今日はお彼岸の入り、21日がお中日・春分の日です。昨日の暖かさは本当に春でした。いつも灯油をこの時期買い過ぎ翌年へ持ち越すので、今空になっているポリ缶1本を補充に行くか迷っています。
昨日夕方のスーパーはお彼岸特設コーナーを設けていました。お供え用のお菓子やおはぎなど売っていて、おはぎを買ってきました。
横田夫妻の記者会見も見ました。念願かなって孫とひ孫にまで会えてよかったですね。ひ孫は10か月の女児、歩行器を押して這い回っていたと滋さんは喜んでいたね。孫もひ孫も家系の丸顔だったと相好を崩しておられた。早紀江さんは「奇跡のようだ」と喜んでおられました。
早紀江さんは私と同い年でした。急に会うことになって韓国語を勉強して行かれたかな。
私は退職した翌年平成6年に済州島へ2泊旅行しました。その際ガイドの韓国外語大出の秀才お姉さんに、アンニョンハシムニカ(こんにちは)と、カムサハムニダ(ありがとう)を教えて貰いました。
早速使いまくりましたよ。その後のハワイ旅行でもノースウエスト航空の客室乗務員がコリアンアメリカンだと言いました。飛行機を降りる時、皆を送ってくれた彼女に「カムサハムニダ」と言ったら、ペラペラ・・ハセヨ!と沢山の言葉が返されました。家内がビックリして「何言ったのよ」って聞きましたっけ。
アンニョンハセヨより、少しかしこまった表現がハシムニカとありますね。
一言でも現地の言葉で接すると、現地の人々の接し方が違いますね。
対談の席にめぐみさんの姿はありませんでした。無念でしょう。
本を読むとめぐみさんは、1964年(昭和50)10月5日、日本銀行名古屋支店に勤める主人の赴任で名古屋にいたとき生まれたとあります。東京オリンピック開幕を控える頃とあります。
日銀名古屋支店は名古屋御園座の北、広い伏見通りに銀行らしいたたずまいの白い平屋のビルでした。
昭和53年私は名古屋勤務から故郷へ赴任しました。4年間名古屋にいたので同じ頃の勤務地です。故郷へ転勤すると名古屋から転勤してきたある同僚の一人の管理職が宴席で「うちのかあちゃんは日銀務めだ」と言いました。ヘエ~っと驚くと、「ただし掃除婦だ。日銀の掃除婦は身元調査の上採用される。バカにしてはいかん」とエバっていました。この方の奥さんは横田滋さんをご存じでしょうね。
めぐみさんが小学1年生の3学期広島へ、この広島時代が一番幸せだったとあります。
1976年めぐみさんが小学6年7月末、新潟へ引越し、中学1年の11月15日北朝鮮へ拉致されたのです。
転勤族の親と、学年途中に馴染んだ友達とさよならをして、そして事件に巻き込まれた。可哀想でなりません。
早紀江さんは語彙も豊富で、感情豊かにコメントされます。長い闘いの間に鍛えられたのでしょうか、頭のいい利発な女性と伺えます。お元気でお過ごしください。