なぜか…子どものころからポーランドに興味があったのは、ノーベル賞を二度受賞した、あのキュリー夫人の故国であったことが始まりだったように思います。児童書のマリー・キュリーの話を何度読んだことでしょう。それから…ショパン。家にたまたまあったのが、1896年、十九世紀!末に生まれのピアニスト、アレキサンダー・ブライロフスキーのショパンのポロネーズ2曲、軍隊と英雄。なんというか…今聞けば、本当に昔の演奏で、ただ、これが私の一番初めのショパン体験で、こういう昔の音が馴染むと、好きになるものの時代背景が、そのあたり、十九世紀末から20世紀初頭のものに、必然、なっていきます。グレタ・ガルボにデートリッヒに…小学六年生で手に入れたのが、この伝説の美女の写真集なんて…やはりかなり偏ってるなあと我ながら思います。
ポーランドは他国に占領されていた悲劇の歴史を持ちます。その悲しみをショパンも弾いたのですが、そういう、何か辛いもの、悲しいものを背負うところには、何かしら、生まれてくるものに、陰影と深みがあります。ショパンの次に出会ったポーランドの巨匠が二人、演劇のタデウシュ・カントールと映画のアンジェ・ワイダ。カントールは「死の演劇」を標榜する大演劇人。まあなんとも、前衛でかっこよくて、しかも国の悲しみも背負うような、すごい演劇人です。これはまたの機会に。
で、ポーランドを代表する映画監督が、アンジェ・ワイダ。私は10代の終わりから20代にかけて、丁度町の映画館でも見られる機会がありました。80年代は今と違って、マイナーな洋画も割合、小屋にかけられて、それを見ることのできるいい時代でした。ワイダ作品は、抵抗三部作といわれる作品が有名で、「灰とダイヤモンド」の有名なシーン、兵士に銃撃されて青年が白いシーツの中に倒れ込むシーンは、まるでイコン画のように伝説的で…。
ワイダ監督の生きた時代のポーランドは、戦前はナチスによる占領、戦後はソ連による支配と、政治力学が国を左右するただ中にいました。映画を作る時も、そこがいつも必然となります。当時、まだ東西ドイツの壁がある中で、ポーランドの連帯の動きを映画にした「鉄の男」(1981)など、今、自分の国で起きていることを、ワイダは作品にしました。当然、当局からは弾圧も受けます。西側諸国で認められても、東側では認められない。イデオロギーの対立で本来、芸術の良し悪しが決まるはずもない、けれどもそういう厳しい現実と格闘しながら作品を作り続けた監督。政治色の強い映画だからといって、プロパガンダ映画ではなく、胸を打たれるのは、ポーランドに生きる人たちの、真面目さ強さ、大らかさ、、必死に与えられた場で生きる人たちの絵が、しっかり大きなフォルムとなって描かれているからでしょう。
母国が長年、大国の影響を受け、苦労してたきた歴史を持つことを自覚する監督は、大の親日家でもあります。以下、東日本大震災の時にワイダ監督から送られたメッセージを抜粋します。(ポーランド広報センター HPより)
「ポーランドのテレビに映し出される大地震と津波の恐るべき映像。美しい国に途方もない災いが降りかかっています。それを見て、問わずにはいられません。「大自然が与えるこのような残酷非道に対し、人はどう応えたらいいのか」
「私はこう答えるのみです。「こうした経験を積み重ねて、日本人は強くなった。理解を超えた自然の力は、民族の運命であり、民族の生活の一部だという事実を、何世紀にもわたり日本人は受け入れてきた。今度のような悲劇や苦難を乗り越えて日本民族は生き続け、国を再建していくでしょう」
「日本の友人たちよ。あなた方の国民性の素晴らしい点はすべて、ある事実を常に意識していることとつながっています。すなわち、人はいつ何時、危機に直面して自己の生き方を見直さざるをえなくなるか分からない、という事実です。」
「それにもかかわらず、日本人が悲観主義に陥らないのは、驚くべきことであり、また素晴らしいことです。悲観どころか、日本の芸術には生きることへの喜びと楽観があふれています。日本の芸術は人の本質を見事に描き、力強く、様式においても完璧です。」
さて、実は奈良町にぎわいの家で、私はこの夏、「アンジェ・ワイダ」体験をしました。外国のお客様で、リュックを背負いタンクトップの若い女性がいました、外国の方にいつもフレンドリーなスタッフが声をかけると「ポーランド」から来たとのこと。思わず私は「アンジェ・ワイダ!」というと、彼女も「アンジェ・ワイダ!」と返してくれました。奈良の町家でまさか、自分の国の映画監督の名前を聞くとも思わなかったのかも、本当に喜んでくれました。こんな若い女性が、自分たちの国を代表する監督の名前をきちんと心に持ち、伝えられる…。果たして、日本の若者が少なくとも「黒澤明」を海外で語れるのか…と思いながらの、町家「アンジェ・ワイダ」体験。作品と再会したいと思いつつ。監督のご冥福をお祈りします。
ポーランドは他国に占領されていた悲劇の歴史を持ちます。その悲しみをショパンも弾いたのですが、そういう、何か辛いもの、悲しいものを背負うところには、何かしら、生まれてくるものに、陰影と深みがあります。ショパンの次に出会ったポーランドの巨匠が二人、演劇のタデウシュ・カントールと映画のアンジェ・ワイダ。カントールは「死の演劇」を標榜する大演劇人。まあなんとも、前衛でかっこよくて、しかも国の悲しみも背負うような、すごい演劇人です。これはまたの機会に。
で、ポーランドを代表する映画監督が、アンジェ・ワイダ。私は10代の終わりから20代にかけて、丁度町の映画館でも見られる機会がありました。80年代は今と違って、マイナーな洋画も割合、小屋にかけられて、それを見ることのできるいい時代でした。ワイダ作品は、抵抗三部作といわれる作品が有名で、「灰とダイヤモンド」の有名なシーン、兵士に銃撃されて青年が白いシーツの中に倒れ込むシーンは、まるでイコン画のように伝説的で…。
ワイダ監督の生きた時代のポーランドは、戦前はナチスによる占領、戦後はソ連による支配と、政治力学が国を左右するただ中にいました。映画を作る時も、そこがいつも必然となります。当時、まだ東西ドイツの壁がある中で、ポーランドの連帯の動きを映画にした「鉄の男」(1981)など、今、自分の国で起きていることを、ワイダは作品にしました。当然、当局からは弾圧も受けます。西側諸国で認められても、東側では認められない。イデオロギーの対立で本来、芸術の良し悪しが決まるはずもない、けれどもそういう厳しい現実と格闘しながら作品を作り続けた監督。政治色の強い映画だからといって、プロパガンダ映画ではなく、胸を打たれるのは、ポーランドに生きる人たちの、真面目さ強さ、大らかさ、、必死に与えられた場で生きる人たちの絵が、しっかり大きなフォルムとなって描かれているからでしょう。
母国が長年、大国の影響を受け、苦労してたきた歴史を持つことを自覚する監督は、大の親日家でもあります。以下、東日本大震災の時にワイダ監督から送られたメッセージを抜粋します。(ポーランド広報センター HPより)
「ポーランドのテレビに映し出される大地震と津波の恐るべき映像。美しい国に途方もない災いが降りかかっています。それを見て、問わずにはいられません。「大自然が与えるこのような残酷非道に対し、人はどう応えたらいいのか」
「私はこう答えるのみです。「こうした経験を積み重ねて、日本人は強くなった。理解を超えた自然の力は、民族の運命であり、民族の生活の一部だという事実を、何世紀にもわたり日本人は受け入れてきた。今度のような悲劇や苦難を乗り越えて日本民族は生き続け、国を再建していくでしょう」
「日本の友人たちよ。あなた方の国民性の素晴らしい点はすべて、ある事実を常に意識していることとつながっています。すなわち、人はいつ何時、危機に直面して自己の生き方を見直さざるをえなくなるか分からない、という事実です。」
「それにもかかわらず、日本人が悲観主義に陥らないのは、驚くべきことであり、また素晴らしいことです。悲観どころか、日本の芸術には生きることへの喜びと楽観があふれています。日本の芸術は人の本質を見事に描き、力強く、様式においても完璧です。」
さて、実は奈良町にぎわいの家で、私はこの夏、「アンジェ・ワイダ」体験をしました。外国のお客様で、リュックを背負いタンクトップの若い女性がいました、外国の方にいつもフレンドリーなスタッフが声をかけると「ポーランド」から来たとのこと。思わず私は「アンジェ・ワイダ!」というと、彼女も「アンジェ・ワイダ!」と返してくれました。奈良の町家でまさか、自分の国の映画監督の名前を聞くとも思わなかったのかも、本当に喜んでくれました。こんな若い女性が、自分たちの国を代表する監督の名前をきちんと心に持ち、伝えられる…。果たして、日本の若者が少なくとも「黒澤明」を海外で語れるのか…と思いながらの、町家「アンジェ・ワイダ」体験。作品と再会したいと思いつつ。監督のご冥福をお祈りします。