は、転職もせず定年までこの会社に勤めた
気の合わない上司の下に置かれたり、不本意な部署に転属させられたり、出世において同僚に先を越されたり、高学歴の年下上司に使われたりと、不愉快な思いもたくさんした。
途中、転職していった先輩・同僚・後輩もたくさんいた。
そんな中にあって、転職の誘惑に惑わされることもしばしばあった。
が、青くない隣の芝生が青く見えるのは世の常・人の常。
男性は、それを悟っていた。
“給料が安いから”“仕事がキツいから”“嫌いなヤツがいるから”等といったネガティブな理由で辞めるのを“良し”とせず、“逃げたら終わり”という考えが常にあった。
結果として、男性は定年まで勤め上げ、以降も嘱託社員として継続勤務していた。
そして、そのことを少し誇りに思い、その道に悔いなく満足していた。

男性夫妻の収入源は、嘱託社員としての収入と老齢年金。
家のローンも終わり、大きな贅沢はできないながらも、日常の小さな贅沢はできるくらいの生活をしていた。
しかし、穏やかな生活ができるのも身体の自由がきく間だけ。
時間は夫妻を老いさせ、夫妻も体力の衰えをヒシヒシと感じるように。
同年代の入院や死去の話も多く入るようになり、もう“他人事”とは済ませられなくなってきた。
そんな中にあって、どちらか一人が残されたときにことを考えるように。
子供のいない夫妻の法定相続人には甥や姪がいたが疎遠な関係。
ただ血のつながりがあるだけで人のつながりはない。
そんな甥や姪に過分な財産を残しても仕方がないし、またに迷惑もかけたくない。
そこで、夫妻は、この家を売却処分し介護付マンションに移ることに。
そしてまた、終末期の面倒や死後の始末を任せられる後見人を元気でいるうちに立てておくことにしたのだった。

色々と話しているうちに、話題は、私のことに。
遺体処置、遺品処理、ゴミ部屋の片付け、腐乱死体現場の処理etc・・・
長年に渡ってそんな仕事に従事している私に、夫妻は興味を覚えたよう。
この仕事に就いたきっかけ・動機にはじまり、やめずに続けている理由、苦労したこと、楽しかったこと等々、私に色々と質問。
他人事とは思えなかったのだろうか、とりわけ、孤独死については事細かく訊いてきた。
野次馬根性からくる好奇心だけならテキトーに応えておくのだけど、夫妻は、私の話を自分達の今後に適用させたいよう。
真剣に聴くつもりであることが夫妻の姿勢からうかがえた私は、グロテスクな表現や個人的な恥部露呈もいとわず率直なところを伝えていった。

「残念ながら、大学を卒業した年からずっとやってます・・・」
「今、○○歳ですから、もう○○年になりますね・・・」
「能力があれば、他の仕事にも就けたのかもしれませんけど・・・」
そういう私に、夫妻は感心した(呆れた?)ような顔をし、
「ご謙遜を・・・」
「どんな仕事でも、続けることが大切ですよ」
「それも大事な能力ですよ」
と、優しくフォローしてくれた。

「“続けてきた”というより“続けざるを得なかった”といった感じですかね・・・」
「責任感はもってるつもりですけど、使命感とかはないです・・・」
「とりあえず、生活と自分のためです・・・」
そういう私に、夫妻はうなずき、
「私を含めて多くの人がそうですよ・・・」
「口でいいこと言うのは簡単ですけどね・・・」
「それでも続けていることは素晴らしいことだと思いますよ」
と、私の思いを受け入れてくれた。

「他人から気持ち悪がられたり、奇異の視線を浴びることも多いですね・・・」
「バカにされて悲しい思いをすることもあるんですよ・・・」
「でも、自分の仕事を一番バカにしているのは、他でもなく自分だったりするんですよね・・・」
そういう私に、夫妻は悲しげな顔をし、
「私達にはわからない苦労があるんですね・・・」
「でも、辛抱して続けてきたことは絶対間違っていないと思いますよ」
「これからも頑張って下さい・・・陰ながら応援していますから・・・」
と、家族のように励ましてくれた。


この仕事、“辞められるものなら辞めてしまいたい”と思うのは日常茶飯事。
しかし、 “継続は力なり”。
そして、続けなければならない理由も事情もある。
男性が一つの会社で勤め上げたように、一つのことを続けるのは大切なことだと思う。
私も、嫌な思いや辛い思いをすることが少なくないこの仕事を、長年、続けてきた。
自分のため、生活のために。
もちろん、大切なのは仕事ばかりではない。
仕事じゃなくても何でもいいから一つ継続しているもの・継続できるものを持っていることが大切だと思う。
そうすると、それが人生の芯になると思う。
そして、その芯を持ってすれば、色んなことをやっても道が外れないのではないかと思う。
実際、この仕事が私の芯なのかどうなのかわからないけど、大きく道を外さないで生きることができているし、これを通じて賃金のほかにも多くの恩恵に与ることができている。

自分の不幸感を紛らわせるため、投げやりに始めた仕事。
とりあえず、生活するために続けてきた仕事。
労働することによって、人並みの生活はできている。
責任感はあるけど、使命感はない。
それでも、小さなやり甲斐とささやかな幸せはある。
報酬は、賃金の他、人の役に立てたことから生まれる自分の存在価値と、文字にも言葉にもなっていない説法。
それは、仕事に、生活に、生きることに疲れたとき、“生きることの意味”ではなく“生きることが意味”ということを教えてくれる。

晩冬初春の今、夏場に比べて身体は格段に楽。
チビ犬との死別の悲哀をのぞけば、昨冬に比べて精神も格段に楽。
ただ、このぬるま湯に浸かったような状態は、なんとも落ち着かない。
やはり、生きているかぎりは、熱を帯びたいし汗もかきたい。
今、与えられた役割を懸命にこなしたい・・・
今、与えられた時間を必死につかいたい・・・
・・・ガムシャラに何かをやってみたい。
「ただの貧乏性」と言ってしまえばそうかもしれないけど、私は、甘くない人生を甘く過ごしている自分に自己嫌悪感にも似た危機感を抱いている。

現実は近く、理想は遥か彼方・・・
この頭も、この心も、この身体も、自分の思い通りには動かない。
ダメな自分が嫌な自分が、ダメな自分に道を説く・・・
この馬鹿に説法は、一生続く・・・続けなければならないのだろうと思っている。



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涙酒

2015-03-16 16:51:44 | 遺品整理
更新頻度が低いことの言い訳のようだけど・・・っていうか、モロ言い訳だけど、ブログ製作は私の本業ではない。
ま、そうは言っても、ある種、仕事のようなもの。
そしてまた、仕事外の務めのような、趣味のような、息抜きのような、気分転換のような、そんな感じのものである。
しかし、昔の筆圧はどこへやら、今は、気の向くまま時間がゆるす範囲でやっている。
ただ、筆圧は低下しても、現場へ向かう意気に低下はない。
一件一件、仕事になりそうでもならなそうでも、とにかく走る。
そして、色々な状況で、色々な人と出会い、関わる。
正直なところ、気持ちよく仕事ができない人や不快な人がいることも事実。
だけど、大半の人は良識をもって普通に仕事をさせてくれる。
接してて気持ちがいい人、話してて楽しい人、見てて愉快な人、生き様に頭が下がる人、走った先には色んな人がいてなかなか面白い。
私は、口下手で人付き合いが苦手な孤独好きだけど、楽しくない仕事をしているからこそ人との関わりを面白く感じるのかもしれない。

低下したのはブログの更新頻度ばかりではない。
ダイエット習慣のお陰か、節操のなかった食欲も少しは下がっている。
また、週休肝二日も二年を経過し、以前に比べれば酒欲も下がっていると思う。
ま、それでも、私は酒が好き。
飲む量は減ってきてはいるけど、好きであることに変わりはない。
ウイスキーとビールは常備(大好物の“にごり酒”は何年も前にやめた)。
たまに日本酒・ワイン・ブランデー・焼酎などをもらうことがあるが、頂き物がある場合はそれも飲む。
「酒が飲めるなんて幸せなことだなぁ・・・」としみじみ噛みしめながら。

自分の酒癖は、悪いほうではないと思っている(若い頃の暴飲・泥酔は例外として)。
酔って不機嫌になるタイプではないと自負しているけど、性格が性格だけに暗い酒になりがち。
それは、酒を欲しているのが、舌なのか胃なのか、それとも心なのかによって変わってくる。
その暗さがいいのか悪いのか、酔って気持ちが大きくなることはあるけど、あまり態度には表れない。
その分、気分よく抜けるアルコールは少なく、時には少量でも翌日に響く。
そして、翌日の不快感や二日酔は、自分の学習能力の低さを身をもって教えてくれる。
治る時間と直すチャンスを与えながら。



遺品処理の依頼が入った。
依頼者は、中年の女性で、現場は女性の両親が住んでいた部屋。
前の年に母親が亡くなり、そして、この年に入って残った父親も亡くなったため退去することになったよう。
客向けの作り声と軽快な口調に、私のことを“若僧”と勘違いしたのか、女性の口のきき方はかなり乱暴。
命令口調ではないもののタメ口で、親を亡くしたことによる悲しげな素振りは一切なし。
“こういうタイプ、苦手なんだよな・・・”
私は、そう思いながらも、仕事と割り切ってできるかぎり愛想よく受け答えた。

現地調査の日。
出向いたのは公営団地の一室。
私は、約束の時刻の数分前に玄関前に行き、インターフォンを押した。
しかし、中から反応はなし。人がいる気配もない。
約束の時刻はもうじき。
車に戻るのが面倒だった私は、そのまま玄関前で待つことに。
そうして外の景色を眺めながらボーッとしていると、依頼者の女性は、約束の時刻ピッタリに現れた。

「待たせてゴメンね~」
と、大きな声で近づいてくる女性に
「とんでもないです・・・約束の時間ピッタリですから・・・」
と応えながら、
“妙に明るい人だな”
“遅れたわけでもないのに謝るなんて、ひょっとしていい人?”
と、私は、気を緩ませながら女性に向かって頭を下げた。

しかし、緩ませた気を、すぐさま身に覚えのあるニオイが覆った。
それは、アルコール臭。
女性から、酒の臭いがプンプンしてきたのだ。
“この人、酒飲んでるな・・・”
昼間から酒のニオイをさせてきた女性に、私は、少し驚いた。
そして、気持ちが引いた。
が、そこは仕事。
女性の気分を害さないように、これまた、できるかぎり愛想よく振舞った。

女性が酒に酔っていることは明らかだった。
よく観察すると足元はフラつき、呂律(ろれつ)もうまく回っていない。
“アル中か?”
そんな風に思わせるくらいだった。
また、電話口と同様、口も悪かった。
普段からそういうキャラなのか、酔いがそうさせているのか、芝居にでてきそうなくらいの“べらんめえ口調”。
人を浅はかな観点で軽率に判断する癖のある私は、抱きかけた女性の好印象をアッサリと捨て、元の悪印象を抱きなおした。

遺品処理は引越しに近い作業。
普通の引越に比べれば荷物の取り扱いはかなり雑だけど、基本的な作業は似たようなもので、部屋から運び出す前に、荷造・梱包が必要。
それと同時に、貴重品や必要品のチェックを行う。
そうした下準備をしたうえで、部屋から運び出す。
荷造梱包と撤去搬出を同日に行うケースもあるけど、費用と時間がゆるせば、複数日に渡って行う。
貴重品のチェックや取捨選択をキチンと行うために。
女性も、ろくに荷物をチェックしていなかったし時間にも余裕があったため、作業は複数日に渡って行うことにした。


荷造梱包の日。
この日も女性は、時間ピッタリに現れた。
時間は正確だったが、やはり、足元はフラフラと千鳥足。
そして、前回同様、酒のニオイがプンプン。
“妙なことが起こらなければいいけどな・・・”
私は、警戒レベルを上げて女性とともに室内に入った。

「何か手伝うことない?」
「いえ・・・大丈夫です・・・“やり方”がありますから」
「そぉ・・・どうせガラクタしかないだろうから、遠慮なくやっちゃって!」
「わかりました・・・」
「私、どうしてればいい?」
「えーっと・・・家具家電は運び出しの日までそのままにしておきますので、テレビでも観ながら楽にしてて下さい」
「“楽に”って言われてもねぇ・・・なんか落ち着かないなぁ・・・」
「スイマセン・・・ただ、貴重品が出てくるかもしれないから、ここにはいてもらいたいんですよ」
「貴重品ねぇ・・・そんなもんないと思うけどねぇ・・・でも、ヘソクリくらいあるかも?」
「そうですよ」
「いいこと考えた!御宝がでてきたら二人で山分けしようか!」
「それいいですね!そうしましょう!そうしましょう!」
と、フツーなら冗談に聞くはずの話を本気で言ってる風な女性に、私は、愉快な感情を抱いた。
同時に、女性の屈託のない性格を垣間見た私は、“悪気はない”と分析し、上げていた警戒レベルを中くらいまで下げた。

「やることないから、飲んじゃっていいかなぁ・・・」
「どうぞ!どうぞ!退屈でしょうから遠慮なくやって下さい」
「ごめんねぇ・・・人が仕事してる傍で・・・」
「いえいえ、私も酒好きですから、気持ちはわかりますよ」
「そおなんだぁ・・・だったら、尚更、悪い気がするなぁ・・・」
「大丈夫ですから、気にしないで下さい」
「いっそのこと、一緒に飲んじゃう?」
「いやいや!そりゃマズイです!仕事中だし車だし・・・」
「そりゃそっかぁ~!」
「そりゃそうです!」
と、これまた冗談みたいな本気の話に、私は笑って応えた。
そして、警戒レベルをかなり低いところまで下げた。

結局、女性は、私に申し訳なさそうにしながらも台所の椅子に座り、冷蔵庫から缶チューハイだして飲み始めた。
始めは遠慮がちに缶チューハイをグラスに入れ換え、空缶は私の視界に留まらないようそそくさとゴミ箱に捨てていた。
2~3本飲んだところでエンジンがかかってきたのか、次は冷蔵庫からワインをとりだして機嫌よく飲み始めた。
しかし、飲み過ぎは身体に毒。
その昔、暴飲暴食が祟って肝臓を悪くしたことがある私は、女性の身体が少し心配になった。
が、せっかくの和やかな雰囲気に野暮な水を差すのはやめておいた。

内向的な私は、言葉数の少ない人より話し好きの人のほうが一緒にいて楽。
女性は私の一返事に対して二も三も返してくるような人で、会話が途切れることはなく、私は作業の手を動かしながら女性の話し相手をし、女性の話し相手をしながら作業の手を動かした。
そんな女性を、“無神経な人”“礼儀知らずな人”と思うのが普通なのかもしれなかったけど、何故か、私にそんな不快な思いは涌いてこなかった。
何がそうさせたのか・・・自分でもよくわからなかったけど、死に関わる現場にあっても雰囲気は煮詰まらず、気分を楽にしていられた。

遺品の中からは写真がたくさんでてきた。
それは、棚の一箇所に丁寧にしまってあった。
「写真はどうしますか?」
「ゴミ!ゴミ!全部ゴミ!」
と、女性は少しうっとおしそうに返事。
しかし、すぐに思い直したようで、
「でも・・・一応、見とくか・・・」
と、私の手から、何冊ものアルバムを受け取った。

「ヤバイ!若い!笑える!」
女性は、アルバムのページをめくりながら、またグラスを傾けながら楽しそうに一人笑い始めた。
古い写真に、懐かしい想い出が次々と甦ったのだろう、女性の笑い声は、感嘆の声とともにしばらく部屋の中に響いた。
そうしてしばし、多弁だった女性は次第に無口に。
「これ・・・一応、とっとくか・・・いらなくなったら自分でゴミに出せるしね・・・」
と、静かに声を落とした。
そして、
「お袋も親父も、こんなに早く死にやがって・・・」
「後始末しなきゃいけないこっちの身にもなってみろ・・・」
と、写真に向かって悪態をついた。
ただ、そこには、それまでのような威勢のよさはなく力ない悲哀だけが漂い、切なさを誘うものだった。


女性は、涙を酒にかえて飲んでいたのかもしれない・・・
私は、悪態の裏に女性の悲哀が、悲哀の底に女性の優しさがあったような気がした。
そして、それが女性の人間味を心よいものにしているのだろうと思い、自分のやった仕事に酔ったのだった。


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小満足

2015-03-07 15:02:07 | 遺品整理
昨年秋からのプチダイエット。
約三ヶ月で標準体重まで落とし、以降は、その維持に努めている。
ただ、維持のつもりでも、ダイエットで身についた習慣をベースに生活しているから、体重は微減を継続。
今では、夕食後の計測でも標準体重を下回るようになっている。
必要以上に痩せたいわけではないので、今後は、摂取カロリーと消費カロリーのバランスをうまくとっていきたいと思っている。

ダイエットの収穫は減量だけではない。
私は、これを通じて面白いことを発見した。
それを一言でいうと、
「空腹でしか味わえない満足感がある」
ということ。
そして、
「満腹で味わう満足感より、空腹で味わう満足感のほうが充足度が高い」
ということ。
ダイエットに難なく成功した達成感がそう思わせているのかもしれないけど、少し腹が減っているくらいが身体にも精神にも健康的なような気がする。
実際、空腹のほうが夜よく眠れるし、朝の心身も軽い。
現場でも、身体がよく動く。
「努力して・忍耐して・挑戦して得られる満足感は、楽して・楽しようとして得られる満足感に勝る」
この感覚をうまく伝えられないのが歯痒いけど、そんなきれいごとを、私は実感として覚えているのである。



「相続するかどうか考えてまして・・・」
「相続しない場合は頼めませんけど・・・」
依頼者の女性は、少し気マズそうに言った。
「大丈夫ですよ・・・現場を見ないと何も始められませんから」
仕事にならなそうでも現場を見に行くことをモットーとする私は、女性の躊躇いを掃うように明るく応えた。

出向いた現場は、市街地に建つマンションの一室。
亡くなったのは部屋の主である年配の男性。
発見は、死後二ヶ月余。
女性は、故人の親戚。
ただ、生前の面識は一切なし。
それでも、女性は、妻子もなく親兄弟も先逝した故人の法定相続人になっていた。

相続財産は正の遺産ばかりとはかぎらない。
借金などの負の遺産だってある。
そのため、遺産相続は、“単純承認”“限定承認”“相続放棄”と、様々な方法を選ぶことができるようになっている。
ただ、後二者の場合、死亡を知ってから三ヶ月以内に決めなければならない。
決められた期間内に故人の遺産をキチンと見極め、相続方法を決める必要があるのである。

老朽マンションで、管理費は高そうで耐震性は低そう。
間取りも1DKで狭小。
場所も街中ではあったが風紀のよくない地域。
不動産としての価値も低いうえ、その原状回復には大きな費用をともなうことは明白。
不動産以外に大きな財産がないかぎり、相続しないほうが有利に思え、私は、あくまで一個人の私見としてその旨を伝えた。
ただ、私が意見するまでもなく、女性も、既に、相続財産が大きなプラスでないかぎり相続を放棄することを決めていた。
それは、手間と心労を考えると、少々のプラスでは割りに合わないと考えてのこと。
そのためにも、女性は、とにかく故人の財産を精査する必要があった。
「ズルい人間のように思われるでしょうけど・・・」
と、少々気マズそうにしながらも、女性は、包み隠すことなく正直な心情を語ってくれた。

女性は、レインコート・防塵マスク・手袋などを用意してきていた。
それらは、一緒に室内に入ることを前提に、電話相談の段階で私が勧めたモノだった。
しかし、玄関ドアを開けると同時に漂ってきた異臭に女性は後退。
早々と気持ちが萎えたらしく、部屋に入ることを断念。
結局、部屋には私一人で入ることになった。

遺体痕は台所の床にあった。
遺体は白骨化していたと思われ、赤茶黒の粘液とウジの食べカスがオガクズのように盛り上がり人型を形成。
更には、頭があった部分には、頭髪・頭皮の一部が付着凝固。
ウジ・ハエの発生はとっくに峠を越え、室内で動いているのは時計と私くらい。
異臭も生々しいものではなく、カビ臭に似たものに変化。
一般の人には耐えられなくても、私には短時間なら専用マスクなしでも耐えられるレベルにまで緩和されていた。

遺体痕と異臭を除けば、室内は整然としていた。
男性の独り暮しにしては、きれいに片付いていた。
そして、片隅には金庫があった。
私は、女性に見せるために、部屋のあちこちをケータイで撮影。
そして、一通りの観察を終えると、身体に付着した異臭とともに玄関前で待つ女性のもとへ戻った。
そして、「見たくない」と言われた遺体痕画像を飛ばしながら撮ってきた画像を女性に見せ、部屋の状況を説明した。

財布・通帳・カード類など、あらかたの貴重品は警察が女性に渡していた。
そして、部屋に金庫があることも女性に知らせ、その鍵も渡していた。
ただ、肝心のダイヤル番号は不明。
金庫の中を確認したくても、手も足もでない状況だった。
しかし、女性は、どうしても金庫内を確認したいよう。
「何かいい方法はありませんかね・・・」
と、困惑した表情を浮かべながら、依りかかるような視線を私に送った。

仕事上、貴重品探しを手伝うことや代行することは珍しくないけど、それは物理的に明確なものばかり。
物理的に存在していれば、相当凝った隠し方をしていないかぎり探し出すことができる。
しかし、ダイヤル番号には“かたち”がない。
“記憶”という目に見えないかたちでも残せる。
それを探し当てるなんて至難の技。
もちろん、番号が記されたモノがどこかに残されている可能性もあったけど、私は、それを探す=雲をつかむような作業に躊躇を覚えた。
それでも、「乗りかかった船だから仕方ないか・・・難儀しそうだな・・・」と、場の流れに身を任せることにし、気が向かない雑用に身を向けることにした。

色々と思案する中で、私は、「ひょっとしたら、故人は開けるたびにダイヤルを合わせるのは面倒だから、常にダイヤルを合わせた状態にして、鍵を差すだけで開くようにしていたかもしれない」と考えた。
だとすると、番号をつきとめる手間が省ける。
だから、番号探しをやるかどうか決める前にまず鍵を差してみることを女性に提案。
すると、即座に女性も同意し、そのまま話を進めた。

ただ、私が女性から鍵を預かって差してみるのはやめた。
中には貴重品が入っている可能性もあるわけで、私が一人で開けて後で疑義が生じたら困るから。
だから、その作業は女性にやってもらうことに。
しかし、女性が凄惨な部屋に入るのは無理。
信義を担保するため私が丸裸になって金庫を開けるのも無理(違う犯罪になる)。
そこで、私は、金庫を女性が立ち入れる玄関まで移動させることにした。

しかし、そこで問題が。
金庫は、私のような普の男が一人で持ち上げるのは不可能なくらいの重量がある。
そもそも、簡単に運べないことが金庫の役割なわけで・・・
「さてさて、これをどうやって玄関まで運ぼうか・・・」
と、工程をシミュレーション。
一人作業が好きな私は、通常なら二人でやるような重荷の移動も一人でやることが多く、
ここでもその術を応用し、押入から一枚の毛布をだし、金庫の前に敷いた。
そして、
「ヨッコイショ!」
と、足腰と腕に力を入れて、その上に金庫を転がし乗せた。
そして、金庫を毛布の中央に寄せてから毛布を強く掴み、倒した状態のまま、「開かなかったら面倒だな・・・」と心配しながら玄関に向かってズルズルと引きずっていった。

玄関まで移動させると、ドアを開け、金庫を女性にみせた。
そして、横倒しを正規の座に直すため、脇に回った。
すると、金庫の底面に貼ってある一枚のメモが目に入った。
よく見ると、そこにはダイヤル番号らしき文字が。
そう・・・私の心配をよそにダイヤル番号はアッサリと見つかった。
同時に、面倒な作業を覚悟していた私は、プレッシャーから解放された安堵感も手伝って、女性にドヤ顔をしてしまった。

金庫には何が入っているかわからない。
貴重品は何も入っていない可能性もあれば、スゴイ財産が入っている可能性もある。
他人事ながら、私は、ちょっとドキドキしながら、ダイヤルを回す女性の手を見つめた。
女性も緊張していたのだろう、その手を微妙に震わせていた。
が、無事に開いた金庫に入っていたのは、部屋の権利書・印鑑など、我々のドキドキ感に反して至って無難なものだけだった。
それでも、女性は金庫の中が確認できたことに満足し、私に深々と頭を下げて礼を言ってくれた。


最終的に、女性は相続放棄を選択。
遺産を±すると、ほとんど0みたいなものだったらしい。
したがって、その後、私がこの部屋に行くことは二度となかった。
結局のところ、仕事(金)にはならなかったけど、損した気にはならなかった。
女性は、始めからその可能性があることを伝えてくれていたわけで、私は、それを承知のうえで動いたわけだから。

「“少しでもお金が入るなら”と思ってましたけど、ダメでした」
「色々とお世話になったのに・・・ごめんなさい」
女性は、私に仕事を依頼しないことを詫びた。
そして、
「来ていただいたときの手間賃は払いますけど・・・」
と言ってくれた。
が、私は、始めの約束を堅持し、その気持ちだけをもらって事を収めた。


遺産を巡って打算を働かせた女性だったが、私が同じ立場だったら同じようなことをしたはず。
だから、女性を非難する気持ちは沸かず、むしろ、私はその人間味に親しみを覚えた。
そして、タダ働きは会社からいい顔されないし、管理会社や近隣住民のことを思うと複雑な心持ちではあったけど、ちっとは人の役に立てたことに小満足できる自分に満足したのであった。


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ぬくもり

2015-01-06 16:38:01 | 遺品整理
2015謹賀新年。
昨日から仕事始めの人も多かったのだろう。
今回の年末年始は、9連休だった人も多かったみたい。
私の身近にも、そういう人はたくさんいた。
羨ましいのはもちろんだけど、反面、そんなに長い間休んでいて労働意欲は低下しないのか心配になる。
そういう人は、土日祝祭日の休みや有給休暇をはじめ、GW・盆・暮と長期休暇がとれるのは当り前のことで休暇慣れしているから、休み明けの仕事はそんなに億劫ではないのだろうか。
私の場合、例によって、相当な欝になりそう・・・イヤ、なるに決まっている。
だとすると、私に長期休暇がないことは、自分のためになっていることなのかもしれないと思える。

「欝」といえば、今のところ、前回の冬期に比べればだいぶマシ。
一年前は、あまりにキツい思いをしたものだから、その苦味はハッキリと記憶に刻まれている。
そうは言っても、やはり、今回も調子が悪いことは悪い。
布団を頭からスッポリかぶり、
「このまま朝がこなければいいのに・・・」
なんて幼稚な考えに、身体が押さえられる日もあったりして難儀している。
それでも、今冬、“動いてみる”というスタンスを得た私は、視覚を通して精神に訴えるため、スマホの裏面に“ネガティブ禁止”のステッカーを貼った。
そして、待受画面のチビ犬(生前からそのまま)ともども、自分を叱咤するツールのひとつにしている。

身体を動かすようにして二ヶ月弱。
何となくだけど効果あるように思う。
ジッとしたまま悶々していては螺旋階段を下っていくばかりのところ、身体を動かすことによって間違いなく気は紛れる。
無心になるところまではいかないけど、余計な思い煩いは鳴りを潜める
だから、この策は、できるかぎり継続していきたいと思っている。

その一環として、快晴の先日、再び鋸山に出かけた。
マイナーな山だから年始でも混まなさそうだったし、登り降りの時間が比較的短くて済むから。
そうは言っても、素人の私にとっては簡単に登ってこれる山ではない。
登山客が少ない分、登山道はたいして整備されておらず、
「これでよくケガ人がでないもんだな・・・」
と思ってしまうような難所(大袈裟だけど)も結構ある。
また、私が好きなコースは、うっそうと茂る森林(薄暗い)をぬかるんだ細い道を歩くわけで、ちょっと恐いような不気味な雰囲気もある。
したがって、心身ともに、それなりの登り応えがあるのだ。

何とか登りきり、山頂手前の平坦な道を進んでいると、反対から歩いてきた年配の男女(おそらく夫婦)が声をかけてきた。
「ちょっとすいません・・・浜金谷駅からですか?」
「そうです・・・浜金谷からきました」
「保田駅の方に行きたいんですけど、この道で合ってますか?」
「え~っと・・・保田駅はですねぇ・・・」
と言いながら、保田駅の一駅隣の浜金谷駅からきた私は、麓の案内所で手に入れたガイドマップをポケットから出し、二人の前に広げた。
そして、現在地から自分が歩いてきた道=二人が進むべき道に指を伝わせ、保田駅方面に行くルートの分岐点で指をとめ、
「このまま道なりに進んで、この分岐点で保田駅方面に折れて下さい」
と、ただマップが教えてくれただけのルートを自分の知識であるかのように伝えた。
そして、
「この先はわかってるんで、よかったらコレ差し上げますよ」
と、タダで手に入れたマップを買ったモノのように二人に差し出した。
すると、二人は、
「ご親切に・・・どうもありがとうございます!」
と、高価なモノでももらったかのように喜んで礼を言ってくれた。
一方の私も、些細な親切だったけど、春風が吹いたかのように心があたたかくなったのだった。


ある年の冬。
その日も今日の東京のように朝から曇り、そのうちに雨が降りだし、外はかなり冷え込んでいた。
約束の時間より一時間余も前に到着した私は、現場家屋が建つ敷地に車を入れ、近所迷惑になるのでエンジンを止めた。
そして、約束の時間がくるのを待つことにして、助手席に放り投げていた上着を着込んだ。
そうして数分たっただろうか、同じ敷地に建つ一軒屋から高齢の女性がでてきた。
見慣れない車がとまっているのが気になったのか、女性は玄関先で傘を広げたかと思うと、そのまま私の方へ歩み寄ってきた。
そして、私に声をかけてきた。

「○○さん(故人)とこの片付けの方?」
「そうですけど・・・△△さん(遺族)に頼まれてきたんですけど、時間があるんでここで待たせてもらってるんです」
「今日来られるのは△△さんから聞いてますので・・・寒い中、御苦労様です」
「あ!大家さんですか?」
「ええ・・・ここの大家です」
「そうですか・・・よろしくお願いします」
「ところで、△△さんは?」
「11時の約束ですから、そのうち来られると思いますけど・・・」
「11時ですか・・・まだ一時間もありますね」
「はい・・・」
「ここじゃ寒いから、うちに入って下さいよ」
「え・・・でも・・・」
人生の先輩の話を聞くのは嫌いじゃない私だけど、女性と私は初対面。
高齢とはいえ女性の家にどこの馬の骨ともわからない者が上がり込むことが不躾なことのように思えた私は、その辺にあったテキトーな書類を手に取り、
「ちょっと、書き物をしなければならないものですから・・・」
と、その心遣いだけをありがたくいただき、女性宅に上がることをやんわりと断った。

少しすると、一度は家に戻った女性が再びでてきた。
「まだ何か用があるのかな?」
と思った私は、女性の姿に視線を追った。
が、女性は私の方へは目もくれず、そのまま表の道路に消えていった。

しばらくすると、女性は、片手に傘、片手にビニール袋を持って戻ってきた。
そして、そのまま私のほうへ近づき、
「どうぞ・・・これで少しはあったまるでしょ」
と、開けた窓から温かいお茶とコーヒーを差し入れてくれた。
女性は、寒空の下、冷雨の中、わざわざ遠くのコンビニまで行き、私のためにホットドリンクを買ってきてくれたのだった。
「え!?すいません!ありがとうございます!いただきま~す!」
私は恐縮至極で、劇団役者級のハイテンションで礼を言った。
そして、一人待つ寒冷の車中で、
「いい人だなぁ・・・」
と、そのホットドリンクで身体と心をあたためたのだった。

遺族の男性は故人の弟で、約束の時刻の少し前に現れた。
接してて気持ちのいい紳士で、
「寒い中、お待たせして申し訳ありません」
と、約束の時間に遅れたわけでもないのに、私に頭を下げた。
「と、とんでもないです!・・・私の方が勝手に早くきただけですから・・・」
恐縮した私は、これまた劇団役者級のオーバーリアクションで頭を下げ返した。

我々の話し声が聞こえたのか、呼びに行く前に女性も家からでてきた。
男性と女性は既に顔見知りのようで、
「兄が長いことお世話になりまして・・・ありがとうございました」
「いえいえ・・・こちらこそ助けてもらうことばかりで・・・」
と、互いに深々とお辞儀。
そして、故人の部屋に入り、故人を偲びつつ家財処分の打ち合わせを始めた。

ケガなのか病気なのかわからないけど、故人は若い頃、不慮の出来事で障害を抱えたよう。
そして、その直後から、この借家に一人で暮し始めた。
「結婚するつもりも家を持つつもりもない」
障害がネックになったのか、故人は若いうちからそう言っていた。
そうして、生涯独身を通した。
それでも故人は、身内にも大家にも投げやりな態度をとることはなかった。
仕事もマジメに、回りの人にも親切に、慎ましいながらも平和な生活を送った。

この家屋は借家で、木造平屋の老朽家屋。
二世帯が入れる長屋造で、片側の一軒には故人が、もう一軒には高齢の女性が独居。
間取りは小さく、お世辞にも住み心地がよさそうな家には見えなかった。
が、故人は、そこに三十数年も居住。
家賃を滞らせたことはもちろん、回りに迷惑をかけるようなこともなく、それどころか、自分には責任のない共用部分の修繕や敷地の清掃・草取り、植木や花の手入れなど率先してやっていた。
時には、女手しかない大家宅や隣家の大工仕事や力仕事も買って出ていた。
しかし、そんな故人も病には勝てず。
晩年は入退院を繰り返すようになり、日に日に痩せ細り、先が長くなさそうなのは誰の目にも明らかなくらいにまで衰弱していった。
そして、寒い冬を迎え、男性家族に見守られながら静かに逝ったのだった。

小さな庭には、大小いくつもの鉢植があった。
それは、生前の故人が育て手入れしていた鉢植。
ただ、もうそれらの持ち主も手入れをする人もいなくなったわけで、
「これも処分しますか?」
と、男性に問うと、
「そうですね・・・お願いします・・・兄のモノはきれいに片付けないといけませんから・・・」
と、男性は故人に申し訳なさそうにした。
すると、それを聞いていた女性が、
「これ・・・○○さんが大事にしてたんですよね・・・そのままにしておいて下さい・・・あたたかくなったらまた花を咲かせるでしょうから・・・」
と、故人に対する優しさをみせ、悲哀の場をあたためてくれたのだった。

死ねば体温は失われる。
しかし、心温は人から人へ伝わり残っていくもの。
世間には、時折、モノ凄く冷たい風が吹くときがある。
しかし、知らず知らずのうちに、人のぬくもりに守られているときがある。
そして、知らず知らずのうちに、人にぬくもりを与えようとする本能が動くときがある。
それが、人を、そして自分をあたためる。

「ホントにいい方でした・・・ホントに・・・」
女性は、何度もそう繰り返し、溢れる涙を袖で拭った。
「そう言っていただけて・・・いい人生だったはずです・・・」
男性は、寂しげな眼をしながらも顔に笑みを浮かべた。

その後、故人が残した樹は、人と春夏のぬくもりの中できれいな花を咲かせただろう・・・
また、それは、それを愛でる女性にぬくもりを与えたことだろう・・・
そして、それを想う私にも、人のぬくもりを感じさせてくれるのである。




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生きる側

2014-12-02 14:47:04 | 遺品整理
暦は、もう師走。
今年も残すところ一ヵ月。
「過ぎてみるとはやいな・・・」
いつもそう思う。

チビ犬がいなくなって、ちょうど三週間。
「寿命だった・・・」「天寿をまっとうした・・・」
と自分に言いきかせている。
ただ・・・やはり寂しい・・・
夢でもいいから、幽霊でもいいから、目の前に現れてほしいと思ってしまう。

毎日、チビ犬のことを思い出す。
まだ、思い出さない日はない。
でも、号泣することはなくなった。
(当日とその後の三日間は、恥ずかしいくらい大泣してしまった・・・)
傷心は少しずつ癒えているのか、それとも、時間によってそのかたちを変えているのか、自分でもわからないけど、
「このままだとツラ過ぎる・・・マズイ・・・」
と、自分で自分を心配していたから、落ち着きを取り戻しつつある状況に安堵している。

今現在、人間の家族は健在で死別者はなし。
また、これまで、祖父母・叔父叔母・友人・知人が亡くなったことはあったが、これほどの喪失感や悲しみはなかった。
薄情なようだけど、涙がでたのは、何年か前に母方の祖母が亡くなったときくらい。
それでも、その悲しみは、今回に比べたら桁違いに軽かった。

私は、死業に携わって23年目になる。
これまで、数え切れない遺体や遺族・関係者と関わってきた。
その場かぎりの薄っぺらいものながら、故人や遺族に同情心を抱いたことも数多い。
自己中心的な感傷と区別しにくいものながら、他人の死に悲しみを抱いたことも何度もある。

それでも、
「自分は、故人や遺族の気持ちを理解できている」
なんて、勘違いはしてこなかったつもり。
悲哀の中にあっても、心のどこかで
「他人の気持ちを100%理解できるわけはない」
と、独り善がりが大好きな自分に警告を発していた。
それでも、とにかく、死業に携わる者として、生きる側に立つ者として、金銭以外の糧を得たいと思ってきた。

私は、チビ犬との死別によって、大きな喪失感と悲しみに襲われている。
「犬と人間を一緒にするな!」
と叱られてしまうかもしれないが、これは、ある意味でいい経験(勉強)になっている。
仕事を通して出会う人達が味わっている、死別の苦しみと悲しみが、これまでとは違う次元で受けとめられるような気がするから。
そして、これが人間(自分)を少しでも大きくしてくれるような気がするから。



「遺品の処分をしてほしい」
そんな依頼が入った。
依頼者は中年の男性。
現場は、街中に建つ古い賃貸マンション。
私が到着したときは、男性は既に部屋にいた。
そして、玄関をくぐった私にスリッパをだしてくれた。

部屋は、一般的な1R。
決して広くはない部屋には、家財生活用品が一式。
ただ、その整理はかなり進んでおり、家具家電や大きな荷物を除き、他のものはほとんどダンボール箱やゴミ袋に梱包されていた。
それでも、家財全部を見落としなく確認する必要があった私は、室内はもちろん、キッチン棚やクローゼットの中、ベランダに物がないか見分。
そして、ユニットバスの扉も開けた。

「ん?」
浴室には、かすかな硫黄臭。
「硫化水素?・・・」
それまでの経験から、それである可能性が極めて高いことを察知。
「自殺・・・」
私の脳裏には、それがすぐに過ぎった。

私は、自分の想像を確かめるため、イヤな臭いのする浴室に足を踏み入れ、細かな部分に目をやった。
扉とその枠には、扉を強引にコジ開けたような傷・・・
そして、天井の点検口、排水口、扉枠の内側には、所々、粘着テープの糊が付着・・・
現場の状況は、私の想像を覆すどころか、固めていくばかりだった。

私は、死因を尋ねようかどうしようか迷った。
ただ、故人の死因は、家財の片付けに影響するものではない。
ということは、私が知る必要のないこと。
知ろうとしたところで、ただの野次馬に成り下がるだけ。
知ったところで、ただ野次馬が満足するだけ。
思案の結果、私は、何も気づかないフリをすることにして、事務的に室内の観察を進めた。

想像の域は越えないが・・・
部屋にある品々から推察すると、故人は男性で歳はまだ若い・・・
亡くなったのは、男性の息子。
浴室は、わずかな硫黄臭とテープ糊が残留・・・
死因は、硫化水素を使っての自殺。
バス用品も全て片付けられており、軽く掃除した形跡があり・・・
消防が中和した後、男性が、掃除したものと思われた。

見分をすすめる中で、色々な想像が頭を廻り、私の気分はわずかに落ちていった。
が、一方の男性はいたって平静。
それどころか、サバサバと明るい雰囲気。
しかし、それはあまりに不自然で、男性が意識してそうしていることがハッキリと読み取れた。

部屋には、一人では持ち上げられない家具家電がいくつかあったため、スタッフ二人でやるくらいの作業量はあった。
ただ、男性は、運び出す作業を手伝ってくれるという。
作業員が少なく済めば、それだけ費用を抑えることができるだが、男性の動機はそこにはない様子。
費用はともかく、とにかく、作業を一緒にやりたいよう。
なんとなく男性の気持ちが察せられた私は、
「この階段、楽じゃないですよ」
と前置きし、一人分の作業費を値引きして商談を成立させた。


作業の日、私より先に男性は部屋に来ていた。
マンションにエレベーターはなし。
四階から階段をつかって荷物を下ろす作業はなかなか楽なものではなかったが、労働で汗をかくのはなかなか気持ちがいいこと。
男性は、一人で持ち運べないモノだけ手伝ってくれる約束だったのに、細かなものの搬出まで一緒にやってくれた。
何かのとりつかれたように、荷物を抱え、汗ダクになりながら黙々と階段を昇降する男性の姿は、死別の悲しみを振り払おうとしているように、また、涙を汗にかえて流そうとしているように見え、私に勇気のようなものを与えてくれた。

しばらくすると部屋は空になったが、やはり、浴室には硫黄臭が残留。
私は、作業の仕上げに、浴室に消臭消毒剤を噴霧した。
「それは?」
それを見ていた男性は、私に訊いた。
「消臭消毒剤です」
私は、そのままのことを返答。
すると、男性は、
「そうですか・・・」
とだけ言い、少し気マズそうにしながら、その顔を曇らせた。

作業前も作業中も作業後も、私は、男性に故人について何も訊かなかった。
また、男性も何も話さなかった。
ただ、明るかった。明るく努めていた。
その様からは、「故人(息子?)の名誉を守りたい」「死を受け入れたくない」「自殺を認めたくない」という親心と、寂しさ・悲しさ・喪失感と戦って生きていかざるを得ない男性の宿命・・・生きる側に立つ者の苦悩がみえ、私は、他人事とは思えない緊張感を覚えた。


それまで、当り前のように存在していた大切な人が突然いなくなる・・・
仕方がないと諦められる人
悔やんでも悔やみきれない人
悲しみの中にも安堵感みたいなものを感じる人
いつまでも悲しみから脱け出せない人
残された人は、色々な心情を抱くのだろう。

悲哀の感情に襲われることは、生きる側に立つ者の宿命。
しかし、失うことばかりではない。
そこから得られるものはある。
「苦しんだ分だけ幸せはくる」
なんて安易なことは言えないけど、苦しみや悲しみは時間とともにその姿を変え、それが生きるための指針なることはある。

私は、チビ犬を失った。
肉体はなくなったけど、その魂は、私の心に入った。
そして、それは、これから心の羅針盤となって、生きる側に立つ私の道を指し示してくれるのだろうと思っている。



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活き生き

2014-06-13 14:23:50 | 遺品整理
暑くなってきた。
晴天の日は真夏同然。
本番はこれからというのに、すでに活気を失いつつある。
(ま、もともと活気のある人間じゃないけど・・・)
何でもかんでも歳のせいにして、自分の精神力のなさをごまかしているけど、やはり、キツいときはキツいし、ツラいときはツラい。
しかし、そんなときにこそ精神に活力を漲らせるチャンスがあるのかもしれない。
だから、今日もまた、重い日常に立ち上がることができるのかもしれない。


「就活」という言葉が世に出て久しい。
就職氷河期に対する言葉として使われることが多く、学生にとっては、明るいニュアンスのある言葉ではないだろう。
厳しい経済情勢が就職難を引き起こしているのは、誰の目にも明白。
希望の仕事に就けるのは一部の学生のよう。
私の時代には、今に言う「就活」という言葉はなかった(もちろん「就職活動」という言葉はあった)。
今と比べると、学生にとっては恵まれた時代だったからだろうか。
なのに、就いたのはこの職業。
普通ならなかなか見つけることができないレアな仕事を見つけた自分を、褒めていいのか貶していいのか、その扱いに困る。

「婚活」という言葉も、世の中に定着している。
今、世の中、結婚難なのかどうかわからない。
生涯未婚率は、男が約20%、女性が約10%らしい。
この数値は、“草食男子”“肉食女子”を表しているようで、男性の結婚欲は弱く、女性の結婚欲は強いことがうかがえる。
その一因もまた、厳しい経済情勢のあると思う。
家族を養うどころか、自分一人が食べていくのがやっとだったりするわけで、男性は、結婚して家庭を持つための生活能力を育みようがなくなっている。
これまでは“縁”で結ばれていた男女が、昨今は、“\”で結ばれるようになっているのか・・・
この時勢にあって “結婚=生活保障”と打算する女性が多ければ、結婚が成立しにくいのもうなずける。

「終活」という言葉もある。
言い換えると“死に支度”。
これが世の中に出回るようになって2~3年経つだろうか。
近年は、「遺言ノート」「エンディングノート」といったものも、出回るようになっている。
たまにだけど、私も、終活セミナーや勉強会の類に招かれることがある。
そういう場に集まってくるのは、ほとんど高齢者。
現役を退いた70代以降の人が多く、死を自分の問題として捉えている。
そして、残された時間を充実させようとしている。

そういう人達が考えようとしているのは、葬儀、墓、遺産の行方、遺品の処分。
そして、残された人にできるかぎり迷惑をかけないようにすること、残された人の負担をできるかぎり少なくすることを志向している。
孤独死を心配する人もいるけど、これは多くはない。
発見が遅れて身体が腐乱してしまうことを心配する人もあまりいない。
放置された身体の変容を認識している人は、もっと少ない。

「死を考えるなんて縁起でもない」
「そんな後ろ向きな生き方はしたくない」
一時代前は、そういった風潮があったように思う。
しかし、昨今はそれも変わってきた。
自分の死を考えて、それに備えることは賢明なことと捉えられるに。
また、それが、生きることに活力を与えると理解されるようにもなってきた。

しかし、生活にある程度の余裕がないと、それもできない。
経済的・時間的な余裕だけでなく、精神的・肉体的な余裕も。
生活に余裕がなく、生活に追われる日々においては、終活にまで頭が回らないのが現実。
それでも、死は必ずやってくる。
結果、残された人々はバタつくことになるのだ。



「遺品処理と特殊清掃の見積りがほしい」
そんな依頼が入った。
電話の向こうは、比較的若い声の女性。
私は、女性の身辺で死が発生したことを推測。
「どなたかお亡くなりになったんですか?」
と、ありきたりの質問を投げかけた。
すると、
「いえ、誰かが亡くなったわけではなく・・・」
と、意外な言葉が返ってきた。
そして、
「自分が死んだときのことを考えて準備をしておきたいと思いまして・・・」
と言葉を続けた。

声から推察される女性の年齢は30代~40代。
「まだ若いのに、終活なんて、ちょっと変だな・・・」
「自殺でも考えてるんだろうか・・・」
「それとも、重い病気にかかってるのか?」
私には、それがただの終活だとは思えず、また、女性にとって重要なことを電話で済ませるのは失礼なことのように思えたので、女性の希望に応じて女性宅を訪問することを約束した。


訪問したのは、少し古いアパート。
約束の時間ピッタリに訪問すると、女性はすぐに玄関からでてきた。
外見年齢は、思っていた通り、30代半ばくらい。
ただ、初対面の女性に年齢を訊くのは失礼。
もちろん、「自殺を考えてます?」なんて訊けるはずもなければ、「重病にかかってます?」なんてことも訊きにくい。
今回、私を呼ぶに至った経緯を聴けば、その辺の事情は自ずと明らかになると思い、促されるまま玄関のドアをくぐった。

女性には、身寄りらしい身寄りはおらず、血縁者だけでみると天涯孤独な身の上。
両親は、女性が幼い頃に離婚。
そして、二人とも親として義務も責任も放棄。
幼い頃から、親らしいことは何もせず。
したがって、その親子関係は、時が経てば経つほど希薄なものに。
その生存は把握していたものの、何年も音信不通。
「もう親とは思っていない」「親とは関わりたくない」といった具合だった。

そんな両親だったものだから、女性は、数年前に亡くなった祖父母によって育てられた。
祖父母は、老齢ながらも親代わりとなってよく面倒をみてくれた。
しかし、年金暮らしで生活に余裕はなし。
他所の子のように、金を学歴に換えることはできず。
それでも、女性は努力して資格を取得。
それが就活の役に立ち、女性は正業を得、自分一人に生活をキチンと成り立たせていた。

天涯孤独であっても、後から家族をつくることはできる。
しかし、女性に結婚の予定はなさそう。
どうも、そのつもりもなさそうだった。
もちろん、それを訊いたわけではない。
野暮でKYな私でも、さすがにそれは訊かない。
進む会話の中からそれが察せられたのだ。
しかし、縁の問題はあっても、その他、女性に結婚できない事情があるようには思えず。
婚活して、いい出会いがあれば、将来、家庭や子供を持つ可能性も充分にありそうだった。
が、女心をつついて薮蛇がでてきたら困るので、私は、お節介じみたことを言うのはやめておいた。

そんな女性が、ある時、体調を崩した。
急に高熱がでて、ベッドから起き上がれなくなった。
一人暮らしで、助けてくれる人も、その状況に気づいてくれる人もおらず。
電話を手に取るのもやっとの状態で、とりあえず、勤務先に欠勤する旨を連絡。
次に、119番をしたのだった。

救急車が到着するまで、しばらくの時間があった。
原因不明の高熱と、起き上がることさえできない倦怠感に苛まれながら、
「このまま死んでしまうのかな・・・」
と、それまでに抱いたことにない不安が脳裏を過ぎった。
女性は、死に対する恐怖感もさることながら、何の準備もなく無責任に死んでしまうことへの罪悪感も強く感じたのだった。

女性は、それまで大病を患ったこともなく、自分では若く健康なつもりでいた。
また、女一人で生きていくことに精一杯で、それまでは、自分が死ぬことなんか微塵も考えたことがなかった。
それが、死を身近に感じる経験をしたことで一変。
他人に迷惑をかけないことを信条として生きてきた女性にとって、「遺族」と呼べる人を持たない女性にとって、不慮に訪れる死は大問題となった。

孤独死現場の処理を生業とする私に、何かを期待するように、女性は、積極的に色々なことを訊いてきた。
そして、女性は、上辺だけのスマートな話ではなく、グロテスクでも現実の話を聞きたがっていることが明らかだったので、私も、できるかぎり率直な返答を心がけた。
孤独死の事例、時間経過で遺体は腐ること、腐敗するとどうなるか等々、自分の所感も併せてリアルな話を女性に聞かせた。
女性も、私の話を真剣な面持ちで聞いてくれ、ただの野次馬では出せない類のことを訊いてきた。
そうして意見を交わしていく中で、我々は、死に支度についていくつかの結論を得たのだった。


死は他人事ではない
いつ訪れるか、わからない。
死に備えることは、生き方を見直すことにつながる。
意義のあることだと思う。
ただ、楽しく生きることを志向することも同じように大切。
人は、死ぬために生きるのではないのだから。

あれから、どれほどの年月が経つだろうか・・・
女性から連絡もないし、私から連絡する筋合いのものでもないから、今現在、女性がどうしているかはわからない。
ただ、死に備える活力を、楽しく生きる方向にも向けていてほしいと思う。
そして、親の愛には恵まれなかったかもしれないけど、一人の女性として、一人の人間として、「生まれてきてよかった」と思えるように、活き活きと生きてほしいと思うのである。



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穴埋め

2014-01-20 08:36:34 | 遺品整理
遺品処理の依頼が入った。
依頼者は、中年の女性。
亡くなったのは、女性の母親。
現場は、古くて小さめのマンション。
もう長く誰も住んでいない部屋なのに、そういった雰囲気はなし。
リアルな生活感こそないものの、それなりの生活感が残っていた。

部屋は、女性が故人から相続したもので、賃貸物件でなし。
したがって、家賃もなければ退去期日もなし。
リスクといえば、維持費や税金、築年数が増える分の不動産価値の下落だけ。
退去するもしないも、売却するもしないも、女性の自己裁量で自由にできる物件だった。

女性の住まいは、現場から目と鼻の先。
現場までは歩いて往来できる距離で、女性は、故人のもとを頻繁に訪れていた。
故人は晩年も足腰は達者で、大きな不自由もなく一人暮らしを続けていた。
が、女性は、一人で暮らす母親のことが心配で、こまめに世話を焼いていた。

女性は、そんな暮らしが永遠に続くとは思っていなかった。
それでも、母親に対して、いつまでも元気でいてほしいという願いはやまなかった。
しかし、自然の摂理に逆らえる者はいない。
愛する母親は、晩春のある日、長寿をまっとうして先に逝ったのだった。

女性は、故人が残していった遺品一つ一つを自分で確かめたかった。
また、他人の手で無情に捨てられるのも抵抗があったため、女性は、細かいものの片付けは自分の手でやろうと考えた。
そこで、「四十九日過ぎたら始めよう」と作業開始時期を決定し、それまでに気持ちが落ち着かせようとした。
しかし、そんな期待に反して、四十九日が過ぎても遺品を片付ける気は起きず。
何もできないまましばらくの日が過ぎ、結局、「涼しくなってからやればいい」と、開始時期を秋まで延ばした。
しかし、秋という季節は、寂しさを一層強いものにし、片付ける気は失せる一方。
季節が冬に代わる頃になると「暖かくなってからやればいいか・・・」と、再び延期に。
それを何度か繰り返し、結局、二年の月日が経過したのだった。

楽しい気分で葬式をだしたり、遺品を処分できる人は少ないと思う。
大方の人は、悲しみや寂しさを覚えるものと思う。
大切な人と別れたわけだから、それは自然な感情であり、ある意味で正常な感情でもある。
しかし、度を越すと、自分の中で違和感がでてくる。
更には、それが、いつまでもそれを引きずって生きていきたくないという気持ちと対立し、
嫌悪感のようなものを覚えるようになってくる。
この女性もそうで、その喪失感はかなり深刻なよう。
そして、それが、自分に妙なストレスを与えているようだった。

「“ポッカリと心に穴が開いたよう”ってよく言われますけど、ホントにそんな感じで・・・」
「寂しくてたまらないんです・・・」
「もう二年も経つのに・・・」
「いい歳して、おかしいでしょ?」
女性は、疲れたようにそう言った。
しかし、私は“おかしい”なんて少しも思わなかった。
親を慕い想う気持ちに年齢は関係ない。
いくつになっても、親は親、子は子。
共に生きた月日と注ぎあった愛情は確かにあり、色が変わることはあっても褪せることはない。

だからこそ、故人が使っていた遺品を捨てるのは、なかなかの力がいる。
単なる腕力・労力だけではなく、そこには、心の力も必要。
遺品のほとんどは遺族の実生活には必要のないものだけど、中には心が必要とするものもある。
それを処分するわけだから、それなりの心力が必要なのだ。
それでも、目に見えるモノは処分していかないと、それは生活の重荷になり、厄介の種になる。

それとは違い、“想い出”というものは、いくら残しておいてもいい。
細かいことをいちいち記憶しておくことはできないけど、自分の記憶力が許す範囲においては、想い出は、自分の好きなだけとっておくことができる。
自分の心(頭)の中にしまっておけるものだから、それが物理的に生活の邪魔をすることもない。
だから、想い出は、好きなだけとっておけばいいと思うし、好きなだけとっておいていいものだと思う。

必要なのは、“遺品を処分することは想い出を捨てることではない” “喪失感や悲嘆を拭うことは故人を忘れることではない”ということを理解すること。
大切なのは、故人との過去を笑顔の想い出に変えること。
そして、そのプロセスによって、心の穴を埋めること。
遺品を片付けたくらいで心の穴がすぐに埋まるとは思えないけど、私は、その一歩を踏み出すことによって、女性の心の細胞が回復へと動き出すのではないかと思った。


今、私の両親は、ともに70代。
歳も歳だから、身体に不具合はあるだろうけど、今も健在。
だから、親を亡くしたときの気持ちは、想像することくらいしかできない。

父親は、大病なく健康。
だが、何分にも高齢。
健康のために、何年も前から好物の酒もやめて(控えて?)いる。
それより少し若い母親は何年も前から糖尿病を患い、肺癌もやった。
肺癌は、手術をしてから5年余が経つ。
治療成績が悪い癌の代表格とされる肺癌ながら、今のところ、癌細胞もおとなしくしている模様。
入院することもなく、定期健診でここまできている。
しかし、何となく再発の兆しはあるよう。
ただ、母は正確なところを話したがらない。
精神の浮き沈みにのまれながらも、とにかく、人に自分の弱みを見せたくないらしい。
急場にいるわけでもなさそうだから、本人の意思を尊重して、余計なことは訊かないようにしている。

とっくに引退しているけど、現役の頃の父親は、ずっとサラリーマン。
大方の父親がそうであるように、身を粉にして働き、家族を養ってくれた。
しかし、収入は限られており、極貧ではなかったものの裕福でもなかった。
「中流の中の下流」と言えばシックリくる感じ。
そのため、母親が専業主婦をやっていた時期は短く、ほとんど両親共働き。
「子供に、自分達と同じような苦労はさせまい」と、教育にお金をつぎ込んでくれた。
労苦に苦労を重ね、質素に倹約を重ねて幸せの基礎をつろうとしてくれた。
ちゃんとした教育を受けさせ、ちゃんとした仕事に就かせ、大金持ちにはなれなくても社会的にも経済的にも安定した幸せな人生を子に歩ませたかったのだろうと思う。
ところがどうだ・・・
親の期待や希望なんて、そっちのけ。
人生の先輩としての訓戒に耳も貸さず、将来のことを真剣に考える頭も持たず。
生意気なことばかりほざき、“その時々が楽しければそれでいい”みたいな生き方をして今日に至っている。

子を養育することも、親の責任であり義務であったりする。
しかし、育ててもらった恩義はある。
私は、子として、人として、その恩の対する、また、その恩を返せない不義に対する穴埋めをしなければならない。
苦労している姿を目の当たりにしてきたのだから尚更。
しかし、まったくそれができていない。
親孝行なんて何もできていない。
思い返すと、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

そういう気持ちがありながらも、親子関係はずっと疎遠なまま。
過去には、親に、嫌な思いをさせられなり傷つけられたりしたこともある(その原因が自分にあったことも多いのだが)。
迷惑もたくさんかけた。
子供の頃から色々なことで確執が生じ、特に、母親とは幾度となく激しく衝突した。
その昔、2~3年、音信不通の時期もあった。
今は音信不通ではないけど、年に2~3度電話で話すくらいで、顔を合わせることは滅多にない。
“自分が生活していくことで精一杯”という現実と、ある種の禍根が混ざり合って、現状が続いている。

それでも、親との想い出はたくさんある。
特に、子供の頃の想い出は。
悪い想い出もあるけど、笑顔の想い出もたくさんある。
人生において、“笑顔の想い出”は大きな宝物。
その宝物を掘り返しては、懐かしんだり、笑ったり、反省・後悔したり、今の自分を励ましたりする。

このまま、親が逝ってしまったら、私は何を思うだろう・・・
別れに涙を流すだろうか・・・
想い出に笑みを浮かべるだろうか・・・
そんなことを考えると、やはり、子供の頃の笑顔の想い出が甦ってくる。
そして、心が、やわらかなあたたかみを帯びる。
更に、それは、この私が幸せに生きることが、親への不義の穴埋めになるのかもしれないことを教えてくれるのである。



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Merry Christmas

2013-12-25 16:43:44 | 遺品整理
イヴの昨夜は、パーティーを楽しんだ人が多いのではないだろうか。
しかし、日本はキリスト教国ではない。
「キリスト教徒は100人に1人、またはそれ以下」とも言われる。
なのに、12月はクリスマスムード一色。
まるで、ほとんどの人がキリスト教徒であるかのように、「メリークリスマス!」と歓喜し、笑顔をふりまく。
正月は神式、葬儀は仏式、結婚式はキリスト教式等々、この節操を欠く無信心ぶりは、何ともおかしい。
それでも、クリスマスには、多くの人に幸せな時間が与えられるわけで、これもキリスト・イエスのお陰。
少なくとも、これくらいのことは覚えたいものである。

私は、例年通り、昨夜は静かに過ごした。
クリスマスケーキもなければ御馳走もなし。
夕飯はカレーにし、好物の酒も飲まなかった。
私にとってクリスマスイヴは、気分を騒がしくさせるものではない。
だからと言って、暗い気分で寂しくいたわけではない。
私なりに、幸せ気分を味わいながら、また、色んなことに感謝しながら過ごしたのである。


ある年の12月上旬、遺品処理の依頼が入った。
電話の向こうの声は、初老の男性。
落ち着いた話し方と丁寧な言葉遣いは、男性がそれなりの紳士であることを想像させた。

遺品の持ち主は、同居していた男性の母親。
葬式を終えて間もないようだった、男性は「クリスマスまでには片付けたい」と要望。
「年内中に片付けたい」という要望はよくあるけど、「クリスマスまで」というのはちょっと珍しい。
私は、「その辺のところに一事情あるかも」と思いながらも、「その辺の事情は会ったときにわかるだろう」と思い、男性と現地調査の日時を打ち合わせた。

訪問した御宅は、閑静な住宅街に建つ一戸建。
豪邸というほどの建物ではなかったが、「洋風」というより「洋館」といった方がしっくりくるような造りで、周囲の一般的な家とは一線を隔していた。
その特徴を更に際立たせていたのは、クリスマスの飾りつけ。
玄関にリースをつけたり、外構にちょっとしたイルミネーションを飾ったりしている家はよく見かけるけど、この家は、その次元ではなかった。
塀や門扉はもちろん、植木の下から上に至るまで、飾りがビッシリ。
そこには、葬儀をだして間もない寂しい雰囲気はなく、「家を間違ったか?」と思ってしまうほどだった。
私は、表示された番地が教えられていたものと違っていないか、また、表札が依頼者の名前かどうか、何度も確認。
その上で、インターフォンを押した。

やはり、その家は、依頼者の家に間違いなかった。
そして、依頼者の男性はすぐに玄関からでてきた。
想像のとおりの紳士。
電話と変わらず穏やかな物腰で、言葉も丁寧。
とても好感の持てる人物だった。

家に入らせてもらうと、そこにもまた外に負けないくらいの飾りつけがほどこしてあった。
目を見張るほどのそれらに何もコメントしないのは不自然なことのように思えた私だったが、近い過去に人が亡くなった家につき、それを口にする善し悪しを判断できず。
「すごい飾りつけですね」と言いたい気持ちを抑えて、とりあえず、男性の後をついて家の奥へ進んだ。

処分する遺品のほとんどは、故人の部屋に置いてあった。
故人が生きていたとき、そのままの状態で。
そこには、書籍・衣類・家具・調度品等々、長寿を表すかのように多くの家財が残されていた。
ただ、その部屋だけはクリスマスの装飾が一切なし。
それは、12月を迎える前に、故人がこの家からいなくなったことを物語っていた。

「自分達では片付けることができなくて・・・」
と、男性は、自分に言い訳をするように言った。
それは、単に、“片付けるための腕力や労力が不足しているせい”というだけではなく、“目に見える思い出を捨てるための心力も不足しているせい”ということを言っているようにも聞こえた。

遺品の種類や量によって作業内容と料金が決まる。
したがって、家中のあちこちに対象遺品が分散していると見積作成に時間がかかるのだが、この家の対象遺品はほとんど一部屋にまとまっており、見積をつくるのにそんな長い時間は要さず。
私は、テキパキと見分を済ませ、男性に作業内容と料金の説明。
そして、契約が成立し、作業の段取りを組んだところで退散する用意に入った。
すると、
「せっかくだから、お茶でも飲んでいって下さい」
と、男性は、私を引き止めた。
「時間がないから」と遠慮することもできたのだが、私は、死を目近にした人の話に無駄話は少ないこと、そして、それが自分の糧になることが多いことを知っていた。
また、理由もないのに断ることが失礼なことのようにも思えたため、ソファーから上げかけた腰を再び下ろした。

男性一家は、キリスト教徒。
家の飾り付けが凝っているのは、そのせいもあるよう。
飾りを始めたのは、この家を建てて最初のクリスマスから。
当初はツリーとリースといくつかの置物を置く程度。
それでも、それらは、家族の日常にささやかな幸せをもたらした。
やがて、12月の飾りつけ作業は男性一家の恒例行事に。
飾り物やイルミネーションは、毎年、買い増され、年々その規模は大きくなっていった。

故人も、それを喜んだ。
そして、自分の部屋もおおいに飾りつけた。
しかし、それは、前年までのこと。
何分にも高齢だった故人は、この年の晩秋に体調を崩して入院。
そして、季節が晩秋から初冬に移り変わる頃、眠るように息を引きとった。
聖書を片手に100年近い紆余曲折を乗り越えた末の召天だった。

「悲しいけど悲しむことではない」
「寂しいけど寂しがることではない」
「母は天国に行ったのだから」
男性は、そういって笑顔をみせた。
そう言いながらも、人は弱いもの。
故人の遺品が目の前にあっては、ついつい悲しみや寂しさに負けてしまいそうになる。
男性は、クリスマスを明るい気分で迎えるため、それまでに遺品の処理を終えたいのだった。

遺品処理なんて、あまりめでたい仕事とはされない。
遺品の撤去を終えた部屋に塩をまいたり、お祓いをしたりする人もいるくらい。
“死”はそれだけ忌み嫌われるもの。
また、世間も、そんな風潮を“悪し”としない。
しかし、死に対しては、暗くなることだけが礼儀ではない。
男性一家も、世間の風潮に迎合せず。
「めでたいこと」と言ったら大袈裟だけど、それに近い感覚を持っているようだった。
だから、葬儀をだした直後であっても、世間体も気にせず、家を派手に飾り、家にハッピーな雰囲気をまとわせていた。

大方の人にとって死は恐いもの
大方の人にとって死は嫌悪されるべきもの。
それをそう捉えない男性の信心は、なんだか羨ましいものであった。
そして、その平安は、冷暗なところに追いやられがちな私の仕事に陽を当ててくれたのだった。


信じることによって救われることがある。
信じることで道が開けていくこともあれば、信じることで大きく前進できることもある。
しかし、現実には難しい。
これまでのブログにも何度となく書いてきたとおり、自分は自分にとって信用ならない者であり、自分は自分をよく裏切る者であるから。
そんな自分に裏切られるのが恐いから、裏切られて辛い思いをするのがイヤだから、裏切られて傷つくのがイヤだから、はじめか疑ってかかる
そうしているうちに、自分を疑うことに慣れてしまう。
自分を信じることが億劫になり、自分を信じることに臆病になる。
でも、人生なんてものは、自分と未来を信じないと開けないものでもある。
自分を疑ってばかりの私の人生が開いていかない一因も、そこにあるのだろう。

クリスマスが過ぎれば、今度は正月ムード。
時間は、一秒の狂いもなく確実に過ぎている。
この一生も、また同じ。
泣いても笑っても、寝ても醒めても、終わりは確実に近づいている。
せっかくのこの日々。
信じることは疑うことより難しく、また、信じることは疑うことより勇気がいることだけど、たまには、ダメな自分を信じてやってもいいのではないだろうか。
そうすることによって、自分が思っている以上に頑張れる自分が新たに姿を現すかもしれない。
そして、その姿に、信じたほうの自分も感化されるだろう。

「俺を幸せにしてくれるのは“そいつら”かもな」
終わりかけのクリスマスムードの中、ちょっとだけポジティブになっている私である。




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