4月7日に緊急事態宣言がだされてから、はや一か月半余が経つ。
そして、5月14日には、多くの地域で宣言が解除された。
同じく、5月21日には関西圏でも。
苦境に喘いできた人々にとっては、「長いトンネルの出口が見えてきた」といった感じだろうか。
私がいる首都圏一都三県でも、解除が期待されていたが、結局、それもなし。
それを象徴するかのように、昨日午前中までの数日間、空も記録的な雨曇が続いていた。
しかし、判明している感染者数の明らかな減少が「遅くとも月内には解除されるだろう」といった憶測を呼び、14日を機に、何かよくないものに誘惑されているかのように、人々の気が緩みはじめたような気がする。
しかも、明日には宣言が解除される見込みだそうで、それ以降の人々のハジケぶりが心配になる。
そんな中でも私は、幸か不幸か、元来の悲観的神経質・ネガティブ思考派であり、この先の生活不安が常につきまとっているため、一向に気は緩んでいかない。
私の勤務先は「ヒューマンケア株式会社」という零細企業で、所属しているのは「ライフケア事業部」という部署なのだが、事故現場・自殺現場・腐乱死体現場など“不要不急”じゃない仕事もある中、遺品処理・ゴミ部屋・リフォームなど“不要不急”の仕事も多い。
で、その“不要不急”の仕事は減っている。
三月下旬から、コロナの影響で新規の仕事は減りはじめ、4月は激減。
ただ、それ以前に契約していた現場が何件かあったので、5月以降が正念場になることや、新規受注がゼロになることを覚悟しながら、4月はそれらをポツポツとさばきながら何とか乗り越えた。
しかし、GWを過ぎると再び仕事が入り始め、今現在は、恐れていたほどは減っていない。
何のお陰か・・・そういうわけで、あくまで「今のところ」という条件は付くけど、「失業」という最悪の事態は免れている。
一方で、世の中に目を向ければ、倒産・失業の数値は上がりっぱなし、自殺者が増加することも見込まれ、更年期脂肪に覆われた胃が締めつけられるような憂いは続いている。
TVをつければコロナのニュースばかり。
毎日のように各地域の感染者数が発表され、一喜一憂している。
しかし、私は、「感染者」という呼び方に異論がある。
「感染者」ではなく、「感染判明者」とか「発症者」という風にした方がいいと思う。
「感染者」だと、「保菌者」「無症状感染者」をイメージしにくい。
そして、その「感染者数」が減少していると、ウイルスが死滅していっているような印象が強く、どうしても警戒心を薄まってしまい、気が緩んでしまう。
しかし、現実は、決して油断できる状況ではないはず。
これまでも「感染経路不明者」は多くいたわけで・・・ということは市中に保菌者がたくさんいるわけで・・・
細心の注意をはらって生活してはいるものの、私自身が保菌者である可能性だって充分にある。
ということは、緊急事態宣言が解除されても、外出自粛・休業要請が解除されても、それは、あくまで机上の事情による処理。
また、発表される感染者数がどんなに減っても、保菌者数までは把握できない。
重症化しやすい要因をもっている人はもちろん、一般の人も油断は禁物!
万人が感染しない努力をするべきで、万人が感染させない責任を負うべきだろう。
これから夏にかけて感染者数が落ち着いてくることが予想されているが、それは季節的要因や我々の努力(休業・自粛)があってのこと。
コロナウイルスに勝利したからではないわけで、根本的な問題は何も片付いていない。
秋冬にかけて、また大きな波・長いトンネルがくることが懸念されている。
だから、専門家の「この夏は、秋冬にかけてやってくるであろう大きな第二波に備えるべき」という言葉は重く受け止めなければならない。
明日以降、段階的に緩められていくのだろうけど、今現在、首都圏では、市民への外出自粛要請、店舗への営業自粛要請も継続中。
しかし、一部の市民、一部の店舗には、「我関せず」と無視し続けている者も少なくない。
社会的動物である一人一人には、法律上の責任の前に社会的責任を負う。
社会から守られている反面で、社会を守る責任も負っている。
「普段、自分は社会に守ってもらっている」という意識が希薄・・・皆無なのだろう。
「ヒマだから」「営業する方がわるい」「居酒屋の方がよっぽど三密」等と言ってパチンコ屋に行列している連中。
ただ欲望の赴くまま、自制できないことを“自分の自由”“当然の権利”とでも思っているのだろう。
“忍耐力がない”“自制できない”“欲望を抑えられない”ということ以外にまっとうな理由があるのなら聞いてみたい。
おそらく、「なるほど」「それなら仕方がない」と思えるような理由なんかないはず。
結局のところ、義務を負わないヤツほど権利を主張する、責任をとらないヤツほど人に責任をとらせたがる。
そして、何かのときに、そういう輩の尻を拭く羽目になるのが、愚直に社会的責任を負う善良な市民なのである。
また一方、多くの店舗(企業)が苦渋の休業をしている中、「自分さえよければ」と営業するパチンコ店にも不快感はある。
しかし、多分それは、死活問題を抱えているが故の営業。
経営者からすると「倒産or存続」、従業員からすると「失業or雇用継続」という事情がある。
大袈裟な言い方かもしれないけど、倒産・失業は社会的な死を意味する
そして、それがキッカケとなり、生命の死にまで至ることも少なくない。
事実、自殺原因の多くは経済的な問題が占めている。
したがって、役所から指示されようと、世間から非難されようと、「これで死ぬわけにはいかない!」と営業するのである。
そして、それは、「自分が生き残るためには、他人が死ぬこともいとわない」という解釈にもつながる。
もはや、「弱肉強食」というより、「弱肉弱食」・・・露骨な言い方をすれば「共喰い」。
どうしたって殺伐感は否めない。
ただ、実際は平時より繁盛している店もあるようだけど、せめて、休業しても そこそこ耐えられる体力のある店が「他店が休んでいる今が儲けどき!」とばかりに営業しているわけではないことは信じたい。
この状況は、かつての世界恐慌にも例えられる。
それが第二次世界大戦にまで発展した経緯を知ると、「なるほどな・・・」と思ったりするけど、「歴史の勉強になる」なんて呑気なことは言っていられない。
やがてくる“第二波”のことを考えると、「新しい生活様式」とやらを定着させることも急務だろう。
検査・医療体制を立て直すこと、ワクチン・治療薬を開発することはその道のプロにしかできないけど、「新しい生活様式」を確立して定着させることは我々一般市民にもできる・・・我々一般市民がしなければならないこと。
安易にコロナ前の生活様式に戻るのではなく、“新しい生活様式”を習慣化させる必要がある。
「自分一人が変わっても社会は変わらない」と思うかもしれない。
しかし、社会を変えるのは一人一人。
一人一人がつながれば大きな力になる。
中国武漢の街角でうまれた小さなウイルスが、今や、世界中に多大な影響を及ぼしているように、我々も連帯して、従来の生活様式を大きく変革するしかない。
人前で口と鼻を露出するのを恥ずかしく思うようになるのかな・・・
人と向かい合わず、無言で食べるのがテーブルマナーになるのかな・・・
人の間近で話すのが無礼な社会になるのかな・・・
ヒソヒソ話が上品に思われるようになるのかな・・・
“新しい生活様式”って、なんだか窮屈そうな感じもするけど、皆が明るい気持ちで工夫すれば、ちょっと面白い世の中になるかもしれない。
前述のとおり、我が“ライフケア事業部”において、今月は“仕事ゼロ”も覚悟していた私だけど、そこそこの仕事にはありつくことができている。
で、一戸建・マンション・団地etc・・・あちこちの現場で、多くの人と会っている(一人をのぞき、あとは全員初対面)。
正直いうと、この時世では、あまり人と会いたくないのだけど、食べていくためにはそうもいかない。
そこで感じたのは、人々の“感染に対する警戒心の薄さ”。
“どこの馬の骨かわからないヤツ(私)”と会うというのに、中には、マスクもつけず接近会話する人もいた。
“俺だってウイルスを持ってるかもしれないのに・・・初めて会う人間(私)に対して警戒心を持たないのだろうか・・・”と不思議に思ったくらい。
一方の私は、警戒しまくり。
マスク着用はもちろん、エレベーターボタン・インターフォン・ドアノブ等、なるべく素手で触らないように心がけ、依頼者と顔を合わせた時も、
「マスク着用のままで失礼します」
「こういう時世なので、お互い距離をとりましょう」
「換気にもご協力ください」
というセリフが、定番の挨拶になった。
しかし、対する人々はほとんど「?」みたいな、怪訝な表情を浮かべた。
私の言いたいことを理解しつつも、まるで「別世界の出来事」「他人事」のように捉えている様子。
話しはじめるとそれに夢中になり、私との距離なんか一向に気にせず。
更に、窓も玄関も閉めっぱなし。
狭い密室に複数名の親族がひしめき合うように集まっていた現場もあった。
さすがにその状況には耐えきれず。
他人の家に上がり込んでおいての失礼は承知のうえだったが、一言いって窓を開けさせてもらった。
ドアストッパーがないところでは玄関ドアに自分の靴を挟んで通気したこともあった。
なんだか・・・“私一人が異常に神経質”みたいな雰囲気で、罪悪感みたいな変な気マズさを抱きながら。
確かに、もともと、私は、不安神経症気味で神経質。
“潔癖症”とはちょっと違いのだが、病的なまでに敏感になるときもある。
思い返すと、子供の頃からそう。
それは自分でもわかっている・・・自分でもイヤになるくらい。
そのせいでもあるのだろうけど、ここ二カ月で、それなりの数の人達と接してきた中で、私以上に感染対策に神経をすり減らしていそうな人には一度も会わなかった。
悪意に至るような疑心暗鬼は自制しなければならないけど、ただ、人と会うときは、相手も自分も「保菌者かもしれない」という前提が必要ではないだろうか。
私は、うつされるのも嫌だし、うつすのも嫌。誰だってそうだろう。
どこまでが必要で、どこが適正で、どこからが過剰なのか判断できない感染対策が変なストレスになって、無頓着な人に対して嫌悪感を抱くようにまでなってしまっている。
今、多くの人が苛立ち、多くの人が悩み、多くの人が苦しんでいる。
“自粛疲れ”“自粛飽き”“自粛ストレス”が膨らんでいるのも事実。
この先 困窮しないともかぎらないので、余計なお金を使いたくない時期ではあるけど、私も、観光・レジャーに出かけたい衝動に駆られるときがある。
海、山、スーパー銭湯、居酒屋・・・
しかし、出かけない・・・今は、出かけないことが課された責任、社会貢献。
今、私が出かけるのは、4~5日に一回のスーパーと、たまの銀行・郵便局くらい。
それも、前述のような始末だから、人の影にビクビクしながら、人の存在にモヤモヤしながら、人の無頓着にイライラしながら。
ウイルスには厳しくとも、人には優しくするべきなのに。
ただ、従来の自分の生活スタイルを冷静に思い返してみると、今の外出自粛生活と大差ないことがわかる。
仕事!仕事!でロクに休みもなく、外食も少なく、旅行なんて滅多にしていなかった。
外で飲むなんて年に二~三度、近年は、たった一~二度。
スーパー銭湯だって、多い時季は週一くらいのペースで行っていたけど、何ヶ月も行かないときもあった。
コロナ渦の前後で、何が変わったというのか・・・
にも関わらず、これまでとは違ったストレスがかかっている。
一体、これはどういうことなのか・・・ひょっとしたら、気づかないうちに心の自由を失っているのかもしれない。
行動の自由が奪われたからといって、心の自由まで失う必要はないのに。
自己分析の結果、おもしろいことがわかった。
それは、「やっていることは変わらなくても、禁じられるとストレスがかかる」ということ。
“飲みにいかない”ことと“飲みにいけない”ことは、双方、飲みに行かないことに変わりはないのに、後者は妙にストレスがかかる。
“飲みに行かない”という事実(行為)に変わりはないのに・・・
それは“選択の自由”“自由意思による選択権”が奪われているから。
つまり、行為そのものではなく、この“自由意思による選択”の有無が明暗を分けているのである。
“自由意思による選択”、ネガティブな方に言い換えると「欲望の赴くまま」。
往々して、“志望”“願望”と違い、“欲望”というものには邪悪な性質が入りやすい。
“欲”というものは、もともと、人間の本性の中にある悪性に近いところにあるから、膨らみ具合によっては、どうしても穢れてくる。
だから、欲望は、あるレベルで抑えなければならない。
そうしないと、自分を、家族を、他人を、世の中を破壊する。
多くの人に心当たりがあるだろう、欲望に負けて虚無感や罪悪感を覚えたことが。
一時的に満たされはしたものの、結果的に後悔したことが。
また、欲望に支配されている人をみて、嫌悪感や悍ましさを覚えたことが。
欲望を抑えるには、先を見とおす目が必要。
欲望の赴くままに生きたら、または、自律・自制とともに生きたら、この先、自分がどうなるか、家族がどうなるか、世の中がどうなるかをリアルに考える。
また、未来に目的をみつけること、目標を定めることもひとつ。
合格を目指して勉学に励む学生のように、一流を目指してトレーニングに励むアスリートのように、そして、金持ちを目指して汚仕事に励む特掃隊長のように(?)。
あとは、“心は自由である”ということを認識し、“心の自由”を楽しむこと。
それは、妄想・幻想・夢想・空想の類と似ているものであるけど、もっとハッキリしたもので、理想の自分・理想の人生をもって過ぎた欲望を中和してくれる。
それでも、「そんなの知ったことか」「今がよければ それでいい」「自分さえよければ それでいい」といった短絡的な思考しかせず、欲望を抑える努力をする気がない者には、もはや ここで言うことは何もない。
とりあえず、「自分のケツは自分で拭け!」・・・いや、「自分で拭けないケツは汚すな!」とだけ言っておこう。
「あの時はよかったなぁ・・・」
今、ほんの少し前のことを思い出してそう想う。
「まだ、あの時の方がよかったなぁ・・・」
先々、今のことを思い出して、そう想わないようにしたい。
そのための今・・・自制の時世なのである。
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