ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

何故人間の歴史からテロはなくならないのか

2006-11-27 23:28:08 | Weblog
というちょっと政治的な課題に挑戦してみようと思います。テロリストという表現から僕が想像するのは、孤独なオオカミの姿です。でも実際のテロリストはそんなに格好のよい存在ではなさそうです。テロリストといっても様々です。一番最近の記憶に新しい大きなテロ事件といえば、アメリカの同時多発テロですか。アメリカのドメステックの飛行機を乗っ取って、2機の飛行機が貿易センターのツインビルの両方ともに激突して壊滅させました。数年前に僕は現地でツインタワーを見ているので、逆に何かとても現実感のない出来事のように感じました。またもう一つの事件はアメリカの国防の象徴的存在である国防省に飛行機は激突し、かなりな部分が破壊されました。その地下にはアメリカのあらゆる軍事的な高度な命令系統が配置されているアメリカの軍事的な中枢とも言える建物です。これはブッシュ大統領の中東政策の失策が招いた、弱き者が強大な力を持っている国に対して実施し得る唯一の攻撃方法です。その意味ではテロを計画した側にとっては大成功の攻撃であったと思われます。ブッシュ大統領の政権がいかに対外的にも国内的にも失策をしているかの証明でもありましょう。いまだにイラク情勢は混迷の度を増していますし、アメリカ兵の死者の数もかなりなものになっています。結局ブッシュ大統領には政治的手腕がなかったと言えるでしょう。また彼の側近たちについても言えることでしょう。ブッシュ大統領はあのテロ事件があった時、犯人たちに対して、怒りの声を荒らげました。しかし、アメリカほど、テロ、それも大統領がテロリストに殺される国も珍しいのです。リンカーン大統領以来、一体何人の大統領がテロリストの前に倒れたことでしょうか。みなさんはケネディ大統領のことがすぐに頭に浮かぶと思うのですが、その前にもたくさんの大統領が暗殺されたり、未遂に終わったりしています。こう考えてみると、テロリズムには二通りあって、無差別テロ、今回の貿易センタービルが象徴的です。視点を変えれば、ある意味では、アメリカの犯した、第二次世界大戦の、B-29戦闘機から落とされた数えきれない爆弾も非戦闘員を狙った点で同じようなテロリズムとも言えるでしょう。その最も大きなテロ行為は何と言っても広島、長崎に落とされた原子爆弾でしょう。アメリカも戦争中とはいえ、無差別テロを実行した国です。こうは言えないでしょうか? 無差別テロとは人間の数をどれだけ多く奪うか、という点に的が絞られており、政治的な指導者を狙ったテロは、政治とは結局は人間の個性的な要素抜きには語れない要素があり、いくら政策や政治システムを改善しても、悪い政治が治らないのは、指導者の最後の決断の仕方に左右されるからです。だからこそ、特に個人を狙ったテロはなくならないのです。ある意味で現在の中東とアメリカは戦闘状態にあり、戦時です。だからこそ、悲しいですが、日本が被ったような無差別テロも起こり得るのであり、平時には起こりにくい現象です。しかし、個人を狙ったテロリズムは平時にも起こり得ます。その裏にはある個別の政策によって、経済的打撃を被ることになるような、意外に私たちには普通に見える経済団体や政治団体などが絡んでいる場合が多いような気がします。テロリズムは卑劣な手段ですが、悪政がある個人の権力のあるがままに行なわれているような場合、ある種避け難い解決策だと考える人々がいるのは否定し切れません。ですから、テロリズムは今後も忘れた頃に起こり得る政治的行動だろうと僕は思っています。誤解しないでくださいね。僕はテロリズムを肯定しているのではないですよ。

〇推薦図書「リチャード三世」シェイクスピア著。新潮文庫。テロリズムについて書きましたが、元来人間にはこうした暗い一面が内面化されているような気がします。シェイクスピアはこういう人間の恐ろしいような深淵に入り込んでいく作風を持つ天才劇作家です。こんなことは常識でしょうが、この作品は人間の心の深淵をよくえぐり出してくれています。名作です。

自殺しようとする若者たちへ

2006-11-27 00:12:19 | Weblog
僕は47歳のとき、永年勤めた教師という職業を奪われ、離婚し、そのために家を失い、絶望の果てに自殺未遂を二度繰り返して生還した人間だから、偉そうなことは言えないが、特に若い人、それも中学生や高校生が自殺するのはいかにも痛ましいと感じるのである。誰もがそう思っているだろうが、自分のその時代を振り返ってみると強気の時代だった。貧乏だったし、特技といえば喧嘩に強かったことくらいで、勉強といってもたいしたことはなかった。いっときだけは秀才と言われて有頂天になった時期があるが、それもほんものではなかったから、大学受験も以前書いた理由で、一年を棒に振ったし、東京の秋葉原でも電気屋の小僧として働いても半年しかもたなかった中途半端な人間だ。大学も中途半端な大学にしかその結果入れなかった。最近の学校は小学校では学級崩壊が実質的に起こっているし、中学でも内申書が物を言うから教師が最後にはこれを武器にして生徒を黙らせるような時代だ。高校に入っても中途退学が多いのは、学問がもう古びていておもしろくないからだ。それを一生懸命勉強しても、その古びた学問の結果で大学の合否が決まるのだから、いくら一流大に入ってもやはりおもしろくはないだろう。こんなおもしろくない流れの中にも適応できる若者もいるから、何とかもっているような学校制度ではないか。たとえば、僕は英語教師を23年間やってきたが、中学で習う英語が、高校に入ってまた同じことを習うハメになっている。見る目のある学生は、英語がおもしろくない、と思っているはずだ。高校に入っても中学で習ったことに少しだけおまけがついてくるようなものだ。体裁は整えなければならないから、英文自体は少しは複雑になって、それだからこそ余計に薄っぺらな内容で、おもしろくもない読み物が多い。だから、外国語に興味のある学生は語学学校へ通っているし、大学にさえ通ればよい、と思っている学生は予備校へ行ってより複雑なパズルのような英語を解読している。こんな時代だ。つまらないのは分かりきっている。いじめが起こる背景には、学校制度が古びているつまらなさと、硬直化した内申書制度の教師による脅しと、大学教育を受けて、いったい何になるの? という深い疑問が若者を苛立たせているからではないだろうか。政府単独で教育基本法の改革法案が可決されて、よい教育が生み出されるはずがない。政府の自己満足に過ぎないから、本質的に同じ問題を引きずることになるはずだ。いじめで命を落とす生徒や学生は、可哀相だ、という論調のマスコミがあり、学校においてはいじめの実体があったかどうか、という調査をやることに意味はなくはないが、それよりも、いじめによって命を落とした生徒や学生は、現代の教育制度に於ける戦死者であるという事実にもっと目を向けるべきだ。マスコミの報道が戦死者を増やすのは、当然だ。マスコミとはもともとそういう存在なのだ。戦死するであろう若者が、同じ境遇にあって命を絶った仲間を知って、自分も同じ境遇にあることを強く悟るのは当然なのである。視野を拡げて考えれば、ある意味でいじめた側の生徒や学生といじめられた側の生徒や学生との精神的な距離感はそれほど遠くはないのである。だから、いじめた側の生徒や学生も人生のどこかで、ひどい目に遇うのは目に見えている。そのことが政府やマスコミでは報じられない。制度疲労を起こしている学校教育の中で、生徒、学生たちは聞こえない悲鳴を上げているのではないか。そのことに気づかない教育改革は、戦死者を減らすことはできないだろう、と僕は思う。若者よ、大人にだまされるな! 特に偉いと言われている人々には。

〇推薦図書「贈る言葉」柴田 翔著。新潮文庫。人間は夢を描いて生きているつもりが、人生の半ばくらいで、倦怠と惰性を見いだすような存在です。そこを突き抜けるのです。生き抜くためには。いじめられて命を捨てなくても、何とか踏ん張らないと生きていけそうにない時期がどうせやって来るのです。だからこそいま、踏ん張るのです。昔から人生って、青春の生が崩壊した後の勝負どころがつらくもあり、おもしろくもあるのです。