ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

夢から醒めるまで、ちょっと長い時間がかかる

2006-11-18 00:04:02 | Weblog
近頃、何か訳のわからない夢をみる。大抵のことはがんばれば言葉に出来るのが、この訳の分からなさには辟易させられている。言葉で表現不能なのである。敢えて言えばイメージだけが漠然と残っていて、そのイメージが僕の脳髄をかなり長い間支配しているのである。最近は随分と冬の様相を呈してきたから、そうでもないが、少し以前までは僕はひどい寝汗をかいて目を覚ましていたのである。覚醒するにしたがって、実に嫌な気分になり、朝食は不快な気分のままに済ますような感じであった。いまもそれは変わらない。今朝も嫌な目覚めだった。結局僕はまだ自分の人生を捨てるのに、もの凄いエネルギーを使っているのではないだろうか、と思う。それが夢の世界で、立ち現れて何か揺るぎないものと、生とは元来ぐらぐらとした不安定なところで辛うじて平衡感覚を保って生きていくものである、という確信とのせめぎ合いが、僕の中でまだ未整理のままに、起こっているのではないかと推察している。だからこそ僕は青年のままに歳だけを食った醜悪な怪物のような存在のままなのである。それでよい点はあるのか? 確かにある。若者の考えているこが理解出来る。いやもっと正確に言えば、理解出来るという、厚かましいほどの錯覚がある、と言う方が当たっている。でも、大抵の50代の大人がもう諦めてしまったところで、大いなる錯覚でも持っている方がまだマシなのではないかと僕には思われるのである。だから、止せばいいのにいろんなところに首を突っ込みたくなる。まだまだ好奇心の塊なのである。こういう人間はたぶん、何かを完成させる側の人間ではない。中途半端に生を終える側の人間である。まあ、僕の無神論的な考え方から言えばどちらの側も唐突な死によって生が中断されることに変わりはないのであるから、より中途半端で、何者にもなり得なかった方がその死のあり方を受け入れやすいのかも知れない。たぶん、自分の中途半端さが徹底すれば、この寝汗もなくなるだろうし、覚醒した時の嫌な気分もどこかへ消えてなくなるのであろう、と推測は出来る。まだまだ途中経過なのだ。僕はだからこそ青年のままでいると錯覚しつつ、青年からは老年に差しかかった人間として見られているのであろう。まあ、いいか。こんなふうにしか生きられないのだもの。もうしばらく寝覚めの悪さを耐え忍ぶしかないのかも。でもみなさん、自分の正体ほど分かりにくいものはないんですよ。自分のことを分かっているつもりの人々がどれだけ多いことか! 本当はまだ悩んで錯覚そのものを生きている時期なんですよ、50代って。僕は何となくそう思って、いまの気持ちの悪さ、居心地の悪さに耐えているんです。みなさんはどうでしょうか?

〇推薦図書「わが死生観」セネカ著。三笠書房。解説によりますと、私たちは寿命を浪費している。・・・・人生は浪費したり、よくない目的のために使っていたりすると最後の時すでに遅いことを思い知らされるのだ、と。まさにその通りですね。でもなかなかそうはいかないところが現代社会に生きる僕たちの問題点でもありますね。