・今朝の新聞、袴田事件の再審開始が認められ、即日釈放された。この決定理由が正当なら袴田さんは元プロボクサーだったという理由だけで、死刑判決を受け48年も獄につながれたとは痛ましい。あってはならないことです。
証拠ねつ造が本当なら、当時の警察、検察は厳しく断罪されるべきです。当事者はほとんど現存していないでしょう。袴田さんは私と同い年でした。
・オランダ・ハーグで開催された核保安サミットに出席された安倍首相は、「アンネ・フランクの家博物館」を訪問された。東京都内の図書館で「アンネの日記」などが相次いで破られたことに「多くの日本人は心を痛めている」と表明されたようだ。
防犯カメラの映像から本を破った変質者が逮捕されたのはよかった。警察はよくやった。犯人は”「アンネの日記」は本人が書いたものではない”と、過去にあった一部の俗説を理由に本を破ったと主張した。
一部にこの俗説が存在し、オランダでは原著の日記のインクを化学分析し、当時書かれたものに間違いなく、アンネ本人が書いたことに疑いの余地もないと結論づけている。(「アンネの日記」増補版 文芸春秋)バカな変質者がいて困ったものだ。
アンネ・フランク ファンの私はこのお粗末ブログで4編もの読書感想文をアップしていた。
・「少女アンネ--その足跡」 シュナーベル著(久米譲訳)偕成社 1978.7月刊
ユダヤ人であるがゆえにナチス・ドイツの迫害を受け15歳と9カ月の短い生涯を、強制収容所で閉じた。彼女を直接知っている人たちのなまなましい証言を訪ね歩いて記録したのがこの本。
アンネ・フランクの最期(さいご)はどんなふうだったを、この本に書いてある。
アウシュビッツ強制収容所から、衛生状態の極めて悪い、ベルゲン・ベンゼンに送られる。手洗いは、自分で穴を掘った。
2月の終わりか3月のはじめ、姉のマルゴットは長いあいだ重病でアンネより先に死んでしまう。1945年の3月上旬頃、アンネはチフスで死んだといわれている。最期の2月の証言はリース=P夫人。
約束通りある夜、鉄条網超しの柵にきたアンネに、リース=P夫人は毛のジャケットといく枚かのビスケットとお砂糖と、ニシンのかんづめの入った包みを投げる。
”すると、叫び声と泣き声が聞こえました。私は大声でたずねました。
「アンネ、どうしたの?」
するとアンネは、
「ほかの女の人があれをとっちゃってわたしにくれないの」
と泣きながら叫びかえしてきました。わたしはその女の人が足ばやににげていく音を聞きました。わたしはいいました。
「アンネ。またきてね。なにかほかにあげるものはないか、さがしてみるは・・・」
そのつぎのとき、くつ下と、ビスケットをあげましたが、そのときは、アンネはちゃんとそれをひろいました。
・・・2月のその夜から一度もアンネにあいませんでした。というのはわたしがベルゼンにいなくなったからです。・・・”
袴田さんも再審で無罪となれば、アンネのように多くの教訓を残すだろうと思いました。今日は暖かく完全に春です。
午前中ゴルフ練習へ、シニアディ割引、500円で2階打席1時間半打ちっぱなしで汗を流してきました。