ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

戦後民主主義という難物

2006-11-19 00:06:49 | Weblog
若い人は戦後民主主義といってもピンとこないだろう。だって、まさにその中で育ってきたのだから。簡単に定義してみれば、戦後のアメリカ占領軍が創った日本人を骨抜きにするための教育政策だった、と考えればよい、と思う。アメリカ占領軍の意図をかなりさっ引いて解釈すると、アメリカ流の民主主義を日本に植えつける、というもの、と解釈することも出来る。たぶん、こういう政策を後者の意味で位置づけられるのは、僕の解釈では昭和40年代くらいまでのことではないか、と思っている。そこには民主主義という、まずは軍国主義教育にはなかった平等主義を教育の中に確実に生かそうという意思が働いていたように思う。そこには個を大切にしながらも、集団を創り上げる意図があったと感じられる。そういう意味においては、戦後民主主義がだんだんと骨抜きになっていく過程は昭和という時代が終わりつつある過程そのものではなかったかと思われる。例えば僕は昭和35年に小学校に入学したが、優れたものは、優れたものとしてきちんと評価されたし、ダメなものは評価されない、というあたりまえの基準があったように記憶している。学級の代表者は小学校、中学校を通じて全校集会で校長から表彰される、という行為はきちんと認められていたのである。また、各行事においても、優れた生徒は優れた能力を個別に認める教育がなされていたように思う。つまりは戦後民主主義教育がうまく作用していた時代は個と集団の意味を学校がはっきりと教え、親はそれを認めていた時代、と規定すればよい。個が優れていれば、個の優秀な点を褒め、それを集団の中で認めていくという、ごくあたりまえの思考が通用した時代は確かにあったわけである。ところが、戦後を経て、経済成長が進むに連れて、今度は平等の概念が変化してきたのである。それも親の側においてである。高度経済成長は国民がそれぞれ自分の家を持ち、車を所有し、賃金も上がってきた時代である。そういう過程で日本人の発想の中には、おそらくは世界にはどこにもないような日本式社会主義のようなものが出来上がっていったような気がする。日本は資本主義だというが、実は薄い社会主義的思考が蔓延していたように思われる。豊かさを確実に手に入れた親もそれを確実に目標に出来るようになった親も、だんだんと歪曲した平等主義を学校に要求するようになった。だから、一人の主人公が登場するような劇が出来なくなってくる。この間テレビでいまどきの学校と保護者と生徒の関係について放送された番組があったが、たとえば桃が川上からどんぶらこ、と流れてきて、その中を開くと、桃太郎が18人も出てくるというアホくさい劇に変わってしまっていた。保護者は何故うちの子が桃太郎でなくて鬼なのか、なぜ樹なのか、と執拗にいちゃもんをつけるのだそうだ。学校もそういう親に対して確かな説明が出来ない。何せ校長を初めとして親とのトラブルは極力さけなければ、すぐに教育委員会に直訴が行く。そうすると管理職の経歴や学校のあり方に傷がつくシステムになっている。だから、前記のようなアホなことがまかり通るのである。小学校や中学校における学級崩壊という現象も教師の力のなさもあるだろうが、それよりも親の方が平気で学級担任の悪口を子どもの前で言うことが多いそうだし、何かあれば教育委員会に言ってあげるからね、なんて子どもを守るかのごとき誤った保護意識を持っているのが大いなる原因であるようだ。こんな中に置かれた平教師は可哀相なものだ。毎日が地獄のようなものだろう。子どもとの言語交通が遮断されているのであるから、まともな教育が出来ない。平等主義の行き過ぎだとも言えるが、言葉を換えると、個の尊重の逸脱である。いまの学校では個がそれこそバラバラに存在しているのであって、個が寄り集まって集団を形成しているのではない。また一方では中高一貫教育と称して、エリート集団を創る学校群がどんどんと出来つつある昨今である。教育の二極化の現象である。しかし、このエリート集団を創ろうとしている学校では最近問題になっているカリキュラムの偽装工作が公然と行なわれていた。これが表面化されなければ、こちらの方もエスカレートしていったに違いない。この問題で、高校の校長が二人自殺した。子どもが個の尊重という大切な概念を教えられずに、いじめがまかり通って、自殺する。学校はそれを隠す。学校の方は、自分たちが意図的にやった偽装がばれて、学校の最高責任者が自殺する。これは学校という制度の崩壊の過程を意味しているのではないか? いまの学校制度が続く限り、変質的な秀才を創るだけである。所謂有名大学に合格してもこの人たちは本当に幸せなのであろうか? たぶん多くの大学生が自分の将来が見得ない状況に追い込まれているのではないか? 大学の授業がおもしろい、と感じられるのであろうか? 色々と疑問は続出するのである。いまの深刻に見える学校制度とそこに押し込められた生徒と教師たちに必要なのは、僕には何故かユーモアのセンスではないか、という感じがするのである。アメリカが戦後に民主主義を教えたのであれば、同時に西欧の文化の底辺を支えているユーモアのセンスも十分に教えるべきではなかったか? 制度が一人歩きするようになると、親は自分の子どもさえその制度の恩恵を受られればよい、という発想に陥るだけであるし、教師たちは管理職の守りの姿勢によってただ親の言いなりになり、平の教師はその中間で苦しんでいるだ。こういう状況を潤すのがユーモアのセンスなのである。ユーモアのセンスが潤滑油の働きをし、個が優れていれば、余裕を持って親も他者の個のすばらしさを認めてやれる。ユーモアのセンスがあれば、ガツガツとした学校改革によって有名大学に入れることを至上目的にするような気分が学校を覆うようなこともなくなる。学生はもっと生きる意味を考えるだろうし、教師はその手伝いができることであろう。いまこそユーモアを学校に、会社に、社会全体に行き渡らせることが急務なのではなかろうか。ギスギスするなよ、ねえ、みなさん。こんな暗い人間である僕にだって分かることなんだ。お偉い文部科学省のみなさんに、校長さんに、先生方にわからないはずはないではないですか!

〇推薦図書「自由論」J.S.ミル著。岩波文庫。アメリカ文化の先輩であるイギリスに於ける自由とは何を意味するか、言論の自由から社会生活の自由まで幅広く論じています。西欧文化の懐の深さを感じさせてくれる良書です。いまの親たちはこれを読むべきかも知れません。目先のことばかりにとらわれずに。そう思って推薦します。