誰かの刑務所体験の小説に似た題だが、ほんとうに現代社会とは刑務所的な不自由さがある点で、似ていないとは言えない。若者は可哀相に将来に対して希望を持てるだけの確信のないまま、例えば大学生は早くから就職の準備に追われる。バイトに追われながら、日々を漠然とした目的を仮想しながら、何かチャンスはないかとがんばっている人たちもいるだろう。あるいは、ニートと言われる人たちは生きる動機を見つけられないでじっとしているしかないのではないだろうか。さて、大人たちはどうか? リストラがあり、職場の人間関係や仕事の評価のされ方に疑問を持つ人々の数は増えている。終身雇用性が実質的に崩壊した後の不安感や拠り所のなさが大人たちをも痛めつけている。いつかの朝日新聞の記事に自殺者が3万人を切ったのは好況のせいか? と書いていたが、これはお笑いだ。毎日のように報道される中学生や高校生の自殺の実体はどうだ? 昨日はカリキュラムを正当に教えていなかった高等学校の校長までもが自殺した。生きる意味を教える側の代表者が、自ら命を絶った、という事実はいまの大人たちの生きる指標というか、もっとずばりと言ってしまえば、希望がないことを証明している事実ではないか。この事件は死で決着をつけようとする大人の身勝手だ。死者を悪く評価したくはないが、自分の立場を忘れているのは罪悪である。大人が死を語るのはよい。が、自殺してしまっては、その年齢に達していない人間は、何を指標に、どんな希望をもって生きていけばよいのであろうか? 僕はかつて日常性というヌメリとした、ダラダラ感の上に立って、人間は生の目標を立ててもいいのではないか、と書いた。しかし、現況を見ていると、死を選びとる人たちは大人であれ、子どもであれ、日常性の土台が固い。硬質的に過ぎるのである。もっと柔軟であればいいのである。そうであれば、失敗は土台の柔らかさの中に吸収されてしまい、新たな希望を探し始めることが出来るのではないか。何で自殺なんかしてしまうのだろうか? 自殺するくらいなら、不倫でも(僕は恋と呼びたいが)、若者なら恋愛して性を満喫すればいいではないか。人間の成り立ちは、精神だけではないのである。からだという存在も見逃してはならないのである。性の快楽の中には、生きるエネルギーが蓄えられているのではないか。精神主義に陥ってはならない。生が自分の裡なる狭隘な固い世界観の上に立っているのは、生が社会化されていないからであるし、また一方で性が生きるのに役立たないのは性も社会化されていないで、引っ繰り返った解放感が一人歩きしているに過ぎないからである。前回の出会い系サイトの経験はそのことをよく物語っていると僕には思われる。あの場は社会に隠れた隠微なところで男女が性のマスターベーションをしているだけの世界である。性はあくまで、正しく社会化されて、それが生きる動機の大切な一因にならねばならない。僕は、いま、生と性の個別化から社会化への変換について考えているのです。そしてそこからこそ人間が生きる、という希望が生まれ出てくる可能性が秘められていると確信しているのです。どうでしょうか? みなさん。
〇「希望学」玄田有史編著。中公新書ラクレ。この本はおもしろくはないですが、希望と社会化との関係性を学問的立場から分かりやすく解説している真面目過ぎる本です。
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