最近特に50歳を越えてから、自分の年齢に適応出来ないでいる。たぶん多くの方々は、自分の子どもの成長を見ながら、孫が出来る年齢を迎え、それを否応なく見せられて、自分の年齢を納得しているのだろうか。よく分からない。落ち着いた50代の方もいらっしゃるので、一度聞いてみたいものである。僕の場合は40代後半で離婚しているので、子どもが大学生と高校の受験期に入った頃に別れたままである。前妻は、不条理なくらい、自分の居場所を隠し、子どもの居場所を隠して生活しているようである。それが、彼女の復讐の仕方なのかも知れない。不思議なことに時折は自分の子どものことを思い出すが、二人とも男の子であるせいか、会える環境にあったとしても、会わないような気もする。子どもの方だってそうだろう、と思う。男どうしなんて、大抵はそんなものかも知れない。だから40代後半から、僕は自分の精神的成長を止めてしまった気がする。ましてや、40代後半の時期においてすら、自分がそんな高齢になっていることを拒否しようとして、かなりあがいたのをよく覚えている。青年に立ち戻ることなどできようはずもない、とは分かりつつも、心は青年のまま、停まっているのが、40代後半から現在まで続いている。スタンダールの描いたジュリアン・ソレルは、年上の貴族の既婚者を恋人にしてしまった。無論時代が現代とは異なるので、スタンダールが素材にした時代的背景に出没してくる貴族の生活にとっては、作中人物たちの感覚は格別異常なものではなかったのは歴史の事実である。ただ、スタンダールの思い入れはジュリアン・ソレルが貴族ではなく、貧しい身分の青年であったという想定をしている点である。貧しさ故の、成り上がりたい、という強い願望。それは現代では、矢沢永吉信奉者たちに通じる心情でもあろうか。誤解のないように言っておくが、僕自身は矢沢信奉者ではない。矢沢の「成り上がり」とジュリアン・ソレルの「成り上がり」には大きな隔たりがある。それは何かというと、野心という怪物に押しつぶされたのがジュリアンであり、それは言うならば、青年のどうにも押さえ難い野心である。それなら、矢沢にもあるぞーという矢沢信奉者からの反論が聞こえてきそうだが、しかし、矢沢信奉者も家庭をもち、子どもを生み育てながら、だんだんと大人になっていくのである。おとなしい大人の社会の一員として社会生活を送るようになる。矢沢自身も実はもう大した大人なのではないだろうか。社会が許す範囲内で、矢沢は青年を演じてみせる。青春の苦さを歌ってみせる。その一方で、マネージャーに持ち逃げされた二十数億円の借金はきちんと返済してみせた。矢沢はその意味で矢沢信奉者たちよりさらにもっと大人である。それに比して、ジュリアン・ソレルは青春の只なかで命を絶たれる。青年のままに。それはちょうど、カミュの異邦人の主人公と同じ生の不条理性を現してはいないだろうか。彼らは青年のままに死という結末を迎えることになるが、たぶん生の不条理の中に置き去りにされたまま、僕は大人になれずに、青年というある種の牢獄に閉じ込められているのではないか、と近頃思っている。生の浮遊感を感じながら、僕はカウンセラーという仕事と向き合っているのである。生の不条理性を諒解しながら、青年のままに生きているカウンセラーなんて、僕くらいのものだろう。自慢ではない。辟易しているのである。ただただ困っているのである。そういう毎日が過ぎていくのである。僕はこういう心性のままに生き残っていかねばならないのである。50代の青年は生きづらい。生き続けてしまったからである。だからどうしても青年として生きる心性にある種の価値を付加しなければならない。そんなふうに思うこの頃である。
〇推薦図書「アンチノイズ」辻 仁成著。新潮文庫。辻 仁成の小説世界にも大人になりきれない青年が数多く出てきます。おそらく、辻の世界観と深く結びついているものがあるような気がします。辻 仁成自身の生き方も山あり谷あり、ですね。
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