受験シーズン真っ只中。
寒い冬でも、10代の子供達は熱い戦いを繰り広げていることだろう。
小・中・高・大、少しでも偏差値の高い学校を目指し、子供(若者)達はしのぎを削る。
友人という名の敵と、また、子供らしく生きたがる自分と戦い続ける。
“自分がやりたい仕事”ではなく、“大人が決めた仕事”に就くことをゴールにして・・・
私も中・高・大と受験経験があるが、上にあがるに従って偏差値は落ちていった。
努力することが苦手な私は、コツコツと勉強することができなかったのだ。
そのせいで、今、こういう有様になっているのである。
自分の耳にタコができるほど、親が口を酸っぱくして言っていたことが、この歳になって身に染みてくる。
「お前、ゴールを間違ったよな!」
友人からも、そう言われたことがある。
しかし、不快感はない。私自身が痛感していることだから。
それよりも、裕福でない中、我慢と辛抱を何層にも重ねて教育を受けさせてくれた親に申し訳なく思う気持ちの方が大きい。
しかし、これもまた人生。
本意だろうが不本意だろうが、人生は一度きり。
「これが俺の定め」と、いい意味でも悪い意味でも開き直っている・・・
イヤ・・・そうして笑い飛ばさないと、やってられないのである。
ある月の中頃、男性の声で電話が入った。
その口調は控えめで、それは、男性がまだ若いことと、何かしらの心配事を抱えていることを伺わせた。
一方の私は、例によっての事務的口調。
それは、“どんな話でも聞きますよ”といったスタンスの表すもの。
私は、男性が話しやすいよう、ちょっと明るめの雰囲気を醸しだして抑揚のない返事を心がけた。
男性の話はこうだった・・・
一人暮らしの父親が、アパートで孤独死。
発見時は、2~3日が経過。
亡くなっていた場所は浴室。浴槽の中。
幸い、追い焚き機能は作動しておらず、煮炊状態は免れた。
ただ、皮膚は剥がれ、浴槽の水はコーヒー色に変色。
同時に、独特の異臭が発生し、目と鼻と精神は並々ならぬ衝撃を受けた。
身内として、その状態を放っておくわけにはいかない。
男性は、自分の手で、家財生活用品を処分。
それから、部屋の清掃も、できるかぎりやった。
また、“浴室のニオイも掃除すればなくなる”と考えて、浴室の清掃も敢行。
しかし、その異臭は、何度洗っても・繰り返し拭いても消えなかった。
不動産管理会社は、故人が室内で孤独死したことを把握済み。
ただ、“大事にしたくないので、部屋を普通の状態にして返してくれればそれでいい”と、原状回復を男性に一任。
特段の苦情を寄せることもなく、部屋の引渡し期日までは黙認する構えをみせた。
部屋の賃借期限は、当月末。
期日を延期すると、不動産会社にいらぬ不審感を持たれるかもしれず・・・
かと言って、異臭が残った状態で引き渡せるわけもなく・・・
男性は、予定どおり部屋を明け渡し、同時に父親の死も自分の気持ちもキチンと整理したいようだった。
特掃においては、“見た目にはきれいになっても、ニオイがとれない”なんてことは非日常茶飯事。
掃除することより、消臭することの方がずっと難しかったりする。
しかも、対象は、私が苦手(得意?)とする汚腐呂。
煮られていなくても、人が湯(水)に2~3日も浸かっていれば、それなりに汚れる。
私は、それまでの経験から似たような事例をピックアップして頭に想像。
そして、自分がこなしてきた作業と、父親の死を負いながら汚腐呂を掃除した男性の心労・労苦を重ねて、特掃魂の温度を上げていった。
現地調査の日。
都合が合わなかった男性は、現地に来ず。
鍵はポストに隠してあり、私は、それを使って玄関を開錠。
そして、誰もいるはずのない室内に小声で挨拶し、足を踏み入れた。
話に聞いていた通り、家財生活用品の類はすべて処分され、部屋は空っぽ。
清掃も行き届いており、部屋の隅々から窓・流し台、換気扇のプロペラにいたるまでピカピカ。
それは、不動産会社や大家の心象を少しでも良くしようと男性が努力したことを表しており、私の特掃魂は更なる熱を帯びてきた。
しかし、見た目はきれいでも、室内には、軽い異臭が残留。
それは、やはり、普通のアパートには有り得ないニオイだった。
続いて、浴室の扉を開けると、異臭はその濃度をUP。
それは、やはり、一般の人には嗅がせられないニオイだった。
この消臭作業が、一朝一夕にいかないことは既に明白。
私は、目指すゴールに向かうために必要なプロセスを頭の中に探しながら、浴室のあちこちに鼻を近づけた。
一通りの調査を終えた私は、外に出て小休止。
見上げる空は青く広がり、風は冷たくも日差しは暖かく、平穏で気持ちのいいひとときが私に与えられた。
そんな中で頭に過ぎるのは、生と死。
過去の夢幻性、今の不思議、不確実な将来と確実な死・・・
自分は、どこから来て、どこに向かっているのか・・・
作業のプロセスを組み立てる必要があったのだが、例によって、仕事のことはそっちのけで、そんなことばかりが頭に浮かんでは消えていった。
その日の夜、私は依頼者男性に電話。
そして、現場を観察した結果とその対策を、素人の男性でもわかるように説明した。
かかる費用も安いものではなかったが、私は、何よりも時間(日数)が必要であることを強調。
結果、男性は、月末の引き渡しにギリギリ間に合う二週間を、私に預けてくれた。
その翌日、私は、二週間後の完全消臭を目指し、消臭作業を開始。
成功する目算は高かったが、それでも、作業には相応の緊張感が伴った。
しかし、所詮は“私”。
何日目かの作業になると、自然と気が緩んできた。
人生にしろ仕事にしろ、往々にして“落とし穴”はそんなところにあるもの。
私は、発見前、故人が浴槽にいた様と、発見後、依頼者男性がそこを清掃する様を思い浮かべては、気持ちの引き締めを繰り返した。
そして迎えた最終日。
不動産会社への引渡しを翌日に控えた部屋で、私は、大きな自信とわずかな不安を抱えながら仕上作業を行った。
それから、異臭がなくなったことを慎重に確認し、最後に、“この風呂に自分が入れるかどうか”を自問。
結果、“まったく気にならない”とは言えないながらも、“入れる”との答を得た。
その答に導かれて、本作業は、目指していたゴールに到達したのであった。
人は、小さなゴール・大きなゴールを、その時々に定めて生きているのだと思う。
仕事でも学業でも、趣味でも生活でも・・・
目的や目標・・・ゴールを定めることは、大切なこと。
それがあるから、必要なプロセス(生き方)が組み立てられる。
そして、頑張れる。
しかし、定めるべきゴールが見当たらないとしたらどうだろう。
ゴールがないと、そのプロセス(生き方)はおのずと短絡的なものになる。
そうなると、生活のあらゆる隙間に虚無感が入り込む。
そして、それが深刻化すると、生きている意味を見失う。
同じ理屈で考えると、人生のゴールも見定めた方がより良く生きられるような気がしないだろうか。
では、人生のゴールとは?
やはり、“死”か・・・そう、“死”だろう。
目指そうが目指すまいが、そこが人生(地上)のゴール。
今も、そこに、否応なく向かわされているのである。
常々、その“死”を自覚することの必要と大切さを説いている私。
しかし、それが良い働きをするとは限らない。
生命や時間の貴重さを認識して、積極的・建設的・楽観的(+)に生きるきっかけになることがあれば、逆に、消極的・短絡的・悲観的(-)な思考を助長してしまうこともある。
死は、少しでも幸せに生き・楽しく過ごすための気づきを与えてくれるものなのだが、-の発想や行為からも、表面的なそれは得られてしまうものだから。
生きている過程(人生)が+であっても-であっても、死は±0(※“無”という意味ではない)。
この考えは、+の喜びも、-の悲しみも、人生に対する必要価値はまったく同じであるということを理解させてくれる。
そう・・・人生における価値は、+も-も同じなのである。
楽に生きたいけど、楽に生きられないのが人生。
楽しく生きたいけど、楽しいことばかりじゃないのが人生。
±0の死に向かって、人生には、自分の意識と力を越えたところで+と-がキチンと作用しているのだと思う。
そして、それが、絶妙のバランスによって人生を立体的に彩っているのではないだろうか。
だから、今、+に喜びを浮いていても、-に悲しみ落ちていても、それが人生の正負を決するものと勘違いしてはならないのだと思う。
辛いときは辛い、苦しいときは苦しい、悲しいときは悲しい。
だからこそ、「どうせ死ぬんだから・・・」と人生を放り投げないで、「いつかは死ぬんだから・・・」と苦悩を放り投げたい。
その辛さにも、その苦しさにも、その悲しさにも、生きている意味と、人生の価値と、命の美しさが含まれているのだから。
来るべきGoalは、±の先にあるのだから。
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寒い冬でも、10代の子供達は熱い戦いを繰り広げていることだろう。
小・中・高・大、少しでも偏差値の高い学校を目指し、子供(若者)達はしのぎを削る。
友人という名の敵と、また、子供らしく生きたがる自分と戦い続ける。
“自分がやりたい仕事”ではなく、“大人が決めた仕事”に就くことをゴールにして・・・
私も中・高・大と受験経験があるが、上にあがるに従って偏差値は落ちていった。
努力することが苦手な私は、コツコツと勉強することができなかったのだ。
そのせいで、今、こういう有様になっているのである。
自分の耳にタコができるほど、親が口を酸っぱくして言っていたことが、この歳になって身に染みてくる。
「お前、ゴールを間違ったよな!」
友人からも、そう言われたことがある。
しかし、不快感はない。私自身が痛感していることだから。
それよりも、裕福でない中、我慢と辛抱を何層にも重ねて教育を受けさせてくれた親に申し訳なく思う気持ちの方が大きい。
しかし、これもまた人生。
本意だろうが不本意だろうが、人生は一度きり。
「これが俺の定め」と、いい意味でも悪い意味でも開き直っている・・・
イヤ・・・そうして笑い飛ばさないと、やってられないのである。
ある月の中頃、男性の声で電話が入った。
その口調は控えめで、それは、男性がまだ若いことと、何かしらの心配事を抱えていることを伺わせた。
一方の私は、例によっての事務的口調。
それは、“どんな話でも聞きますよ”といったスタンスの表すもの。
私は、男性が話しやすいよう、ちょっと明るめの雰囲気を醸しだして抑揚のない返事を心がけた。
男性の話はこうだった・・・
一人暮らしの父親が、アパートで孤独死。
発見時は、2~3日が経過。
亡くなっていた場所は浴室。浴槽の中。
幸い、追い焚き機能は作動しておらず、煮炊状態は免れた。
ただ、皮膚は剥がれ、浴槽の水はコーヒー色に変色。
同時に、独特の異臭が発生し、目と鼻と精神は並々ならぬ衝撃を受けた。
身内として、その状態を放っておくわけにはいかない。
男性は、自分の手で、家財生活用品を処分。
それから、部屋の清掃も、できるかぎりやった。
また、“浴室のニオイも掃除すればなくなる”と考えて、浴室の清掃も敢行。
しかし、その異臭は、何度洗っても・繰り返し拭いても消えなかった。
不動産管理会社は、故人が室内で孤独死したことを把握済み。
ただ、“大事にしたくないので、部屋を普通の状態にして返してくれればそれでいい”と、原状回復を男性に一任。
特段の苦情を寄せることもなく、部屋の引渡し期日までは黙認する構えをみせた。
部屋の賃借期限は、当月末。
期日を延期すると、不動産会社にいらぬ不審感を持たれるかもしれず・・・
かと言って、異臭が残った状態で引き渡せるわけもなく・・・
男性は、予定どおり部屋を明け渡し、同時に父親の死も自分の気持ちもキチンと整理したいようだった。
特掃においては、“見た目にはきれいになっても、ニオイがとれない”なんてことは非日常茶飯事。
掃除することより、消臭することの方がずっと難しかったりする。
しかも、対象は、私が苦手(得意?)とする汚腐呂。
煮られていなくても、人が湯(水)に2~3日も浸かっていれば、それなりに汚れる。
私は、それまでの経験から似たような事例をピックアップして頭に想像。
そして、自分がこなしてきた作業と、父親の死を負いながら汚腐呂を掃除した男性の心労・労苦を重ねて、特掃魂の温度を上げていった。
現地調査の日。
都合が合わなかった男性は、現地に来ず。
鍵はポストに隠してあり、私は、それを使って玄関を開錠。
そして、誰もいるはずのない室内に小声で挨拶し、足を踏み入れた。
話に聞いていた通り、家財生活用品の類はすべて処分され、部屋は空っぽ。
清掃も行き届いており、部屋の隅々から窓・流し台、換気扇のプロペラにいたるまでピカピカ。
それは、不動産会社や大家の心象を少しでも良くしようと男性が努力したことを表しており、私の特掃魂は更なる熱を帯びてきた。
しかし、見た目はきれいでも、室内には、軽い異臭が残留。
それは、やはり、普通のアパートには有り得ないニオイだった。
続いて、浴室の扉を開けると、異臭はその濃度をUP。
それは、やはり、一般の人には嗅がせられないニオイだった。
この消臭作業が、一朝一夕にいかないことは既に明白。
私は、目指すゴールに向かうために必要なプロセスを頭の中に探しながら、浴室のあちこちに鼻を近づけた。
一通りの調査を終えた私は、外に出て小休止。
見上げる空は青く広がり、風は冷たくも日差しは暖かく、平穏で気持ちのいいひとときが私に与えられた。
そんな中で頭に過ぎるのは、生と死。
過去の夢幻性、今の不思議、不確実な将来と確実な死・・・
自分は、どこから来て、どこに向かっているのか・・・
作業のプロセスを組み立てる必要があったのだが、例によって、仕事のことはそっちのけで、そんなことばかりが頭に浮かんでは消えていった。
その日の夜、私は依頼者男性に電話。
そして、現場を観察した結果とその対策を、素人の男性でもわかるように説明した。
かかる費用も安いものではなかったが、私は、何よりも時間(日数)が必要であることを強調。
結果、男性は、月末の引き渡しにギリギリ間に合う二週間を、私に預けてくれた。
その翌日、私は、二週間後の完全消臭を目指し、消臭作業を開始。
成功する目算は高かったが、それでも、作業には相応の緊張感が伴った。
しかし、所詮は“私”。
何日目かの作業になると、自然と気が緩んできた。
人生にしろ仕事にしろ、往々にして“落とし穴”はそんなところにあるもの。
私は、発見前、故人が浴槽にいた様と、発見後、依頼者男性がそこを清掃する様を思い浮かべては、気持ちの引き締めを繰り返した。
そして迎えた最終日。
不動産会社への引渡しを翌日に控えた部屋で、私は、大きな自信とわずかな不安を抱えながら仕上作業を行った。
それから、異臭がなくなったことを慎重に確認し、最後に、“この風呂に自分が入れるかどうか”を自問。
結果、“まったく気にならない”とは言えないながらも、“入れる”との答を得た。
その答に導かれて、本作業は、目指していたゴールに到達したのであった。
人は、小さなゴール・大きなゴールを、その時々に定めて生きているのだと思う。
仕事でも学業でも、趣味でも生活でも・・・
目的や目標・・・ゴールを定めることは、大切なこと。
それがあるから、必要なプロセス(生き方)が組み立てられる。
そして、頑張れる。
しかし、定めるべきゴールが見当たらないとしたらどうだろう。
ゴールがないと、そのプロセス(生き方)はおのずと短絡的なものになる。
そうなると、生活のあらゆる隙間に虚無感が入り込む。
そして、それが深刻化すると、生きている意味を見失う。
同じ理屈で考えると、人生のゴールも見定めた方がより良く生きられるような気がしないだろうか。
では、人生のゴールとは?
やはり、“死”か・・・そう、“死”だろう。
目指そうが目指すまいが、そこが人生(地上)のゴール。
今も、そこに、否応なく向かわされているのである。
常々、その“死”を自覚することの必要と大切さを説いている私。
しかし、それが良い働きをするとは限らない。
生命や時間の貴重さを認識して、積極的・建設的・楽観的(+)に生きるきっかけになることがあれば、逆に、消極的・短絡的・悲観的(-)な思考を助長してしまうこともある。
死は、少しでも幸せに生き・楽しく過ごすための気づきを与えてくれるものなのだが、-の発想や行為からも、表面的なそれは得られてしまうものだから。
生きている過程(人生)が+であっても-であっても、死は±0(※“無”という意味ではない)。
この考えは、+の喜びも、-の悲しみも、人生に対する必要価値はまったく同じであるということを理解させてくれる。
そう・・・人生における価値は、+も-も同じなのである。
楽に生きたいけど、楽に生きられないのが人生。
楽しく生きたいけど、楽しいことばかりじゃないのが人生。
±0の死に向かって、人生には、自分の意識と力を越えたところで+と-がキチンと作用しているのだと思う。
そして、それが、絶妙のバランスによって人生を立体的に彩っているのではないだろうか。
だから、今、+に喜びを浮いていても、-に悲しみ落ちていても、それが人生の正負を決するものと勘違いしてはならないのだと思う。
辛いときは辛い、苦しいときは苦しい、悲しいときは悲しい。
だからこそ、「どうせ死ぬんだから・・・」と人生を放り投げないで、「いつかは死ぬんだから・・・」と苦悩を放り投げたい。
その辛さにも、その苦しさにも、その悲しさにも、生きている意味と、人生の価値と、命の美しさが含まれているのだから。
来るべきGoalは、±の先にあるのだから。
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特殊な清掃業務をメインに活動しております。
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