特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

カレンダー

2024-07-02 04:55:27 | その他
今日で7月も終わり、今年の夏も後半に入る。
今年の梅雨は、前半が空梅雨で後半は長雨。
東京では、昨日やっと梅雨明けしたらしい。
毎月末には過ぎたカレンダーを破り捨てるのが私の習慣。

このひと月を思い返してみると、特掃業務に追われる毎日だった。
しかも、インパクトのある内容のものが多かった(だいたい、いつもインパクトはあるけど)。
早速にでもブログに書きたい案件もあったが、現場が特定されないような配慮が必要なため、ネタとしてはしばらく寝かせておかざるを得ない。
と言う訳で、私の書く現場ネタは、しばらく寝かせておいたものがほとんど。
鮮度は落ちているかもしれないけど、腐敗ネタには鮮度も何も関係ないか(笑)。

きっちりと自分の中で線を引いている訳ではないけど、死人は人間の形をとどめているモノとそうでないモノでは気持ちが全く違う。
分かり易く説明すると、人間の形をしている死人に対しては極めて人間的に接し、そうでない死人に対してはただの物体として接するのである。
みんな同じ人間なのに、「腐っているのと腐っていないのとでは、こんなに気持ちが異なるものか」と我ながら不思議に思う。
それが正しいことなのか、正しくないことなのかは分からないけど、死体業をやっているうちに自然とそういうスタンスになってしまった。
私は、そういう冷酷?不躾?な一面も持っているのである。
ただ、この世で負った責任を果たすのみ。それだけで精一杯。

「遺体の尊厳」について展開される議論を見聞きしたことがある。
「グリーフケア」に興味を覚えた時期もある。
しかし、現実に起こっていることは机上論とは遠くかけ離れたもの。
きれい事では済まされない。
人が持つ卑しい部分が分かり易いかたちで曝け出されることもある。
まさに「地獄の沙汰も金次第」と思えるようなこともある。
腐敗現場は議論によって片付くものでもなく、遺族も理屈によって癒されるものでもない。
ましてや、死んだ人間が机上論でうかばれることも考え難い。
所詮は、コノ世の人間がどんなきれい事を吐いても、アノ世の人間のことをどうすることもできないということ。

腐乱現場に行くと、遺族に対しても「これは、ヒドイですね」「自殺ですか?」等といった、無神経にも聞こえる言葉がでてくる。
気持ち悪いときは驚嘆の声を上げるし、作業はキツイときは苦渋の言葉を吐く。
腐敗液などは私にとってはただの汚物、人ではない。
亡くなった人と目の前の汚物は物理的には同一でも、私の心情的には全くの別物。
そうは言いながらも、「汚物=故人」という概念も時々は顔を覗かせる。
腐敗液を拭きながら「もうちょっと早く見つけて欲しかったね」とか、腐敗粘土をすくいながら「今、俺がきれいにしてやるからね」とか、自殺痕を始末しながら「何で自殺なんかしちゃったの?」とか思ってしまう。霊感もないのに。
んー・・・この心情を文字にするのは難しい。

私に夏休みなんかない。
社会人になってから、夏休みなど言うものも取ったことがない。
仕事がない時が休み。
過ぎ去る7月のカレンダーを眺めながら、「明日から8月か・・・海にでも行きたいなぁ」と呑気なことを考えている。自分にも刻一刻と死に近づいていることを忘れて。


トラックバック 2006/07/31 09:52:08投稿分より
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苦悶

2024-07-01 07:21:14 | エンゼルメイク
死ぬ瞬間って、どういう感覚を憶えるものなのだろうか。
「脳内アドレナリンが大量に発生して、快感の絶頂に到る」と説いた本を読んだことがあるが、誰もその実態を知ることはできない。
私は、三十数年間の人生で一度だけ人が死ぬ瞬間を目の当たりにしたことがある。
時は幼少の頃、祖父が死んだときのことだ。
内臓疾患で闘病生活を送っていた祖父は、しばらくの闘病生活の後、意識不明の危篤に陥った。

急いで病院に駆けつけたときは、意識不明で荒い息をしていた。
皆が見守る中、最期の息をゆっくり吐いたかと思うと、もう次の息を吸うことはなくそのまま臨終した。
何分にも幼かったため、人が死ぬということがよく理解できなかったけど、祖父の最期の様子は今でも鮮明に記憶している。
黄疸で黄色く変色した身体、腕には無数の内出血の痕、柩に入った祖父の身体の冷たさと固さには、幼い私も異様な感覚を覚えたものだった。
その子が、それから十数年後には見ず知らずの屍をたくさん処置することになるなんて・・・「人生~ってぇぇぇ~不思議な、もので~すね~♪」

死ぬ瞬間って苦しくないのだろうか。
苦悶の表情を浮かべている遺体を見かけるのは、単なる偶然か。
それとも、私の先入観か。

口を開けたままの遺体、目を開けたままの遺体、そして眉間にシワを寄せて苦悶の表情を浮かべている遺体。
遺族は、安らかな死に顔を求めて「何とかならないか」「何とかしてくれ」と要望してくる。
個人的な主観では、故人のためを思って処置を求めるケースは少ないように思う。
遺体は苦悶の表情を浮かべていては、遺族も気持ち悪いのだろうか。
それとも、人目を気にしているのだろうか。
その理由を訊くことはできない。

誰が貼るのか知らないけど、TVタレントのモノマネ顔負けのセロテープ加工してある遺体も少なくない。
失礼ながら、テープのおかげで可笑しな表情を作られている遺体もある。
極端なケースだと顔にガムテープを貼って、しかもご丁寧に「はがすな!」と注意書きが付いた遺体と遭遇したこともある。
「はがすな!」と言ったって、はがさないと仕事にならない。
はがすガムテープに皮膚もくっついてくる。
本人は死んでるから文句も言わないけど、やっていて痛々しい。
しかし、テープを貼ったくらいで表情が変えられるほど人間の表情は単純なものではない。
無駄な抵抗だ。

専門の技術を使えば、開いたままの目や口を閉じることはそんなに難しいことではない。
更に特殊な技を使えば眉間のシワだって消すことができる。
ただし、目や口を閉じるだけならともかく、私の場合は安易に眉間のシワを消すことはしない。
故人の人格を否定してしまうような気がするから。
しかし、遺族の要望も簡単に無視することはできない。
したがって、私が取る策は、遺体の眉間に素手をしばらく当て続けること。
イメージとしては、シワにある布にアイロンを当てて伸ばすような感じで。
もちろん、私に念力などない。
ただただ、自分の体温を遺体に伝えるという非科学的・原始的な手法。
こんなことで完全にシワが取れることはないながらも、少しはシワが目立たないようになる遺体もある。
自分勝手に、「それくらいが調度いい」と考えている。

苦悶の表情には訳がある。
それは最期の瞬間を表しているのかもしれないし、人生そのものを表しているのかもしれない。
残され人にとって気持ちのいい表情ではないけど、それもまた故人である。
遺体の表情を変えることより、自分の心を変えることを考えた方がいいのかも。
他人(遺体)の喜びを自分の喜びとし、他人(遺体)の苦しみを自分の苦しみとできるように。


遺体というものは、生きている者に無言のメッセージを伝えてくれる。
それが苦悶の表情でも安らかな死に顔でも。
メッセージの受け取り方は人それぞれ。
どちらにしろ、やはり遺体は人間の形をしていた方がいい。

「眉間のシワより笑いジワ」と思いながらも、この猛暑についついシカメッ面をしてしまう夏である。


トラックバック 2006/07/30 08:24:57投稿分より
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