たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

入院4日目以降5

2012年11月10日 | 日記

病気も吹っ飛ぶ湯上り美人 (同窓会で帰省し、姉の畑で大根引きをしました)

土曜日に4人の相部屋で1人が退院され2人が一時外泊、広い病室ががらんと私一人残され、悠々と土日を過ごしテレビもイヤホーンなしで見ました。土曜日に手術創の近くに穿刺して、喉の奥へ10センチほどの管・カテーテルを入れて廃液していたドレーンも抜かれました。点滴の補液も術後3日目の金曜日に打ち止め、抗生物質の点滴も日曜日に打ち止めになって、腕に刺された点滴用注射針も抜かれ、点滴棒を引きずって歩く必要もなく、全く身軽な身になりました。

今回の入院で点滴用に腕に刺す注射針の血管と、採血用の血管は場所が違うことを始めて教えていただきました。寝巻きの着替えを一人でやり、その動きで点滴の補液が逆流して入らなくなり、針の刺し替えの失敗もしました。ドレーン抜去でシャワーが許されました。
この病院は浴槽でなくシャワーだけです。浴槽がないのはコスト面で良い事ですが、寒い時期には患者は少し物足りません。大学病院も大学も効率性を追求される、独立大学法人となったので仕方ありません。

土曜日・日曜日は構内のホスピタルパークを散策しました。岐大の医学部を除く学部とは新堀川を挟んで橋で行き来します。車は病院・一般学部の双方ともカード式の門扉のバーで閉鎖され一般車は入れません。公共バスは珍しいイギリスから輸入した二両連結バス・タウンカーも岐阜駅前~岐大病院間を走っています。構内のバス停は岐阜大学病院正門前と横の柳戸橋、岐阜大学と3つあります。

私の家族は日曜日に若夫婦と三孫が見舞いに来て、2階の食堂へ行きました。二孫の高校生のバレーボールの試合を大垣市で見て、その帰途の立ち寄りです。義弟も丁度いい塩梅に来てくれましたのでご一緒しました。この2階食堂は岐阜グランドホテルの直営でウエイーター・ウエイトレスは黒の制服を着用し食事も高級です。コーヒーは朝行ってもモーニングサービスの付け足しはありません。コーヒーだけです。
1階の食堂は各種サービス提供の病院付属の財団法人誠仁会の経営で、コーヒーにはモーニングが付きます。

土曜日の午後ドレーンを抜いて、その後嚥下チェックと発声チェックを看護師が病室でやってくれ異常ありませんでした。心配した発声が何の障りもなく、嗄声(させい:しゃがれ声、かすれ声)にならずに感謝しています。
月曜日になり、朝、採血が4本ほどありました。術後の甲状腺ホルモンの分泌機能を調べるためです。9時ころ担当医の診察が処置室であり、もうその頃血液検査の結果が出ていたと、Drは異常なく分泌されている、ビタミンBを分泌する副甲状腺を含め、ホルモン分泌機能に問題なしと診断されました。その後の退院日程は傷口の回復、抜糸だけになり、喉に全面に貼ってあって痒くて仕方が無かった、透明幅広テープが剥がされました。

向かいのベッドへ新患が入られました。診察後の散策から帰ると隣のベッドの患者さんが一時帰宅から帰院しすぐ退院されて、お顔も会わせず一度も会話しなかったのに、私によろしくと伝言されたと、新患さんが伝えられました。
新患さんは食道がんで水曜日の手術とか、嗄声がひどくお気の毒な病態でした。ケータイ氏も帰院され病室は3人になりました。


入院4日目以降4

2012年11月09日 | 日記

もう一つ二つ要望を申し上げると
・入院したら治療計画(クリニカルパス)を行程表(ロードマップ:目標管理)で示していただくと良い。
県病院はキチンと対応されていて手術日は何日、その後を1日刻みで導尿管(フォーレ)を抜く日、廃液管(ドレーン)を抜く日、抜糸の日などを示されました。
大学病院は病気によりパスが出ることもある、と看護師が説明されたが、私にはパスは示されなかった。

・消灯時間がこの病院は22時で、ある夜、23時頃けたたましくサイレンと非常放送があり、「9階で火災発生!直ちに避難して下さい」と2、3回繰り返された。
ウトウト眠りに着いた頃でビックリして、スタッフステーション前へ行くと看護師が4、5人待機していて、「ここで待て」と制止されました。
そのうち非常階段に近い病室の患者数人が非常口の方へ行くので看護師が走って行って制止しました。誤報だろうとの予想もし、9階は最上階なので類焼被害の心配はありませんでしたが、9階は精神科の病棟なので、もしやと心配しました。数分してやはり誤報の知らせがナースに入り部屋に戻るよう指示されました。誤報の院内放送はありませんでした。聞くと時々システムが誤作動するといいます。こういう非常放送が時々あるとは困ったものです。

・もう一つは、この非常放送があった昼間に、「○○ナンバーのお車にライトが点灯しています」と院内放送がありました。数百人の患者とスタッフ、1000人近い人に車のライトの点灯ごとき放送ははたして親切なのか、無神経なのでしょうか。
「駐車違反の車が邪魔なので移動して下さい」という放送は、業務支障の命令放送なのでしかたがないでしょうが、事柄の本質が違うのではと思います。
ショピング・モールでは迷子放送はしますが、車のライト点灯は聞いた事がありません。どういう事柄を院内放送するということを、マニュアル化しておくべきでしょう。

点灯放送は亡妻の末期入院中に、JA系の病院でもありました。夜中の23時半頃、数百人の患者が皆起こされてしまったことがあります。その夜、事務局長に伝えてくれるようクレームしたら、翌日看護師長が謝りに来られました。

・後日、看護師長さんにマナーの悪い面会患者とケータイ・院内放送のことを申し出ました。師長さんは面会については患者の自覚の問題、直ちにストレートに注意すると相部屋の人間関係を阻害し言い辛い。程度問題。点灯放送もまた親切過剰か、無神経か、関係者としては微妙とのこと。ロビーマネージャーにも院内散歩の際、このことで雑談。結論は「岐阜は偉大なる田舎だねえ」と、苦笑しました。

毎日長時間面会したい患者や家族は、個室を頼むべきなのです。差額ベッドといわれる個室代は・大学病院はCが6,300円、B15,750円、A31,500円となっています。
県病院は個室A5,800円、B5,590円、特別室A21,000円、B12,600円でした。

亡妻の末期のときは、外来看護師が初めから個室を手配してくれ、アンぺラ建築で隣室の話し声が筒抜けの部屋で4,500円。これを死亡するまで8ヶ月使わせていただきました。
費用は百万円以上かかったけれど、補助ベッドを頼み、許可申請して妹と私と長男が土曜日と24時間分担して付き添いました。
がんの脊椎転移で激痛を訴える患者を見殺しにして、置いて来ぼりは人道上許されないし、膵液を時々嘔吐するので窒息する危険もあったからです。モルヒネが良く効いて眠るようになったのは死期迫る数ヶ月だけでした。

今回、退院手続きの際医療費の支払いで、お世話になった個室代6、300×2昼夜=12,600円が抜けていたので申し出ました。係りは病棟へ問い合わせて、看護上の必要で病院措置なので無料と、ありがたい措置を採っていただき感謝しています。


入院4日目以降3

2012年11月08日 | 日記

手術の傷も癒えるにしたがい、楽しみは給食になります。入院した際と退院間際栄養管理士の病室訪問が2度ありました。感想を聞くためです。こんな丁寧な応対をする病院は初めての経験です。不満は全くありません。病室で採るか、食堂で採るかはナースに希望を伝えます。手術後2日間は病室で5分粥としました。メニューの変更希望はリストバンドを機械にかざしディスプレーに表示される2種類から変更できます。これは試しませんでした。配膳もリストバンドで読み取った上で配膳され全てが電子化されていました。

栄養管理士には乏しい予算をよく工夫され毎日献立されることを感謝し、不満はありませんといいました。蛋白質のお魚、肉類の調理はムニエル風が多いねという感想です。
家では孤老のいい加減な食生活なので、病院給食はどこの病院でも変化があって大変おいしいです。

この大きな病院は地下室が全くありません。交替でロビーマネージャーを務める看護師さんに聞いたら、地盤が悪く地下室は作れなかったそうです。地下は人が歩けるくらいの柱の林立で居室はないそうです。
したがって職員食堂・看護師更衣室など皆1階です。勿論重量物のMRI等像影装置の部屋も1階です。医師の溜まり場・医局はありません。隣のビルの医学部にあるそうで、2階の渡り廊下伝いに行き来されています。
もちろん免震構造だといいました。常用の県病院は基礎部分に建物が60cm横移動する免震構造のプレートが貼ってあります。

水曜日の手術後すぐ土・日曜日を迎えました。土曜日の朝、相部屋の二人が外泊、残った一人は退院となりました。土曜退院があるようです。守衛室隣に土曜退院手続きの部屋がありました。
退院される初老の紳士が退院挨拶をされました。養老郡から来て難聴治療を受けたとか。「医師が韓国留学生を連れて来て、あなたとの会話を聞きしました。小さな島のことでいがみ合っていては駄目ですね」と嘆いておられました。

また、窓際の中年の40代と思しき、一時外泊された患者に話は及び、「現職で入院のようでケータイを頻繁にかけられ、病気と仕事と大変でしょう」と話されました。
このケータイ患者は困った人で、朝から・かかってくる・かけるがひっきりなしで同室の患者が迷惑しました。
それと奥さんが毎日面会に来て、昼過ぎから半日以上も夕食時まで長時間居て、患者である夫とボソ・ボソ病室で会話されることです。

入院案内には「面会は面会室で」となっています。この病棟には面会室/三角コーナーのデイコーナー/手術の家族待合室/広く日当たりのいいキッチンがあって、面会部屋には困らないのです。夫婦仲がよろしく緊密なのは結構なことですが、相部屋の病室では他の3人が病人なのですから、いちゃいちゃと愛情交流されては困ります。このご夫婦の非常識・入院マナーの悪さには毎日不快な思いをしました。後で看護師長に苦情を言いました。

入院案内には面会時間が「10時から~21時まで」、「面会は面会室で」という決まりす。大学病院がこの面会時間のおおらかさが、病棟管理の甘さにつながっているとしたら、一考を要します。
普通の病院は平日が14時~20時、休日が10~20時、面会時間30分が普通です。

退院された初老の紳士がこの患者のケータイマナーを直接非難はされませんでしたが、遠まわしに非難されたのだろうと思いました。
この方のお住まいの日本でも有数の中核病院、「大垣市民病院」に身内が二人勤めていて、「このように病室で患者同士が雑談・会話しても摘み出される厳しさだ」と言われました。

15年ほど前、亡妻の末期入院の際、大垣市民病院にはX線撮影室が25室あると薬の外販員が言い、姪が勤める東濃地区のJA系病院でも当時、大垣市民病院なら替わりたいと希望する医師が居ると言っていました。その話を看護実習の学生と話したので、退院患者は耳に留められたのかも知れません。


入院4日目以降2

2012年11月07日 | 日記

岐大医学部付属病院 東側眺望 9階建て屋上にドクターヘリポートがある

手術の傷口は術後2日ほど大変痛み、Drから「あれだけ大きなものを取ったのですから、少しは痛みますよ」といわれ、常飲している薬も2日分の緊急処方分が切れ、睡眠導入剤を含め7日分を処方されました。3日目くらいから傷口が治りかけて今度は痒く、透明テープを広く貼った創部を掻かないようナースさんに注意されました。想像したより大きな創部で10センチもあります。

ありがたいことに何時の入院手術でも私は良医に恵まれます。これは運もあるし、岐大医学部系の医師の質の高さもあるでしょう。今回の担当医、頭頸部外科の助教授も大変気安く話されるし、話し易い良医でした。毎日か1日置きくらいになった診察も病室でなく、処置室の診察でしたが、病室までDr自らが呼びにこられました。

「あなたを捕まえるのは大変だ」とも言われ、広く大きな病院を散歩したり、靴に履き替え、広い構内を散歩したりしました。構内には医学部の建物が隣接していますが、ここはカードがないと一般人は入れません。その隣のビルが岐阜薬科大学です。合併の話しもありましたが並立なのでしょう。

構内には広い庭の一角に献体碑がありました。医学に貢献され献体された方々の供養碑です。大きな土饅頭で天体観察のドームのように半分真ん中に切れ目が入っています。その土饅頭の真ん中に碑があり、献花の造花が供えてあり手を合わせお参りしました。その傍には実験動物供養碑もあり、これにも手を合わせました。

この病院は新しく豪華で広い建物です。県病院のある医師は「大理石造りですから・・」と半分呆れたように言われましたが、エントランスロービー、ホールは壁も床も大理石のピカピカです。病室のエレベ-ターの壁も大理石だったか?

県病院入院の時は、ある患者が「大学病院の待合室の廊下はホテルのようだ」といわれましたが、広くゆったりしています。退院して4日後、義母が91歳で、変形性膝関節症を人工関節に置き換える手術を8月末に受け入院中なので見舞いましたが、その近郊都市の民間病院は、建て増しに次ぐ建て増しで駐車場も狭く迷路のようでした。

大学病院で、まごついたことは斬新な機能的設計で、病室へ行くにも、病室からどこかへ行くにも、オープンスペースのスタッフステーション前を通らなければ、行けない設計になっていたことです。数日間は勘違いして迷いました。後で聞くと誰でも迷うのが普通だということで、スタッフステーション前を通らなければならないのは、目的があって「不審者の進入見張りや、患者の観察、見張りなど家の玄関と思ってください」と、看護師が言いました。
それと看護師や医師が病室へ短距離で直行できる動線で設計してあったことです。


入院4日目以降

2012年11月06日 | 日記

甲状腺の手術くらいで痛みに悲鳴を上げるのは恥ずかしい。大学病院は重症患者が多くて、見ていると学童以下の幼児が頭に大きな手術創を残してお母さんと散歩したりしていました。
私がお世話になった6階は耳鼻咽喉科・頭頸部外科が東病棟、対になった西病棟は眼科と脳神経外科なので頭に手術創を大きく残した老人が多く見かけられ、手術の大きさを想像しました。

手術翌朝はやれやれ一夜が明けたとういう安堵感と疲れでまた一段と痛み、スタッフに見苦しく呻きました。それと寒さでした。看護師長さんが手配してくれた個室は、建物の構造からくるのか、師長さん自らが「この部屋は寒いですね」という始末でした。
夏の時期は反対に快適だそうです。コストの関係でまだ11月のはじめは暖房を入れられず、湯たんぽなら手配できるといわれましたが、恥ずかしいので断わり、掛け布団を1枚所望しました。ガタガタ震えて夜明けを待ちました。

経過は良く、翌朝導尿カーテーテル(フォーレ)も抜かれ、肺や大腸に比べれば楽なのに、朝食、昼食とも辞退し、夕食から空腹でたまらず部屋でお粥をいただきました。

創部処置の廃液のドレーン抜去は喉という大事なところなので、長めに入れて置くと主治医に言われました。午後から痛みもとれてきて元気を取り戻しました。ドレーンを抜いたのは手術の水曜日から4日目の土曜日でした。朝、看護師が「今日あたり抜かれるかな」といいましたが、「土曜休日なのでどうかな・・」と言って、構内の長い散歩から戻ったら主治医がわざわざ出勤され私を探されたそうです。

部屋に戻って知らされ恐縮し、看護師はDrに電話を入れました。当直医に頼んできたとのこと、当直医から抜いていただきました。結構長い管が入っていて10センチ近く、手術創も10センチといわれました。頸の皺に沿って切ってあるのでそのうち目立たなくなるでしょう。

痛み止めは手術当夜に1回、翌日から2日目まで朝・夕と2回ほど処方していただき、痛みの回復も早かったと思います。

ドレーン抜去は肺が手術日から3日目の夕方、大腸は5日目に抜かれたと記録しています。両方とも硬膜外麻酔で背中に痛み止めの管を入れて、麻酔薬を網に入ったビンに入れ、肩掛けし、蒸発する薬の効果で痛み止めをしていただきました。この管の抜去も大腸が4日目、肺もそれくらいで抜いたと思います。今回は麻酔方法が違うのでこれはありません。

個室には2昼夜居て元の相部屋へ戻りました。大腸の手術当夜は看護副師長さんが面倒をみてくれ、「医師の仕事ははたが思うよりハードで厳しい職業です」と言われ、家内の末期は年末・正月を病院で過ごし、看護師は「病人に盆正月は無い」とも言われました。
医師という職業は責任も重く、勤務医はその割にギャラも安く、健康で使命感に溢れた人でないと務まらないでしょう。頭がいいだけでは医師になってはいけないのです。


入院3日目・手術当夜

2012年11月05日 | 日記

岐阜大学付属病院 今回の甲状腺はここで手術・他は岐阜県総合医療センターで手術

手術は滞りなく行われたようだ。いつの手術も全て終わると「○○さん、終わりましたよ」と、麻酔医が声をかけてくれると目が覚める。意識が戻ります。戻ったところで今回は主治医が「切除した腫瘍です。押さえてみて下さい。硬いでしょう」と、ビニール袋の結節を示された。麻酔薬で朦朧としていますが弾力ある硬い塊でした。術前に確認した壁掛け時計を見ると、4時を示していて「ありがとう、4時ですか」と確認しました。甲状腺腫瘍摘出は場所が微妙なところで、簡単なようで声の神経や嚥下を問題なく手術するには熟練を要すると、臨床科教授の主治医からも聞いていました。5時間とは結構掛かったなと思いました。

直腸は6時間くらい、肺は低侵襲の胸腔鏡ロボット手術なので7時間くらいだった。手術費を比べて見た。

部位

手術名

入院期間

手術点数

麻酔点数

費用(円)

麻酔方法

大腸

直腸低位前方切除術

17日間

60,053

14,104

741,570

硬膜外麻酔

右下葉肺がん切除術

9日間

117,932

25,420

1,433,520

硬膜外麻酔

甲状腺

右葉狭部切除術

9日間

9,605

9,541

191,460

全身麻酔

保険点数1点につき10円です(ただし、交通事故の場合は1点につき15円です)。

何の後遺症もなく肺活量が8割に落ちたくらいの肺ロボット手術は高い。甲状腺は技術を要する割りには安いねという感想です。随分お国に迷惑をかけました。

入院に当って個室か、相部屋か、希望をDrが聞かれ、よく混む病院なので相部屋でよいと答えました。手術日当夜が苦しい。肺はICUでDrが集中治療室を勧めちょうど空いていた。今回もICUをどうですか?とお聞きすると、Drは結構うるさいので休めない。お勧めしないといわれました。入院して個室を聞いたら空いてないと相部屋になった。今回は手術日当夜と次の日2昼夜は看護師長さんが個室へ入れてくれた。

手術は終わった。個室へ戻ってからが苦しい。痛い。朦朧とします。看護士さんが頻繁に血圧、脈拍を測りにきます。今度も覚悟して付き添いもなく唸っていたら、息子が仕事が終わって顔を出してくれた。声も出るし居なくてよいと帰らせた。
大変頑張って一晩を過ごし、遠慮しなくてよいと言われたがナースコールは1回もしなかった。喉の渇きが今までと違ってそれほどでなく、1回もうがいをお願いしなかった。

水が飲めるのは翌朝なのでこれが苦しい。ここの病院は鼻の酸素マスクがいいのか、麻酔が良かったのか?水・嗽を所望せずに済んだ。痛いのは当たり前です。

それと、フォーレの痛みです。" フォーレとは直径5、6ミリのゴム管で、尿道から膀胱まで届かせて留置し、管をつたってポリバッグに貯尿する医療器具、導尿です。袋状になっている先端が膀胱に入ったら、側管から蒸留水を注入して袋の先端をふくらませる。それで抜けない仕組みになっている。全身麻酔が必要となる手術患者のほぼ全員に用いられ、動けない状態や意識不明の患者にはなくてはならない排尿器具です。苦痛を訴えるのは女性に比べて尿道の長い男性で、しかも若い人ほど痛みが強い傾向にある。" 竹中文良「医者が癌にかかったとき」引用。
挿入は手術室で手術が始まった直後に入れるのであろう無意識下で行われるので、部屋へ帰ってから尿道の異物感と痛みに襲われる。

翌朝抜いてもらったが、女性ナースがぐぃっと抜かれる焼け火箸の痛みに悲鳴を上げた。その後が私はよくない。今回も覚悟したが自然排尿が困難になる。痛みと尿道閉塞となって渋って出ない。大腸の際は若いナースが夜、ヘルプして高齢の看護師に代わって、細い管を尿道に丁寧に入れ、夜中に二人が懐中電灯を照らし股間に顔を埋めてくれ、ようやくチョビ、チョビと出るようになった。

今回は自分で半日かかりで血尿を見ながら痛みに耐え、なんとか排尿し2日ほど後は先ず何とかできるようになった。主治医も教授回診でも泌尿器科のヘルプもできるので、遠慮せず申し出よと言われた。管にはグリセンリンをしっかり塗ることはできないのか?全ての外科医は一晩フォーレを体験することをお勧めする。

昨日の記事の竹中先生も体験して初めて苦痛を味わったとある。それと胃管。胃管は電話コードぐらいのゴム管で、鼻腔から入れて喉、食道を通って胃まで届かせ留置する。胃液を吸収するのが目的。これも苦しいらしいが幸い私は経験がない。


入院3日目・手術日 

2012年11月04日 | 日記

岐大祭 コスプレ大会 全部男の子

術前2日前の入院は余裕度が多すぎではと、担当医等に感想を述べましたが、患者が環境に慣れること、丁寧な術前の諸検査などから、2日前入院は適切でした。
前の日、麻酔医から・午前中私の前にひとつ手術があること、・手術予定は11時開始、・当日午前0時以降、水はいいが固形物は牛乳・ジュース類を含め絶食、・午前8時過ぎは絶水、を指示されました。

大腸手術などは排便処置が必要です。私は直腸切除で排便が不規則で前処置が必要です。排便記録は毎日カレンダーにつけていて持って行き、入院前から4日くらい便秘していました。術前の前日に腸を空にするため、前の晩の就寝時に処方薬緩下剤センノサイドを1錠服用して寝ました。この病院は特許切れのゼネリック薬品を使うということです。
緩下剤プリゼニドは⇒センノサイド、前立腺肥大等の排尿剤ハルナールDは⇒タムスロシン塩基塩ODという具合です。
心配した緩下剤が効いて、翌日正午頃から午後10時半までに8回の頻便でほぼ腸が空になりました。

師長さんから手術日から個室に移ってもらうと前日通知され、朝からナースがベッド毎スタッフセンター前の個室へ移動し、4人部屋の荷物も移動しました。
9時から手術用点滴がはじまり、頻繁に脈拍・血圧を測定され1時間もしないのに血圧が85まで下がり、下がり過ぎなので点滴を一気に落とす、起き上がるとめまいを起こすので寝たまま等指示されました。

11時前予定通り、ベッドに寝たまま3階中央手術室へ移動です。前の手術と同じように、紙オムツを持参し手術が終わったら履かせてと、病棟看護師からオペ看護師に引き継ぎをお願いしました。術中はT字帯、いわゆる越中ふんどしを履くか、スッポンポンの上下裸です。T字帯は持参し看護師さんに誉められました。

いよいよステンレスドアを足踏みペダルで開け、随分大きな手術室であっちこっち曲がりながら入室です。病棟ベッドから手術ベッドへ横滑りに移動し、緑衣の若い男性4~5人が目に入りました。

手術開始です。少し落ち着くため手術室の数を聞くと麻酔医は、Aから数え12室あると答えました。次いで「反回神経を切断しないようにね・・声を失くすから・・」と、冗談ではなく本音をお願いしたら、相手は笑いました。「時計はどこですか?」とも聞き、方向を教えられ「ちょうど11時ですね」と確認しました。時間確認は私のいつもの行事です。

「では、はじめますか、薬を入れます・・すぐ眠くなります」と、これはどこも一緒です。そこで、ストンと意識を失います。これは快適で死ぬ時も、ピンピンころり、P・P・Kでこのように逝きたいといつも思います。

”----点滴の滴が規則正しく落ち始めた。患者の左前腕に刺されてある持続点滴セットの側管から麻酔薬導入のための睡眠薬が注入されはじめるのと同時に、彼は深い眠りに入った。つづいて筋弛緩薬(きんしかんやく)が注入されると、その手足も完全に弛緩して動かなくなる。
 麻酔医は患者の鼻口にかぶせたマスクを使って数回の人工呼吸を施し、彼の体内に十分に酸素を満たした上で気管内挿管を行う。そのあとに全身麻酔が開始されるが、麻酔の当初は麻酔医の手で酸素と全身麻酔薬の入ったバッグを握ったり緩めたりしながら人工呼吸は続けられる。
 どうやら患者の状態は落ち着いてきたところで、レスピレーター(人工呼吸器)が装着された。筋弛緩剤の効き目は二、三十分であるため、彼の状態に合わせて適宜注入されてゆく。これは、術中に筋肉がピクッと動いたりするのを避けて手術をしやすくするために用いる。
 手術中の患者の全身状態の管理はすべて麻酔医の責任に委ねられる。呼吸、血圧、脈拍、尿量、出血量等々が随時チェックされ、適切な補液量、輸血の是非や酸素濃度等も決定、施行される。この麻酔管理のおかげで、外科医は患者の全身状態を全く気にかけることなく手術に専念できる。
 手術台に固定された患者は、全く俎上の鯉と化して眠りつづける。
 彼の全身は濃緑色の滅菌四角巾で四方からすっぽりとおおわれ、手術野(しゅじゅつや:手術される部分)が確保された。煌々と輝く無影灯が肌色の手術野をぽっかり照らしだしている。-----"
(以上引用 「医者が癌にかかったとき」竹中文良 文春文庫 1994.5刊 初出単行本 1991・3文芸春秋刊)

この文庫本は家内が末期で入院中、中古店で200円で求めた。枕頭で著者の図書館の本を含め、何冊か読みました。手術のたびにこの冒頭の文章をよく読み返します。彼とは著者、日赤外科医だった先生が55歳で大腸がんを自己発見され手術、その体験記、人生観など広く人々に親しまれた良書です。
惜しくも退職後肺に転移し、故郷の和歌山へ帰り、最後に大きく一息して79歳で亡くなられたと奥様の記を週刊誌で読みました。

11月3日は文化の日 岐大祭 医学部は「つかさ祭」があり、病棟に宣伝広告が貼ってあり、元気になったお礼に見に行って楽しんできました。コスプレ大会、出店が沢山、若いって羨ましい。

   


入院2日目

2012年11月03日 | 日記

二日目の午前中、白衣の女性二人が病室を訪れました。年輩の方が「学生が実習のため入院中のあなたを看護するのでよろしく」と挨拶されました。可愛いこの実習生は後で聞くと岐大医学部看護学科の3年生で年輩の方は同教授とのことでした。
後日もこの看護科教授の訪問を何回も受け、学生さんには適時優しくフォローして貰い、なぜかVIP並みの扱いを受けることになりました。

午後には大学病院なので教授回診があるとナースさんが病室を回り、対象者に告げられました。そのまま待っていると催促に来られ、処置室前の廊下の椅子に腰掛けて待つよう促されました。回診というので病室を回られると勘違いしたのです。
椅子で待つ間、処置室を覗くと患者は診察用の椅子に掛け、上体を仰け反らせ診察中で周りを若い男女5~6人が取り囲んでいました。

回診中の担当教授は私が1年半、気楽に面倒を診ていただいて来た主治医の臨床教授でした。
案内誘導のナースさんに「○○先生は偉い人なんだ・・」というと、「そうそう偉い人、偉い人」。

自分の番が来たので入室すると昨日紹介された韓国留学生がいたので、「昨日お会いしましたね」、と声をかけました。先生には、「大勢おられますね学生さんですか?」というと、先生は「そうです。金の卵達です」と、いつもの調子で診察椅子に座らせ、甲状腺の腫瘍を触診する見本を示され、学生に「嚥下すると腫瘍が上下に動きます」、と私をモデルに実習を各自に指示されました。
韓国の留学生が真っ先に私の喉へ手を掛け積極的です。「片手で喉に手を当てた方がどうですか」、と余分なことを言うと、教授は「そうではありません。両手でこうして・・」とモデルを示され、「ゴッくんと嚥下して下さい」と指示されました。男女学生5~6人にやったらゴッくんが苦しくなりましたが、何とかモデルを努め、最後に今朝紹介された看護学生さんにも「この方が私の手術に立ち会ってくれるそうですから、やってもらって下さい」と、また余分なことを言い、看護実習生が最後に実習をしました。主治医の教授は終始いつもの物静かさでした。

午後には麻酔医の診断があるので3時に手術室前に行くよう指示されていて、午前中に看護学生とともに事前に場所を探検しました。
3階の手術室前廊下に掘っ立て小屋が建ててありそこで待つのです。3時が待ちきれず2時頃行ってみると、小屋の前でパソコンを前に事務担当の女性職員がいて1時間も早いといわれましたが、そのまま待つことにして、トイレに行ったりしていたら小屋に呼び込みがあり、そこではパソコンを見ながら、オペナースさんが待機していて、いろいろ問診されそれが終わると、手術室の隣部屋の麻酔医の診断でした。呼び込みがあり男先生に問診中、置いてきぼりにした看護学生さんが来て同室で診察を受けました。

先生は麻酔のパンフを交付され、「あなたは沢山経験しているようなのでよく知っていると思うが・・」と言いながらも、丁寧にやさしく問診と説明をされて、質問したのは「下半身麻酔は膀胱で2回経験し、大腸は脊髄くも膜下麻酔、肺は硬膜外麻酔だったと思います。私は覚醒が抜群にいいと言われました。喉は上半身麻酔というのは出来ないのですか」と、またも勉強です。Drは「喉の麻酔に背中からの麻酔は効かないのです。また上半身麻酔というのはありません」と優しかった。気管内挿管の実物や、歯を折る、欠けるなどの合併症の説明、歯の観察をされました。同意書を渡されサインして、後で病棟スタッフに提出を指示されました。「前に問題がなくても、今回も同じだとは限らないのが麻酔です」と付け加えられました。

前の病院では手術日前日の入院の時もあり、部屋に麻酔医二人が来て、ベッドに横に寝かせ背骨を丸めさせて麻酔の前日診察や説明でしたが、ここはやはり丁寧で徹底していました。


入院初日

2012年11月02日 | 日記

入院も8年間に年1回、6回も入院すると手馴れたものです。入院前日一人身なので自分で準備しなければなりません。前に入院案内を貰っているので、ひとつずつチェックしながら漏れの無いよう旅行用キャスター付バッグに入れました。
このバッグは二男が’88年に高校生AFS交換留学プログラムで、アメリカオレゴン州立高校へお世話になった時、持参した中型バッグです。
ステイ先の好意でワシントンへの家族旅行へ同行とか、シアトル、帰国時にはオレゴンからサンフランシスコまで10日ほどかけて、多くのご家庭に次々厄介になりながら、いろんな国の子等とバス旅行で南下するなどアメリカ旅行したバッグです。
私が海外旅行で使ったのはハワイ、済州島(チェジュ)、タイ・チェンマイと知れたものです。最近は病院行きのバッグになっています。

入院の朝は非常勤・臨時雇いの嫁が別の用事で休んだので車で送ってくれました。この病院は一律に10時頃までに入院となっていますが、8時半にはもう病院へ入りました。入院受付で用意してきた書類で手続きしすぐ病棟へ行きました。

病棟で受付、すぐ腕にリストバンド(ネームバンド)が付けられます。私は手錠と呼んでいます。
スタッフステーション(ナースステーションとは呼称しない)を中心とした病棟施設と使い方を、看護士さんが案内してくれました。その際体重・身長の測定。

病室へ入って4人部屋のカーテン越しに「お世話になります」と挨拶。荷物整理もほどなく担当看護士さんの説明。主治医の呼び出しがあり初診のためステーション前の処置室へ。
耳鼻科と口腔科が2部屋ずつ、4つの処置室は診察室の設備と全く同じような機能を持ったところでした。

担当医は主治医の科長・臨床教授ではなく、30代の終わりか40代初めと思しき助教授で、科長教授ともう一人別の助教授3人が担当すると治療計画を示されました。
腫瘍で声帯が麻痺している人もいると、喉頭内視鏡で鼻から管をいれ声帯の機能検査をされましたが、異常ありませんでした。その後問診。

部屋へ戻ると、薬剤師2人がお見えになり、使っている薬の聞き取り調査がありました。今年から所持が義務化された「お薬手帳」を持参となっていたので、春からの薬一覧を手帳で示し症状の説明をしました。
その前に、入院慣れしていて申し訳ないけど、と担当看護士経由で担当医に、睡眠導入剤マイスリーと緩下剤プルゼニド、痒み止めアレグラの処方をお願いしていたので、その確認。
持参した薬の現物と手帳を薬剤師が持っていかれ、夕方返され希望通り緊急薬として2日分をそれぞれ処方されました。
次は栄養管理士の挨拶や希望の聞き取りを受け、担当看護師が「看護等入院診療計画」、「全身麻酔手術の手順」を書面で説明。床ずれ(手術時の辱創)防止のため体圧測定、血圧、脈拍などなどありました。

夕方になり、今までの主治医(科長教授)と担当医(執刀医の助教授)が揃って、別室で術前説明。これには県病院から交付されたCT画像をモニターに示し、教授の説明を執刀医が画像を動かしながら説明されました。
お聞きしたことは「リンパ節郭清はあるのですか?」という質問に「必要ないしやらない。」とのことでした。

大学病院らしく、夕方担当医が部屋に若い女性を同道され、この子が治療を医学実習するのでよろしくと紹介され、名札から「韓国の方ですか?」とお聞きすると、「そうです」との答え。「若く美しき秀才、日本語もバリバリね・・」と、留学生と話しました。


退院しました

2012年11月01日 | 日記

岐阜大学医学部 付属病院 正面 新しい大きく豪華な病院です

昨日、無事退院できました。甲状腺腫瘍の疑いで先月22日(月)入院、2日後の24日(水)手術を受け術後は何の問題もなく、傷口の治りも順調で標準日程の術後1週間で、抜糸していただき即退院を許可されました。

病院のスタッフのみなさま大変お世話になりありがとうございました。心からお礼と感謝を申し上げます。
私は生来、亡妻があきれるほど健康で、無茶な日常を過ごしてきましたが伴侶が乳癌で先立ったためか、70才前後から急にいろいろ患うようになりました。

中でも日本人の男性が2人に1人、女性の3人に1人が罹患するといわれる癌をやるようになり、入院前のブログに詳細をアップした次第です。
癌は老化現象でもありますので仕方が無いと言えば仕方がないのですが、兄弟4人のうち何故か私だけが癌の標的にされています。

77歳で逝った父は脳失血、今春108歳で逝った母は高山市最高齢者の訃報報道までしていただき、癌の血統ではないのですが、乱行が祟ってここ数年私だけが苦労しています。

さて、「甲状腺腫瘍の疑い」というのが、手術に当っての診療計画書の正式病名です。症状は「無症状、右頸部の腫れ」とあります。手術内容は「全身麻酔下で甲状腺半切除」となっていました。同意書の医療行為は「右甲状腺腫瘍摘出術(右葉狭部切除)」でした。
ここ数年いくつかの癌手術を家の近くの岐阜県総合医療センター(俗に県病院)でやってきましたが、今回は地域医療の中核病院、岐阜大学医学部付属病院で受けました。(俗に大学病院)

H21.3月県病院で直腸切除半年後の10月、経過観察でCTを撮り「肺と甲状腺に怪しき影」と診断、PET-CTを撮り診断されるもはっきり断定できず、また半年後のH22.2月CTでやはり肺に異常とされ、5月に右肺を3分の1切除しました。

また半年後の22.9月、今度は甲状腺をしっかりしようと、消化器外科の主治医から宣告され県病院の耳鼻咽喉科へ紹介。
エコー検査等で大きさは3センチと大きい、手術の必要ありと診断。細胞診の検査は、内分泌科で調べたほうがしっかりするとのことで、内分泌科で細胞診と血液の腫瘍マーカーの検査を受けました。その結果は「良性腫瘍」と出ました。

ここから、私は迷路に入り込み、迷走し多くの県病院の先生やスタッフの方々に大迷惑をかけることになりました。往生際が悪いですね。

最近はやりのセカンド・オピニオンを受けたいと申し出て、内分泌科の先生や耳鼻科の先生に無理を聞いていただき、大腸の執刀医の先生が、「いい先生でしょう、私の大好きな恩師です」と、臆面もなく公言される、岐大病院・耳鼻咽喉科・頭頸部外科の科長・臨床教授先生を紹介していただきました。
横着にも先生の個人名宛てセカンド・オピニオンの書類とデータを送っていただき、H23.4月その診断を受けました。(セカンド・オピニオンは検査機器で診断はされません、紹介元から送られたデータに基づいて意見を述べられるだけです)

挙句の果て手術をためらい、ついでに転院の許可までいただき昨年7月、今度はエコーで初診を受けました。「摘出した方はよいが、甲状腺がんの9割を占める乳頭がんでは無い」と、画像診断で明言され、15%を占める「濾胞癌か濾胞線腫かの細胞診はなかなか判定し難い特徴がある」こと、「乳頭がんは転移しないが、濾胞癌だと肺とか他の臓器に転移する恐れ」があると説明されました。
良性腫瘍でも3センチ(病院によっては4センチ)を限界に、手術が標準治療だと言われ、限界値なのですが、それでもわがままを言って様子見、経過観察をお願いし、半年後の今年1月と7月に再診。
0.5mmとか1.0mm単位で腫瘍が大きくなること。7月の穿刺細胞診ではうまく細胞が採集できず、様子を見るか、手術か、決断の時期を迎えました。

お忙しい大先生にあまり迷惑をかけられませんし、多くの先生全員が「基本は手術だ」といわれ、この間、先生は嫌な顔もされず優柔不断なお爺にお付き合いいただき、ようやく手術を決断した次第です。
そういうわけで、この病院は外科に甲状腺外科の診療科目があるのですが、耳鼻咽喉科・頭頸部外科でお世話になった次第です。くどい文章ですがお許しください。手前が付属病院・向こうが医学部校舎です。