今日で大型連休もおしまい。
十連休となると、ただの大型連休じゃなく“超大型連休”だ。
とはいえ、やはり私には関係なかった。
特に多忙だったわけではないけど、何だかんだと仕事があり休んでいるヒマはなかった。
結局、この十日間、一日も休みをとらないまま終わってしまった。
やるべき仕事があるのに休暇をとるなんて図々しいマネはできない小心者なのである。
でも、なかなか楽しい十日間だった。
世の中の のんびりした雰囲気は格別だった。
繁華街や行楽地付近では人々が休暇を楽しむ姿が多く見受けられ、心が和んだ。
また、郊外に行けば、車通りや人通りが少なく、慌ただしい日常にはない静けさがあって、これにも心が癒された。
連日、高速道路のレジャー渋滞もスゴいことになっていたけど、これもまた社会が平和であることの証でもあり、ほのぼのするものがあった。
ともあれ、やはり十連休は長い。
ひと月の三分の一なわけで、週休二日の場合、通常勤務日数の半分近い日数。
暑くなりはじめた気温も手伝って、休み明けで出勤する際の倦怠感はハンパなさそうだ。
気の合う者同士で笑顔の想い出がたくさんつくれた反面、楽しみにしていた休暇が終わった寂しさと、懐の寂しさが重なって、ちょっと元気をなくしている人も少なくないではないか。
想像すると、十連休できた人のことが羨ましくもあり、少し気の毒にも思える。
もう一つのニュースといえば、言わずと知れた“改元”。
4月30日に“平成”が終わり、5月1日に“令和”が始まった。
で、世の中は“令和フィーバー”。
ただ、もともと、私は、和暦より西暦を用いることが多い。
以前から、自分でつくる書類等はほとんど西暦をつかう。
「西暦主義」と言っても過言ではない。
そのせいか、改元に対する興味や高揚感も世間ほど高くない。
幸福感に飢えた民衆(?)が気の合う者同士でお祭り騒ぎしている映像が多々流れたが、
「そこまでテンションを上げることか?」
と冷ややかな目で見ていたくらい。
元号が変わることが そんなにめでたいことなのかどうか・・・私にはわからない。
まったく幸せな気分も湧いてこないし、楽しい気持ちにもなれない。
そのクセ、“昭和生まれの俺にとっては三つ目の元号・・・四つ目の元号まで生きていたいな・・・”なんて図々しい考えを持ったりして、お粗末な頭である。
ま、そういう輩は、大人しく日常生活を送っていればいいのだろう。
何はともあれ、超大型連休も改元フィーバーもじきに終わる。
いやがおうでも日常に戻らなければならない。
気の合う仲間や家族だけで過ごせた日々も終わり、会社や学校、そうでない人と関わらなければならない日々に戻らなければならない。
人間は十人十色、ウマが合う人もいれば合わない人もいる。
肌が合う人もいれば合わない人もいる。
世の中に趣味嗜好や価値観が異なる人がいるのは当然のこと。
で、合わない人と関わらなければ安全、付き合わなければ平和である。
しかし、残念なことに、現実にはそうもいかないことが多い。
関わりたくない人と関わらなければならず、付き合いたくない人とも付き合わなければならない。
私も、仕事上で色んなタイプの人と出会う。
大半の人は、良識をもった常識人なのだが、中には苦手なタイプの人もいる。
礼儀やマナーをわきまえない人はもちろん、物事に細かい人、神経質な人・・・そういったタイプの人が苦手である(“細かい”と“神経質”の部分は、自分のことを棚に上げるけど)。
あとは、図々しい人も苦手。
たまに、契約外のことを無料で求めてくる人に遭遇することがある。
で、相手は“お客”につき 波風立つのが嫌なため、少々のことなら泣き寝入る。
そして、仕事が終わった後で陰口を叩く。
「契約に含まれていませんから」と毅然と断れない代わりに、後で、悪口を言うわけ。
そうして、自分で自分の人格を下げているのである。
遺品処理の依頼が入った。
現場は公営団地の一室。
間取りは2DK。
一人で暮らすには充分なスペース。
亡くなったのは、そこで一人暮らしをしていた高齢の女性。
晩年は、施設と病院を往復するような生活だったらしく、家財生活用品の量もさほど多くはなかった。
依頼者は、隣接する街に暮らす故人の娘(以後「依頼者女性」)。
「娘」といっても初老。
数年前に大病を患って以降 体調が優れず、更に、晩年の故人の世話が結構な負担になっていたよう。
また、亡くなった後も他に死後処理を頼める身内はいないらしく、ヒドく疲れている様子だった。
依頼者女性から色々な話を聞きながら、室内の見分を進めていると、ほどなくして、初老の女性が四人(以後「近隣女性」)、部屋に入ってきた。
インターフォンも鳴らさず、ノックもせず、遠慮したような素振りもなく、挨拶らしい挨拶もせず、自分の家のような顔をして。
その物腰を見た私は、“依頼者女性の姉妹?従姉妹?”“それとも故人の妹達?”“近しい身内はいないって言ってたはずだけどな・・・”と、少し妙に思った。
すると、依頼者女性は、
「欲しいものがあったら、遠慮なく持って行って下さい」
「使えるモノを捨てるのはもったいないですし、母もそれを望むと思いますから」
と、近隣女性達に声をかけた。
四人の近隣女性は、同じ団地に暮らす住人。
残された家財のうち、欲しいモノがあれば近所の人達に進呈するために呼び寄せたよう。
確かに、処分する家財の量が減ればそれだけ料金も安く済むし、何より、再利用できるものを捨てるのはもったいない。
再利用できる家財の譲渡や持ち帰りは どこの現場でも よくあることなので、私は、特に不自然さを感じることなく、黙って自分の仕事を進めた。
しかし、近隣女性達の行動は、私や依頼者女性の想像を超えていた。
タンスの引き出しや押入れを次々に開け、中のモノを引っ張り出し、気に入ったモノや欲しいモノが目に入ると、「早い者勝ち」と言わんばかりに、それらを抜き取っていった。
少しは罪悪感を覚えたのか、四人は、言い訳をするように「生前の故人とは親しい間柄だった」としきりにアピール。
それでも、誰に遠慮することもなく、洋服・靴・アクセサリー・バッグ・生活消耗品・調理器具・食器・調度品etc・・・次から次へと部屋にあるありとあらゆるモノに手をつけていった。
挙句の果てに、バーゲンセールで商品を奪い合うかのごとく、一つの品をめぐって小競り合いを起こすような始末。
値段が高い品だからだろう、家具・家電に至っては ほとんどケンカ状態。
故人の死を悼む気持ちや、体調が悪い中 死後処理に奔走する依頼者女性をねぎらう気持ちは微塵もないようで・・・言葉は悪いが、まるで、四人の女泥棒が大暴れしているような光景だった。
その後の部屋がどんな状態になるかは、容易に想像できるだろう。
ガチャガチャのグチャグチャ・・・まるでゴミ部屋。
本物の泥棒だって、そんなには散らかさないはず。
草葉の陰から故人の怒号がきこえてきそうなくらいの状態になってしまっていた。
公営団地は、比較的 所得が低い人達が生活しているところであることは承知していたけど、餓鬼のごとく家財を漁る近隣女性達の姿は、唖然とするのを通り越して、こちらは恥ずかしくなるくらいの、また、背筋に寒気が走りそうになるくらいの浅ましい光景だった。
その感覚は、依頼者女性も同じこと。
始めは、疲れた表情にも穏やかさを滲ませ 黙ってみていた依頼者女性だったが、近隣女性達の振る舞いを見ているうちに、どんどんと表情を曇らせていった。
そして、そのうち その表情は怒りに満ちたものに変わっていった。
あまりにヒドい振る舞いを前に、私は、“こんなことされていいんですか?”との思いを込めて、依頼者女性の目をジッと見つめた。
すぐに、その意を汲んだ依頼者女性は、
「今だけのことですから・・・この人達とは、もう関わることはありませんから、好きにさせておきましょう」
「文句を言っても疲れるだけですから・・・」
と、怒りで爆発しそうな自分自身をなだめるように、私にそっと耳打ちしてきた。
近隣女性達のあまりの無礼さを不愉快に思いつつも、依頼者女性の意思を尊重するしかない私は、依頼者女性と台所の小さなテーブルを挟んで座り、遺品処理の見積書を作成。
依頼者女性の前に置き、作業内容と費用の内訳を説明した。
すると、一通りの遺品チェックが終わったのだろう、一人の近隣女性が我々のところに寄ってきて、依頼者女性の前に置かれた見積書を覗き込んできた。
そして、
「これ、高いんじゃない? 私の息子がゴミ処分の仕事をしているから、そこに頼んだ方がいいわよ!」
と、私と依頼者女性の話に割り込んできた。
遺品処理作業を誰に頼むのかは依頼者女性の自由だし、費用が安く済むに越したことはない依頼者女性にとって選択肢は多い方がいい。
しかし、それをするにも、適正な順序やマナーは必要。
それを無視して割り込んできた近隣女性に、私は、強い不快感を覚えた。
その意を察してかどうか、依頼者女性は、
「いえ、その必要なないです・・・こちらにお願いしますから・・・」
と、近隣女性の提案を断った。
しかし、近隣女性の図々しさは、そんなヤワなものじゃない。
「息子だったら、もっと安くやってあげられると思うよ!」
と、引き下がらない。
それが、あまりにしつこいものだから、とうとう依頼者女性はキレた。
怒り心頭の恐ろしい形相で、
「貴女には関係ないでしょ!! 必要ないったら必要ないのよ!!」
と一喝。
そして、一度切れた堪忍袋の尾が再び結ばれることはなく、堰を切ったように
「“欲しいモノがあったら差し上げます”って、こっちは好意で言ったのに、人の家のズカズカ上がり込んで、まさか、こんな泥棒みたいなマネされるとは思ってなかったわよ!」
「貴女達にあげるくらいなら捨てたほうがマシ!あげるモノは何もないから、今 手に持ってるもの置いて、さっさと出てってちょうだい!!」
「早く!早く!!出てって!!!」
と、まくし立てた。
もともと、近隣女性達は相当な図々しさを持っているわけで、普段なら言い返してきただろう。
しかし、依頼者女性の怒りと威勢は、それを凌駕しており、近隣女性達は顔を引きつらせ、無言で立ち尽くすのみ。
突然の出来事を受け止めきれなかったのだろう、四人は慰め合うようにキョロキョロとお互いに引きつった顔を見合わせながら、スゴスゴと玄関へ引き下がり、これまた何の挨拶もなく消えていった。
作業の日。
依頼者女性は現地に呼ばず、鍵だけ預かって作業に臨んだ。
“嫌がらせをされるかも”といった警戒感をもって。
ただ、こちら側には、後ろめたいことや落ち度はない。
何かされたら堂々と対抗する意思をもって、粛々と作業を進めた。
が、結局、何も起こらず 作業はスムーズに終わった。
さすがに、そこまでの図々しさは持ち合わせていなかったよう。
近隣女性達は物陰からこちらを伺っていたのかもしれなかったけど、良心の呵責というものを少しは味わったのか、誰一人出てくることはなかった。
ただ、近隣女性達は、依頼者女性の悪口に花を咲かせたに違いない。
「親しい間柄」と言っていた故人のことまで悪く言ったかもしれない。
自分で自分の人格を下げていることにも気づかずに。
ただ、それは、もはや 依頼者女性にも故人にも関係のないこと。
取るに足らない「勝手に言わせとけ!」の類の話だ。
しかし、近隣女性達に嫌悪感を抱くだけに終始してしまっては、私も同類。
彼女達を反面教師にして学ぶべきことはあると思う。
本音と建前を駆使し、上手に人と接しているつもりの私でも、自分の気づかないところで悪評をかい、意外な人に嫌われているかもしれないのだから。
好感をもたれる人間になるためには、自分に自信を持たなければならない。
しかし、過信してはならない。
良好な人間関係をつくるには、自分なりの正義を持たなければならない。
しかし、それを過信してはならない。
“自分が正しいとはかぎらない”という謙虚さと“自分は正しい”という図々しさ、その両方を組み立てて自分に厳しく人に優しい自分をつくり上げることが大切。
幸せになることに図々しくあろう。
しかし、自分だけの幸せのために図々しくあってはいけない。
生きることに図々しくあろう。
しかし、自分だけが生きることに図々しくあってはいけない。
「自分さえよければいい」という価値観に、人と人との間に生まれるはずの愛・情・絆は生まれない。
そして、それらがなければ、生まれてきたことの目的、生きることの意味、死んでいくことの理由・・・・・つまり、人がつかめるはずの栄光が現れてこないのだから。
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