ことのはのはね~奈良町から

演劇、アート、短歌他、町家での出会いまで、日々を綴ります。

梅若六郎玄祥(人間国宝) 新作能 「冥府行~ネキア」鑑賞 

2016-10-12 | 演劇
待ちに待った!?玄祥先生の新作能。10/11に京都観世会館で行われました。この「冥府行~ネキア」は、昨年の7月にギリシャの野外劇場で公演されたもので、ギリシャ古典ホメロスの叙事詩が原作で、演出もギリシャ人とまあ、国際色豊かなもの。なぜ、そんな素敵な舞台にご招待していただけたかというと…この能楽をプロデュースしている、西尾智子先生とのお付き合いからなのですが…西尾先生との話をするといろいろと沢山ありすぎて…まずは三十年前に遡り…出会った頃は、3人のお子さんを育てながら主婦プロデューサーとして、私の舞台を新神戸オリエンタル劇場でプロデュースして下さいました。それからの活躍はめざましく、まずは、バレエの熊川哲也のブームを作り、NHKホールのプロデューサーとしてバレエに能、狂言、音楽などの企画運営をされ…そして今は、日本が世界に誇る、人間国宝、梅若六郎玄祥先生の、舞台プロデュースと並の方ではありません。並の方ではありませんが、私は西尾先生が子育てなさっていたころからのお付き合いなので、母目線というか、パワフルな母性というか、このあたりがとても好きなのです。例えば「ちゃんとご飯食べた?」みたいなところ。単に私のキャリアすごいでしょう、みたいなタイプのプロデューサーでなくて、生きることの中に、美しいものを愛でて楽しむといった、暮らしをふまえての余裕とエレガント、そんな感じでしょうか。こういう視点に通じるのは、フランスの貴族社会でのサロンを思います。芸術、美の支援者ですね。玄祥先生はもちろん凄いですが、その裏側を支える西尾先生のパワフルさがなければ、このたびのギリシャ公演の成功はなかったでしょう。
で、私は随分前に、西尾先生からこの新作能のテレビ番組をもらっていて、それを見てからの、今回の舞台。そもそも、ギリシャ・エピダウロス古代劇場での公演は、ロケーションそのものが、まるで演劇的で、そこに立てばもう、芝居が始まるといった感じです。よくまあ、この広さを玄祥先生始め、お弟子さんたちは演じられたこと…とため息がでます。それくらい広い。また、この劇場がある村は普段は400人しか住んでいないというのに、この能公演には1万人以上が駆けつけたというからびっくり。公演のあった昨年の7月は、ギリシャ情勢がよくなかったはず。なのに、舞台にはかけつけるギリシャのお客様、さすが、ギリシャ悲喜劇を生んだ末裔です。
この広い劇場での能を、いわゆる能舞台で再構成したものが、このたびの企画。私はテレビ番組の印象が強くて、また、出演者も多いので、能舞台にあわせるのは苦心なさっただろうなと思いました。コロス、冥界の精霊たちが、白く輝く球、魂の象徴のような、を持っているのですが、これがなんとも舞台道具として利いていて、いいなあ、と。このことは以前、玄祥先生にもお伝えしたのですが、野外でのこの「魂」の輝きは、なんとも象徴的だったろうと思います。
今回、特に思ったのは、今、奈良で現代アートをしているから、余計に実感するかもしれませんが、とにかく、能は大変な様式をもった現代アート、の一つに見えました。お衣装はもちろん美術品ですが、とにかく動き、所作、舞…歩くだけでも、アート。だから外国の方にも好まれるのかなと思います。
一方、物語を伝えるには、「詞」がいります。今回の本も、本当に苦労されて、よく書かれたなあと、ひたすら感服します。
昔は、この「詞」こそがエンターテイメントの一つで、いわゆる演劇のセリフとして、ドラマを伝えるものでした。ところが、現代人には、一般的に難しい、これは仕方ありません。能を見て眠くなる…のはやはり文語が遠いものになっているからです。けれども、この「詞章」を口語にしても、成り立つのか、といったらどうでしょう。もしか、今の私たちの話言葉で、能をとなったら、それは「能」といえるのか?という問題にぶち当たります。挑戦の余地はあるような気もしますが、玄祥先生なら、なんとおっしゃるでしょうか。
西尾先生のお話に戻ります。西尾先生は大物キラー?!で、そこもすごい才能なんですが、この舞台の前にご挨拶したのが、日本を代表する哲学者、梅原猛先生。猿之助歌舞伎の「ヤマトタケル」の作者といった方がわかりやすいですかね。九十超えても、いつもお声にはりがあり、すごいなと思います。西尾先生は世界を代表する芸術家、例えば、20世紀を代表する、ボリショイ・バレエの伝説のプリマ、マイヤ・プリセツカヤなど、そうそうたる人たちが、すぐに西尾先生の虜になります。
そんな西尾先生、十年前、小町座を立ち上げた時、奈良にトークに来て下さいました。また、是非、機会があれば、にぎわいの家でもお話を、低予算で?!と思っています。能体験ができるのも、本当に西尾先生のおかげ。勉強させてもらっています。
さて、以下の西尾先生との写真は、奈良は多武峰の談山能のときのもの。この談山能の梅若先生の舞は、大和の空気のはるけさを大いに感じる舞で、大感激したのを覚えています。能や舞に詳しくない私がほう、とするのですから、能のお好きな方は、至福の時間だったことでしょうね。多武峰の談山能は毎年、演者演目変わりますが必見ですよ。

     ギリシャで。左から西尾先生、玄祥先生、マルマリノス(演出家) 談山神社で。

 


映画監督 アンジェ・ワイダ 死す

2016-10-10 | 映像
なぜか…子どものころからポーランドに興味があったのは、ノーベル賞を二度受賞した、あのキュリー夫人の故国であったことが始まりだったように思います。児童書のマリー・キュリーの話を何度読んだことでしょう。それから…ショパン。家にたまたまあったのが、1896年、十九世紀!末に生まれのピアニスト、アレキサンダー・ブライロフスキーのショパンのポロネーズ2曲、軍隊と英雄。なんというか…今聞けば、本当に昔の演奏で、ただ、これが私の一番初めのショパン体験で、こういう昔の音が馴染むと、好きになるものの時代背景が、そのあたり、十九世紀末から20世紀初頭のものに、必然、なっていきます。グレタ・ガルボにデートリッヒに…小学六年生で手に入れたのが、この伝説の美女の写真集なんて…やはりかなり偏ってるなあと我ながら思います。
ポーランドは他国に占領されていた悲劇の歴史を持ちます。その悲しみをショパンも弾いたのですが、そういう、何か辛いもの、悲しいものを背負うところには、何かしら、生まれてくるものに、陰影と深みがあります。ショパンの次に出会ったポーランドの巨匠が二人、演劇のタデウシュ・カントールと映画のアンジェ・ワイダ。カントールは「死の演劇」を標榜する大演劇人。まあなんとも、前衛でかっこよくて、しかも国の悲しみも背負うような、すごい演劇人です。これはまたの機会に。
で、ポーランドを代表する映画監督が、アンジェ・ワイダ。私は10代の終わりから20代にかけて、丁度町の映画館でも見られる機会がありました。80年代は今と違って、マイナーな洋画も割合、小屋にかけられて、それを見ることのできるいい時代でした。ワイダ作品は、抵抗三部作といわれる作品が有名で、「灰とダイヤモンド」の有名なシーン、兵士に銃撃されて青年が白いシーツの中に倒れ込むシーンは、まるでイコン画のように伝説的で…。
ワイダ監督の生きた時代のポーランドは、戦前はナチスによる占領、戦後はソ連による支配と、政治力学が国を左右するただ中にいました。映画を作る時も、そこがいつも必然となります。当時、まだ東西ドイツの壁がある中で、ポーランドの連帯の動きを映画にした「鉄の男」(1981)など、今、自分の国で起きていることを、ワイダは作品にしました。当然、当局からは弾圧も受けます。西側諸国で認められても、東側では認められない。イデオロギーの対立で本来、芸術の良し悪しが決まるはずもない、けれどもそういう厳しい現実と格闘しながら作品を作り続けた監督。政治色の強い映画だからといって、プロパガンダ映画ではなく、胸を打たれるのは、ポーランドに生きる人たちの、真面目さ強さ、大らかさ、、必死に与えられた場で生きる人たちの絵が、しっかり大きなフォルムとなって描かれているからでしょう。
母国が長年、大国の影響を受け、苦労してたきた歴史を持つことを自覚する監督は、大の親日家でもあります。以下、東日本大震災の時にワイダ監督から送られたメッセージを抜粋します。(ポーランド広報センター HPより)

「ポーランドのテレビに映し出される大地震と津波の恐るべき映像。美しい国に途方もない災いが降りかかっています。それを見て、問わずにはいられません。「大自然が与えるこのような残酷非道に対し、人はどう応えたらいいのか」
「私はこう答えるのみです。「こうした経験を積み重ねて、日本人は強くなった。理解を超えた自然の力は、民族の運命であり、民族の生活の一部だという事実を、何世紀にもわたり日本人は受け入れてきた。今度のような悲劇や苦難を乗り越えて日本民族は生き続け、国を再建していくでしょう」
「日本の友人たちよ。あなた方の国民性の素晴らしい点はすべて、ある事実を常に意識していることとつながっています。すなわち、人はいつ何時、危機に直面して自己の生き方を見直さざるをえなくなるか分からない、という事実です。」
「それにもかかわらず、日本人が悲観主義に陥らないのは、驚くべきことであり、また素晴らしいことです。悲観どころか、日本の芸術には生きることへの喜びと楽観があふれています。日本の芸術は人の本質を見事に描き、力強く、様式においても完璧です。」


さて、実は奈良町にぎわいの家で、私はこの夏、「アンジェ・ワイダ」体験をしました。外国のお客様で、リュックを背負いタンクトップの若い女性がいました、外国の方にいつもフレンドリーなスタッフが声をかけると「ポーランド」から来たとのこと。思わず私は「アンジェ・ワイダ!」というと、彼女も「アンジェ・ワイダ!」と返してくれました。奈良の町家でまさか、自分の国の映画監督の名前を聞くとも思わなかったのかも、本当に喜んでくれました。こんな若い女性が、自分たちの国を代表する監督の名前をきちんと心に持ち、伝えられる…。果たして、日本の若者が少なくとも「黒澤明」を海外で語れるのか…と思いながらの、町家「アンジェ・ワイダ」体験。作品と再会したいと思いつつ。監督のご冥福をお祈りします。


「テイチクうたものがたり」第2回稽古

2016-10-09 | にぎわいの家・奈良関連
この三連休、奈良町にぎわいの家では多くのお客様が来館されています。今、時間を決めて、どこから来られているかをお客様に聞いているのですが、三分の一は外国のお客様で、フランス、ベルギー、モロッコ!など、改めて、世界は広い!と感心しています。
そんな中での朗読劇の稽古。「テイチクものがたり」はレコード会社「テイチク」の創生期を書き下ろしました。昭和の初期に創立ですから、戦前、戦後の唄を朗読の中に入れています。「丘を越えて」「東京ラプソディ」「二人は若い」などなど、出演者が歌うのですが、もちろん、リアルタイムで知っている方は誰もいません。が、調子がよく、メロディラインもわかりやすいので、すぐに覚えてもらえた?と思います。
朗読劇ですが、今回、お芝居というよりは、テイチクの紹介ですので、ナレーション的な語りが多いのです。その語りの中に劇中劇が入るような構成で、誰が見てもわかる内容となっています。
出演メンバーは、ラジオのパーソナリティの方もいれば、演劇経験者、全くの始めての方まで計七人の女性からなります。レベルも違うので、こちらの演技の要求ももちろんそれぞれに違いますが、全く未経験の方が、自分の声を素直に出し、ものおじせずに、伸びやかに語る芝居を見ると、なんとも嬉しく心の栄養になります。全体の調子を整え、テンポをそろえていくのは、私の仕事ですが、後5回の稽古でさて、どこまでいけますでしょう?!
また、当館の受付の方が教えてくれたのですが、実際にテイチクにお勤めだった方が、見に来るねとわざわざ言いに来てくださったとのこと。そんな声も有り難く、さて、どう料理しようかな?と、劇中の懐メロを聴きながら、歌の振付など考えている秋の夜長でございます。(写真は第1回稽古風景・初見で緊張?!)


とと姉ちゃん&昭和43年発行「暮らしの手帖」第96号

2016-10-03 | アート
朝ドラ上半期「とと姉ちゃん」が終わりました。「暮らしの手帖」社主の大橋鎮子さんをモデルに書かれたドラマ。フィクションとなっていますが、「暮らしの手帖」がモデルになっていることには変わらず。ドラマの印象としては、モデルとなった大橋さんの生き方をなぞったけれども、全体に味が薄い感じは否めません。最終回間際、ドラマの中で編集長の遺言とも言うべき、戦争特集号が発刊されます。その特集号を「好評でよく売れた」という内容のナレーションが流れました。確かに「好評」だから売れるのですが、私はこの言葉使いになんだか違和感を覚えました。「戦争特集号」は「好評」で売れたというよりも、声に出せなかった言葉が、本という形を通してやっと出せた、切羽詰まった声があったからではないでしょうか。戦時を生き抜いた、共感と反省があったからこそ、「売れた」のではないか。ですから、「好評で売れた」という言葉では、あまりに平たく感じてしまうのです。
もちろん、戦争体験のない世代の書く脚本が、リアリティがなく、平たく嘘っぽくなる、というのではありません、。同じ朝ドラの「カーネーション」や「ごちそうさん」は、当時の声につながる感覚が良く書けていたと思います。自分の好きなもの、大事にしたいものを全く無視し傷つける「戦争」の正体を、この二つのドラマはヒロインが暮らしの中から知りました。勉強として学ぶのでなく、衣食住から「平和」を知っていった…。そんな姿を見ながら、テレビの前でドラマだと知りながら、頑張れ!と応援しておりました。
さて、「とと姉ちゃん」のその戦争特集号のモデル?は昭和43年に発行された「暮らしの手帖96特集 戦争中の暮らしの記録」です。ドラマのセリフにもあったように、一冊丸ごと、戦争の記録、しかも読者からの寄稿なのです。
私はこの本のことを知ったのは、4年前、歌人の水野智子さんのご自宅に行った時に、見せていただいたのが始まりでした。小町座で、親子を対象に「奈良に疎開に来て」という一人芝居をするにあたり、水野さんに親子の前で、ご自身の疎開体験を語ってもらう、という企画準備のため、お宅に伺ったのです。水野さんはとても大切な本だ、と言われました。まさにそうで、ここには教科書では記されない、生の歴史の声がありました。なんとしてもほしいと探して手に入れた本…。そこには、読者の綴った体験もさることながら、感動を覚えた一文がありました。それは、編集長、花森安治が書いたと思われる一文です。声に出して読みたい。以下、まま、うつします。
「暮らしの手帖96特集 戦争中の暮らしの記録」53頁

●この後に生まれてくる人に

君は四十才をすぎ、五十をすぎ、あるいは六十も、それ以上もすぎた人が、生まれてはじめて、ペンをとった文章というものを、これまでに、読んだことがあるだろうか。 
いま、君が手にしている、この一冊は、おそらく、その大部分が、そういう人たちの文章で、うずまっているのである。
これは、戦争中の暮らしの記録である。
その戦争は、一九四一年(昭和十六年)十二月八日にはじまり、一九四五年(昭和二十年)八月十五日に終わった。
それは言語に絶する暮らしであった。その言語に絶する明け暮れのなかに、人たちは、体力と精神力のぎりぎりまでもちこたえて、やっと生きてきた。親を失い、兄弟を失い、夫を失い、子を失い、そして、青春をうしない、それでも生きてきた。家を焼かれ、財産を焼かれ、夜も、朝も、日なかも、飢えながら、生きてきた。
しかも、こうした思い出は、一片の灰のように、人たちの心の底ふかくに沈んでしまって、どこにも残らない。いつでも戦争の記録というものは、そうなのだ。
戦争の経過や、それを指導した人たちや、大きな戦闘については、ずいぶん昔のことでも、くわしく正確な記録が残されている。しかし、その戦争のあいだ、ただ、黙々と歯をくいしばって生きてきた人たちが、なにに苦しみ、なにを食べ、なにを着、どんなふうに暮らしてきたか、どんなふうに死んでいったか、どんなふうに生きのびてきたか、それについての、具体的なことは、どの時代の、どこの戦争でもほとんど、残されていない。
いま、君は、この一冊を、どの時代の、どこで読もうとしているか、それはわからない。君が、この一冊を、どんな気持ちで読むだろうか、それもわからない。
しかし、君が何とおもおうと、これが戦争なのだ。それを君に知ってもらいたくて、この貧しい一冊を、のこしてゆく。
できることなら、君もまた、君の後に生まれる者のために、この一冊を、たとえどんなにぼろぼろになっても、のこしておいてほしい。
これが、この戦争を生きてきた者としての一人としての、切なる願いである。 編集者







二つの舞台~「夜よ、あけるな。」 & 文化祭観劇

2016-10-01 | 演劇
文化の秋、奈良でも規模はいろいろですが、大芸術祭と銘打って、いろんなところでイベントや展示が行われています。学校も然り。文化祭の時期です。
さて本日、小劇場のお芝居「夜よ、あけるな。」(鯨椅子プロジェクト/作、演出・だるままどか)を見て来ました。私の主宰する小町座の舞台に二度出演してくれた、高橋まこさんが出演することもあって。会場は大和郡山市の薬園八幡神社の参集殿。結婚式他に使われるであろう、広間をとてもうまく使った舞台。お酒を提供するカクテルバーの雰囲気。照明も店の空間のように、大きなスポットを使うこともなく、とてもうまく仕込んであります。どんなところでもこんな風に劇空間に立ち上げられるのは、演出家の力量だなあと感心しました。
さて、お話なんですが…好み、好まないはあるとしても、基本的な話のラインが、これでいいの?と唸るばかり…。恐怖の大王が降り、明日はこの世の最後という設定。聖地と呼ばれる、まだ他の地域に比べると滅びてないエリアの灯台の地下にあるバーが舞台。そのオーナー、家族、客のやりとりから、「海はワインのように紅く」「嫌なにおいがして」「他のエリアは全滅」「明日には恐怖の大王がふる」とのセリフから、まもなくここも滅ぶ、とわかる。が、滅ぶ前の一夜のドラマ、なのに、なんというか、ものすごく皆、他人事でかといって馬鹿騒ぎもなく、とはいえ、最後に覚悟を決めるほどの何もなく…なんというか、はあ?と見ている方は感じてしまうわけです。
例えば、全てのことがわかって、意図的に平常心を保つ仕掛けがある本というわけでもないのです。というか、世界が破綻しているのに、あり得ないシチュエーションがあまりに多くて。
例えば、バーで小説を書いている、ニマキという女性がいます。その原稿を集配に郵便配達員が来るのですが、どこも崩壊しているのに、もちろん、出版も、なのに、原稿を取りにくる、この段階でまず、ズレた感じがします。もしか、小説を書くニマキと配達員が虚構の中で遊ぶというのなら、わかるのです。二人で別の次元空間を作っているなら、成り立つかとも思う。ところが、二人とも、バーにいるメンバーとして、普通に会話し、同じ時間軸の中にいるので、一体あなたたちは何なのですか?と思うわけです。また、こうした小説家と同じキャラクターとして、大学の教授に銀行員、報道写真家など、いかにも何かを持ってそうな人たちが客として来るのですが、何の印象も、彼らの人生が何物かも全く見えないのです。報道写真家という設定にも、なぜ?と思いました。彼女は「私は私が一番好き」というセリフを言います。なるほど、それはとても「今」を表しているなと思いました。おそらく、この芝居そのものが、そのセリフに集約されてくるのかもしれません。
本当に「最後の一夜」となった時、さて、本当に私たちは何を語るのか…そう思いながら劇を見ると、なんだか、全てがズレてきてしまうのです。
そして最後、伝説のバーテンダ-が登場します。このバーテンダーが登場人物全員にカクテルを作ります。本当に作るので時間もかかりました。実際作るのは良いとして…「伝説のバーテンダー」が登場した時、ここのシーンは本来、笑うところではないのか、と思いました。とにかく、キャストの方が「伝説」を背負えないのです。これはキャストの方の問題でなく、セリフとキャスティングの問題です。見終わって、ああ、きっと、この作者は最後の一夜に「おいしいお酒」が吞みたいのだろうな、と思いました。もしかそうなら、あれこれ、いかにも何か背負っていそうで、実は何も背負ってなかった登場人物を沢山出すより、本当に素敵な最後の一杯のお話を、見たかったなと思いました。
80年代の世紀末に流行った言葉で、現代の終末感はもう出せないのです。いえ、どちらかというと、「恐怖の大王」と言っていたころよりも、もっと普通に恐怖は暮らしの中にあると思います。セリフのイメージが古いのです。
それにしても選曲の素晴らしかったこと。演出家としての力量を思います。だからなおのこと、本が残念。

さて、同じ日の午前中、高校生の息子の文化祭の舞台発表を見ました。少しハンデがある生徒たちの発表ですが、この夏の「リオ・オリンピック」の場面を構成しての舞台。指導された先生方のご苦労を思うのは、生徒それぞれの力、得意不得意がある中で、より力が発揮できるよう、場面を設定なさっていることに感心して見ました。面白かったのは、水泳の再現。長机に生徒さんが一人のって、泳ぐ芝居をするのですが、その机に台車がついていて、生徒さんが押して進むのですが、それで泳いでいる風に見えます。私は子どもの時、土曜日の夜のドリフターズの舞台がとても好きでしたが、そんなアナログの手作りの面白さ。生徒たちも一生懸命です。

以上、二つの舞台を見ながら、全く比較すべきものでもないのですが、一体、自分たちが何を見ているのか、どんな時間を共有できるのか、考えながらの1日でした。