文化の秋、奈良でも規模はいろいろですが、大芸術祭と銘打って、いろんなところでイベントや展示が行われています。学校も然り。文化祭の時期です。
さて本日、小劇場のお芝居「夜よ、あけるな。」(鯨椅子プロジェクト/作、演出・だるままどか)を見て来ました。私の主宰する小町座の舞台に二度出演してくれた、高橋まこさんが出演することもあって。会場は大和郡山市の薬園八幡神社の参集殿。結婚式他に使われるであろう、広間をとてもうまく使った舞台。お酒を提供するカクテルバーの雰囲気。照明も店の空間のように、大きなスポットを使うこともなく、とてもうまく仕込んであります。どんなところでもこんな風に劇空間に立ち上げられるのは、演出家の力量だなあと感心しました。
さて、お話なんですが…好み、好まないはあるとしても、基本的な話のラインが、これでいいの?と唸るばかり…。恐怖の大王が降り、明日はこの世の最後という設定。聖地と呼ばれる、まだ他の地域に比べると滅びてないエリアの灯台の地下にあるバーが舞台。そのオーナー、家族、客のやりとりから、「海はワインのように紅く」「嫌なにおいがして」「他のエリアは全滅」「明日には恐怖の大王がふる」とのセリフから、まもなくここも滅ぶ、とわかる。が、滅ぶ前の一夜のドラマ、なのに、なんというか、ものすごく皆、他人事でかといって馬鹿騒ぎもなく、とはいえ、最後に覚悟を決めるほどの何もなく…なんというか、はあ?と見ている方は感じてしまうわけです。
例えば、全てのことがわかって、意図的に平常心を保つ仕掛けがある本というわけでもないのです。というか、世界が破綻しているのに、あり得ないシチュエーションがあまりに多くて。
例えば、バーで小説を書いている、ニマキという女性がいます。その原稿を集配に郵便配達員が来るのですが、どこも崩壊しているのに、もちろん、出版も、なのに、原稿を取りにくる、この段階でまず、ズレた感じがします。もしか、小説を書くニマキと配達員が虚構の中で遊ぶというのなら、わかるのです。二人で別の次元空間を作っているなら、成り立つかとも思う。ところが、二人とも、バーにいるメンバーとして、普通に会話し、同じ時間軸の中にいるので、一体あなたたちは何なのですか?と思うわけです。また、こうした小説家と同じキャラクターとして、大学の教授に銀行員、報道写真家など、いかにも何かを持ってそうな人たちが客として来るのですが、何の印象も、彼らの人生が何物かも全く見えないのです。報道写真家という設定にも、なぜ?と思いました。彼女は「私は私が一番好き」というセリフを言います。なるほど、それはとても「今」を表しているなと思いました。おそらく、この芝居そのものが、そのセリフに集約されてくるのかもしれません。
本当に「最後の一夜」となった時、さて、本当に私たちは何を語るのか…そう思いながら劇を見ると、なんだか、全てがズレてきてしまうのです。
そして最後、伝説のバーテンダ-が登場します。このバーテンダーが登場人物全員にカクテルを作ります。本当に作るので時間もかかりました。実際作るのは良いとして…「伝説のバーテンダー」が登場した時、ここのシーンは本来、笑うところではないのか、と思いました。とにかく、キャストの方が「伝説」を背負えないのです。これはキャストの方の問題でなく、セリフとキャスティングの問題です。見終わって、ああ、きっと、この作者は最後の一夜に「おいしいお酒」が吞みたいのだろうな、と思いました。もしかそうなら、あれこれ、いかにも何か背負っていそうで、実は何も背負ってなかった登場人物を沢山出すより、本当に素敵な最後の一杯のお話を、見たかったなと思いました。
80年代の世紀末に流行った言葉で、現代の終末感はもう出せないのです。いえ、どちらかというと、「恐怖の大王」と言っていたころよりも、もっと普通に恐怖は暮らしの中にあると思います。セリフのイメージが古いのです。
それにしても選曲の素晴らしかったこと。演出家としての力量を思います。だからなおのこと、本が残念。
さて、同じ日の午前中、高校生の息子の文化祭の舞台発表を見ました。少しハンデがある生徒たちの発表ですが、この夏の「リオ・オリンピック」の場面を構成しての舞台。指導された先生方のご苦労を思うのは、生徒それぞれの力、得意不得意がある中で、より力が発揮できるよう、場面を設定なさっていることに感心して見ました。面白かったのは、水泳の再現。長机に生徒さんが一人のって、泳ぐ芝居をするのですが、その机に台車がついていて、生徒さんが押して進むのですが、それで泳いでいる風に見えます。私は子どもの時、土曜日の夜のドリフターズの舞台がとても好きでしたが、そんなアナログの手作りの面白さ。生徒たちも一生懸命です。
以上、二つの舞台を見ながら、全く比較すべきものでもないのですが、一体、自分たちが何を見ているのか、どんな時間を共有できるのか、考えながらの1日でした。
さて本日、小劇場のお芝居「夜よ、あけるな。」(鯨椅子プロジェクト/作、演出・だるままどか)を見て来ました。私の主宰する小町座の舞台に二度出演してくれた、高橋まこさんが出演することもあって。会場は大和郡山市の薬園八幡神社の参集殿。結婚式他に使われるであろう、広間をとてもうまく使った舞台。お酒を提供するカクテルバーの雰囲気。照明も店の空間のように、大きなスポットを使うこともなく、とてもうまく仕込んであります。どんなところでもこんな風に劇空間に立ち上げられるのは、演出家の力量だなあと感心しました。
さて、お話なんですが…好み、好まないはあるとしても、基本的な話のラインが、これでいいの?と唸るばかり…。恐怖の大王が降り、明日はこの世の最後という設定。聖地と呼ばれる、まだ他の地域に比べると滅びてないエリアの灯台の地下にあるバーが舞台。そのオーナー、家族、客のやりとりから、「海はワインのように紅く」「嫌なにおいがして」「他のエリアは全滅」「明日には恐怖の大王がふる」とのセリフから、まもなくここも滅ぶ、とわかる。が、滅ぶ前の一夜のドラマ、なのに、なんというか、ものすごく皆、他人事でかといって馬鹿騒ぎもなく、とはいえ、最後に覚悟を決めるほどの何もなく…なんというか、はあ?と見ている方は感じてしまうわけです。
例えば、全てのことがわかって、意図的に平常心を保つ仕掛けがある本というわけでもないのです。というか、世界が破綻しているのに、あり得ないシチュエーションがあまりに多くて。
例えば、バーで小説を書いている、ニマキという女性がいます。その原稿を集配に郵便配達員が来るのですが、どこも崩壊しているのに、もちろん、出版も、なのに、原稿を取りにくる、この段階でまず、ズレた感じがします。もしか、小説を書くニマキと配達員が虚構の中で遊ぶというのなら、わかるのです。二人で別の次元空間を作っているなら、成り立つかとも思う。ところが、二人とも、バーにいるメンバーとして、普通に会話し、同じ時間軸の中にいるので、一体あなたたちは何なのですか?と思うわけです。また、こうした小説家と同じキャラクターとして、大学の教授に銀行員、報道写真家など、いかにも何かを持ってそうな人たちが客として来るのですが、何の印象も、彼らの人生が何物かも全く見えないのです。報道写真家という設定にも、なぜ?と思いました。彼女は「私は私が一番好き」というセリフを言います。なるほど、それはとても「今」を表しているなと思いました。おそらく、この芝居そのものが、そのセリフに集約されてくるのかもしれません。
本当に「最後の一夜」となった時、さて、本当に私たちは何を語るのか…そう思いながら劇を見ると、なんだか、全てがズレてきてしまうのです。
そして最後、伝説のバーテンダ-が登場します。このバーテンダーが登場人物全員にカクテルを作ります。本当に作るので時間もかかりました。実際作るのは良いとして…「伝説のバーテンダー」が登場した時、ここのシーンは本来、笑うところではないのか、と思いました。とにかく、キャストの方が「伝説」を背負えないのです。これはキャストの方の問題でなく、セリフとキャスティングの問題です。見終わって、ああ、きっと、この作者は最後の一夜に「おいしいお酒」が吞みたいのだろうな、と思いました。もしかそうなら、あれこれ、いかにも何か背負っていそうで、実は何も背負ってなかった登場人物を沢山出すより、本当に素敵な最後の一杯のお話を、見たかったなと思いました。
80年代の世紀末に流行った言葉で、現代の終末感はもう出せないのです。いえ、どちらかというと、「恐怖の大王」と言っていたころよりも、もっと普通に恐怖は暮らしの中にあると思います。セリフのイメージが古いのです。
それにしても選曲の素晴らしかったこと。演出家としての力量を思います。だからなおのこと、本が残念。
さて、同じ日の午前中、高校生の息子の文化祭の舞台発表を見ました。少しハンデがある生徒たちの発表ですが、この夏の「リオ・オリンピック」の場面を構成しての舞台。指導された先生方のご苦労を思うのは、生徒それぞれの力、得意不得意がある中で、より力が発揮できるよう、場面を設定なさっていることに感心して見ました。面白かったのは、水泳の再現。長机に生徒さんが一人のって、泳ぐ芝居をするのですが、その机に台車がついていて、生徒さんが押して進むのですが、それで泳いでいる風に見えます。私は子どもの時、土曜日の夜のドリフターズの舞台がとても好きでしたが、そんなアナログの手作りの面白さ。生徒たちも一生懸命です。
以上、二つの舞台を見ながら、全く比較すべきものでもないのですが、一体、自分たちが何を見ているのか、どんな時間を共有できるのか、考えながらの1日でした。