秋涼の前味、8月も後半になってくると、朝、25℃を下回る日がでてきた。
昨日・一昨日の早朝は23℃、そんな朝は、ホッと癒される。
そしてまた、「暑い!暑い!」と愚痴ってる間に、辺りは、気づかないところで少しずつ秋の装いに変わってきている。
いつものウォーキングコースにある桜樹を見上げてみると、わずかではあるけど、先が黄色くなってきている葉もあり、「もう、そんな季節か・・・」としみじみ思う。
過ぎてみれば、一日一日が過ぎていくのははやい。
目先の生活に追われるばかりの毎日で、気づいてみたら、一つ歳をとっている。
人間なんて、動物の中では賢い方なのだろけど、実のところはそうでもないから、人生なんて、そうやって終わっていくものなのだろう。
それでも、時々は、この人生(時間)の希少性や有限性を強く意識して、心をリフレッシュしたいもの。
「リフレッシュ」といえば、旅行やレジャー、趣味を楽しんだり、酒を飲んだり、風呂に浸かったり、人それぞれ色んな方法があるだろう。
実際、この夏休み、帰省や旅行・レジャーで命の洗濯をした人も多いだろう。
私の場合、飲酒とスーパー銭湯、たまのレジャー、あとは、日々やっているウォーキングもそのひとつ。
私は、天候と時間と身体の調子がゆるすかぎり、ウォーキングをしている。
一時間、約6km。
好きでやっていることとはいえ、酷暑の夏と厳寒の冬は、なかなか楽ではない。
だから、今の時季は、少しでも気温が低い早朝5時台・6時台に歩く。
それでも、大汗をかき、Tシャツはビショビショになるし、持ってるタオルもシットリ重くなる。
私は、肉体労働者なので、それ以上に身体を動かす必要もないかもしれないけど、歩いた後にはそれなりの爽快感や達成感がある。
あと、一人で黙々と歩くと、ある種、自分を見つめなおす黙想のようなことができる。
この人生(時間)の希少性や有限性を強く意識することができ、常日頃、私の心に沸々とわいて私を支配してくる後悔・不満・不安の念を、感謝・喜び・希望の念に変えてくれる。
もちろん、それは愚弱な私のこと、一時的なこととして通り過ぎてしまう。
が、それでも、それは、少なからず、自分にとってプラスに働くわけで、一度きりの今日、二度とない今日をがんばるエネルギーになるのだ。
何日か前、いつものウォーキングコース沿に建つ住宅の塀の上から、一輪、薄紫の“あさがお”が小さな顔をのぞかせていた。
無機質なブロック塀から一輪だけ出ている様はなかなか愛らしく、また一腹の清涼剤となり、私は、一日の労苦に向かってポンと背中を押してもらったような気になり、その脇を軽快に通り過ぎたのだった。
「あさがお」といえば、あれは小学校低学年の頃だっただろう、夏休みの宿題で観察日記をつけた憶えがある。
あさがおの成長を記録した絵日記だ。
その昔、私は絵を描くのが好きだった。
美術部とかに入っていたわけじゃないけど、高校生の頃は、企業から与えられたテーマ(例えば“労働災害防止”とか)のポスターを何度か描いてお金をもらったこともある。
私が送った手描きの年賀状を部屋に貼ってくれていた友人もいた。
だから、「将来は、イラストレーターみたいな仕事もいいな・・・」と考えた時期もあった。
(実際は“イライラストレスライター”になっちゃってるけど・・・)
そんな私だから、小学生の頃の絵日記も楽しくやっていた。
一日一ページ、絵を描き、文を書くわけ。
その時々のイベント、何かをやっている人の姿、出かけた先の風景、食事のメニュー等々、日常の何気ない一コマを描いた。
もちろん、絵日記なんて、小学生のときが最後で書いてはいないけど、今、小学生のノリで絵日記をつけるとしたらどんなものになるだろう・・・
このブログのごとく、長くてクドい文章になるかもしれない。
そして、絵は・・・・・なんか、ヤバいことになりそうで自分でも笑恐ろしい。
昼間は猛暑でも、朝晩は涼が感じられるようになった ある年の晩夏。
都内某所で、腐乱死体現場が発生。
現地調査の依頼を受けた私は、カーナビが示す場所へ車を向かわせた。
目的の建物は、細い路地の奥にあった。
それは、昭和の香り漂う、木造の古い二階建アパート。
一階に三世帯、二階に三世帯、間取りはそれぞれ1DK。
その二階、中央の一室で、住人が孤独死。
無職無縁の生活を送っていた故人の死は、誰にも知れることなく・・・
何日も経って、大量に発生したハエと外にまで漏れ出した腐敗臭が、その異変を世間に知らせたのだった。
私は、腐乱死体現場に躊躇するほどの純粋さはとっくに失っているけど、“特掃隊長”に“変心”するための時間をもうけるため、アパートの下で足を止めた。
そして、しばし、現場の部屋の方に向かって建物を見上げた。
すると、二階の一室、現場の部屋の手前隣の一室から一人の老人が出てきた。
歳は八十くらいか、男性(老人)は、錆びた鉄階段を下りる途中で私に気づき、こちらに向かって泥棒を見るような視線を送りながら、ゆっくり階段を下り、通路の立つ私に近づいてきた。
怪しまれていることを察知した私は、男性に道を譲りながら、
「こんにちは・・・」
と会釈。
「そこの部屋に来たの?」
私が醸し出す独特の?雰囲気で用件がわかったのだろうか、男性は、無愛想にアゴを現場の部屋に突き出した。
「そうです・・・」
悪いことをしに来たわけでもないのに、私は、少々後ろめたいような気分で小さく返答。
「何があったか知ってるの?」
男性は、野次馬根性にも似た好奇心をのぞかせながら、ちょっと意地悪な表情を浮かべた。
怪しい仕事をする私が、それほど怪しい人間でないことがわかると、男性は急に口を軽くし、旧来の友人とでも話すかのように多弁になった。
「どこでもこんなニオイなの?」
「俺の部屋までクサくなっちゃってさ・・・」
「奥の人は我慢できず出てっちゃったよ・・・」
「俺は引っ越す先も引っ越す金もないからさ、我慢するしかないよ・・・」
「でも、ま、仕方ないよ・・・人間は、いつか死ぬんだからさ・・・」
男性は、“寛容”というより“諦め”、“慈愛”というより“悟り”の心境をもって、「仕方ないよ・・・」と言っているように見えた。
私としても、ありがちな「クサいから、早く何とかしろ!」というような苦情を言われるよりは楽だけど、聞き分けの良さの陰に男性の社会的な力のなさが見えて、少し切ないものを感じた。
その後、特殊清掃・家財処分・消臭消毒等々の作業で、そのアパートに何度も通った。
そして、男性とも、頻繁に顔を会わせた。
ずっと一人でいて人恋しいのだろうか、作業の物音をききつけると、その度に玄関からでてきて、こちらの様子をうかがってきた。
仕事の邪魔になるほどのことでもないし、私の方も、小休止ついでに誰かとおしゃべりすると気が紛れる。
また、男性の行為(好意?)を軽視するのも可哀想に思えたので、その都度、話につきあった。
男性は、若い頃、大きな企業にサラリーマンとして勤めていた。
ただそこは、今だったら「ブラック企業」と言われるような会社。
実績をあげた分は賃金で還元されたものの、労働時間は長く、仕事のノルマもハード。
当時の社会には「ハラスメント」なんていう言葉はなく、上司のパワハラも日常茶飯事。
鬱病もマイナーは病気で、定年を前に中途退職すれば、ただの負け犬扱い。
そんな社会、そんな会社で、男性も、ギリギリまで奮闘。
しかし、多くの同僚と同様、ストレスによって体調を崩し、結局、働き盛りの年齢で退職に追い込まれた。
それは、劣等感と敗北感に苛まれる絶望の日々だった。
その後、「サラリーマン」という肩書に懲りた男性は、自営で何かやることを決意。
色々と思案し、それまでのサラリーマン時代とはまったく畑違いの弁当屋をやることに。
夫婦二人三脚で商売を学び、最初は家族経営で開業。
売上が軌道に乗るまでは従業員を雇うこともせず、不休で働いた
その功もあり、小さな商いだったけど売り上げは順調に推移し、店は数名の従業員の抱えるくらいにまで成長。
それは、やりがいのある充実した日々だった。
事業がうまくいったら、更に大きくしたくなるもの。
男性は、事業欲旺盛に二店舗目を計画。
必要な資金は金融機関から借り入れ、知り合いの縁で、店を任せられる店長も雇用。
家賃も高かったが立地も良いところへ物件を確保。
多くの労苦と重いリスクを背負いながらも準備をすすめ、次の店を開店させた。
それは、夢膨らむ楽しい日々だった。
転機が訪れたのは、それからしばらく後。
人間関係ってそんなもの・・・所詮、使う人間(経営者)と使われる人間(従業員)は水と油。
店を任せていた店長とウマが合わなくなり、ことあるごとに対立するように。
そして、やる気を損ねた店長は、次第に仕事を蔑にするように。
そのうち、店の売上利益も気にしなくなり、とても店を任せられる状態ではなくなった。で、結局、店長は、些細なことが原因のどうでもいいケンカを機に、仕事を放りだして辞めていった。
それは、やり場のない憤りを抑えられない怒りの日々だった。
そこから、弁当屋は火の車となった。
しばらく、二つの店を掛け持ちして頑張ってはみたけど、限界はすぐにきた。
従業員は思うように働いてくれず、また、店を任せられる人材もいなかった。
結局、サラリーマンのときよりも重く心身の調子を崩し、借金と疲弊した心身だけを残すかたちで、あえなく、二店舗目は閉店となった。
それは、夢を砕かれた心と老いた身が疲弊する日々だった。
それでも、しばらくは最初の店でがんばった。
しかし、借金返済が重くのしかかり、生活はキツくなる一方。
そのうち、何かの歯車が狂いだし、売上は低迷し、運転資金は底をつき、税金や年金が払えなくなり、愚痴と酒が増えていき・・・弁当屋は廃業となった。
それは、不安と絶望に苛まれる苦悩の日々だった。
男性は、その後の詳しいことは口にしなかった。
が、仕事も家も家族も失い、流れ流れてきたのだろう・・・
このボロアパートで独り暮らしをするに至った経緯は、想像に難くなかった。
「色々あったけど、この歳まで生きさせてもらったんだから・・・」
「全部、想い出・・・ここまでくると、後悔も不安もないね・・・」
「とりあえず、一日一日 気楽に生きて、あとは死ぬだけだよ・・・」
亡くなった隣人と自分を重ねたのか、老人は、そう言いながら故人の部屋へ目をやり、そして、ジョークでもとばしたかのように笑った。
何故だか、その顔に悲壮感はなく・・・
その屈託のない笑顔がどこからくるものか・・・
その所以は、経験も思慮も足りない私が知り得るものではなかったけど、どことなく嬉しさを感じさせてくれるものではあった。
目の前の現実には、バラ色の将来を想像するには困難な光景ばかりが広がっている・・・
人は、何のために生まれてくるのか・・・
何のために生きるのか・・・
そして、何のために死ななければならないのか・・・
そんな疑問に頭を悩ませ、心を苦しめたことがある人は少なくないだろう。
しかも、そういう想いは苦痛の中、苦悩の中から湧いてくる・・・多くの場合、幸せで楽しいときには湧いてこない。
この私もその一人。
幸せに生きるため? 人生を楽しむため? 世のため? 人のため?
どれも正解だと思うし、答はまだ他にたくさんあるとも思う。
また、宗教・哲学、個人的な思想・価値観によっても、色んな答が導き出せると思う。
しかし、半世紀生かされてきて想うのは、そういうことを真剣に考えること自体が“答”なのではないかということ。
命や人生に対して真剣な想いをもっている証、大切な何かを真剣に求めている証だから。
ただ、そんな問答の末に行きつくところがある。
難しいことはわからないけど、生きていることを喜びたい。
こうして生きていることには、何かしらの意味があると思いたい。
つまらないことでクヨクヨしてるヒマがあったら、楽しみを探してハツラツとしていたい。
不安の種を拾うより、希望の種を探したい。
永遠に続くと錯覚しているその悩みや苦しみは人生の終わりがすべて片づけてくれることを知り、今を大切にしたい。
一日一日、今こうして積み重なっている大切な一日は人生の一ページ。
人生最期の一ページ、私は、どんな文を書き、どんな絵を描くころになるだろう・・・
今の私は、まだまだ、その域に達してはいないけど、できることなら、「ありがとう 楽しかった」と、穏やかに微笑みながら手でもふっている自分の姿を描きたい。
そのために、今日の一ページをどうデザインしていくか・・・
この晩夏、例え 心の絵日記が、凄惨な絵となっても、寒々しい絵となっても、暗い絵となっても、一度きりの今日、二度とない今日の終わりには、小さくても淡くてもいいから、一輪の“あさがお”を咲かせたいものである
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