ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

消費社会と宗教

2006-11-22 00:14:02 | Weblog
というテーマでかつて教師時代に宗教係という担当部署が出している出版物に書いたことがある。なかなか僕のような既成宗教のような堕落した宗教に対して批判的な人間に、原稿の依頼は来ないのであるが、たまたまその機会がやってきたので、思い切り書いてやろうとして上記のテーマで書いたわけである。僕は特にキリスト教から、仏教から、イスラム教は文化的な違いもあってよく知らないが、僕たちの一般的な日常生活の中に入り込んでいてあたりまえのように執り行われている宗教行事に関しては大きな反発を感じる、とまず書いた。また、現在のような高度消費社会に於ける既成仏教(ここからは僕の関わった西本願寺に関しての記述になる)は、所謂葬式仏教になり切ってしまっているではないか、という批判もした。そして、何より本来の宗教的真実から既成宗教が逸脱してしまったのは、布教の精神を忘れてしまったことである、とも書いた。既成宗教だってその昔、真宗や日蓮宗や浄土宗や浄土真宗が生まれた背景には、布教の営みがそれぞれの宗教の基本に位置づけられていた、とも書いた。それが一体、いまはどうか? 仏教文化が多く残っている京都は寺という建物がその宗教の残滓として残っているに過ぎないとも書いた。京都はそれだから、錯覚を抱きやすい都市である。宗教が盛んな都市であると日本人はしかり、海外の観光客はさらに誤解して帰国していくだろうと指摘したように思う。さらに僕は何年もこの西本願寺系の学校に勤務しているが、僧侶が教師として勤務する例が多くあったにも関わらず、人間的にも優れ、宗教的役割を果たしている教師にめぐり会ったことがない、とも書いた。これは僧侶に生まれなかった人間としては何とも残念なことでもあると指摘したように記憶している。そして、何よりも既成宗教が堕落し、人々の心の拠り所となり得なかった大きな理由は、世襲制度にある、と僕は確信している、と結論づけた。この世襲制度というのは新興宗教にも受け継がれているようであるが、これは長い年月を経るにしたがって、堕落が入り込む要素がある、と最も力を入れて書いたような気がする。少し前に生長の家については意義ある新興宗教であると書いて、宗教的天才である谷口雅春氏のことをこの場で書いたことがあるが、その宗教だって世襲制度をとっている。なぜだめになるかと言えば、例えば、故谷口雅春氏の書いた文章と、それを受け継いだ娘婿の谷口清超氏の宗教的作品を読み比べれば一目瞭然であろう。このネポティズムという制度は、政治体制においても同じことが言えるのである。いまタイムリーな話題として取り上げ得る国は北朝鮮である。キム・ジョンイル総書記と彼の父である故キム・イルソン総書記と比較した時、明らかに、その政治手腕に於ける退落が見て取れるではないか。人間は進歩もするが退歩もするのである。要は、退歩は退歩するだけの理由が簡単に見て取れるということなのである。僕は教師時代、こんなことを考えていました。

〇推薦図書「私の聖書物語」椎名麟三著。中公文庫。椎名は僕の大好きな作家ですが、彼が無神論を貫かなかったことにはどうしても納得がいかないのです。まあいいです。椎名はよい小説を書きました。これは椎名の独特の聖書入門書です。一読に値します。