ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

人生に躓いたときに

2006-11-23 23:14:11 | Weblog
昔の人はよく言ったものだ。人生山あり谷あり、なのである。人々は必ずその人なりの山や谷を体験する。それが生きる、という意味だと言ってもよい。時折谷が深過ぎて自らの命さえ奪ってしまうことだってある。そこからなんとか立ち上がってくる人たちもいる。どこがどう違っているのかは分からないが、自死した人たちが単に弱かった、とも一概には言えない。運の問題もある。僕だってもう生きてられなくて、首を2回吊ったが、特に2回目では完全にうまくいくはずだった。それが安物のネクタイを2つ括って首に巻いたが、安物故の悲しさか、僕の体重を支えきれなかった。ネクタイは見事にブチッという音を立てて切れた。僕は畳の上にお尻からドスンと落ちた。生還である。それ以来、もう生きていたくない、という経験をたくさん重ねたが、まだ生きている。いまだって時折、自分の理性がブチギレそうなときもある。しかし、結果的には生きている。僕はまだ谷の底にいるようだが、そのうち、山の頂上に上がることもあるのかも知れない。たぶん死ぬ間際だろう。そういえば、小学校、中学校、高等学校、大学、就職、という時期に、いろいろあった。詳しくはプロフィールに書いてあるので再度書かないが、右往左往の人生だった。いま50歳を越えて、弱気になり、細かいことが気になるようになったのだろう。うじうじした毎日を過ごしている。若い強気の頃は明日のことがどうなるか分からぬ時だって、何とかなると思えたが、いまは、その反対である。だんだん悪くなっていくのではないか、という気分に支配されている。僕の人生は小学生の頃には自転車に乗っていて、後ろを見ずにUターンしようとしてタクシーにはねられた。僕はポーンと飛ばされて、そのままお尻から道路に尻もちをついた。普通なら大腿部骨折というところだが、大きな馬糞の上にビチャリと尻もちをついた。当時の神戸には材木を運ぶ馬が道路を自動車と一緒にたまに走っていたのである。そのたまたまの馬糞に救われた。淡路島では従兄弟と海水浴に行って泳ぎが何とかマスター出来た時に、沖につくられた木製の飛び込み台まで泳いでみようという無謀な考えに取りつかれて、途中で溺れかけた。黙っていれば、確実に僕は水死していたはずであった。が、その時あろうことか、僕は大声を出して、助けて!と叫んでいた。若いお兄ちゃんがたまたま側を泳いでいたのか、僕を助け上げてくれた。中学生の頃は無事な時期だったが、苦い失恋を2度味わった。そんなことでは死ねなかった。でも、好きになった女性に振られるという連鎖はこの頃から始まったような気もする。高校生になった時、学生運動にのめり込んだ。逃げるのがうまかったから、機動隊には直接殴られることもなかったが、セクトを離れる時、仲間の大学生たちから、「総括」と称して、殴る蹴るの暴行を受けた。死ぬかと思ったが、たぶん肋骨にヒビが入った程度で何とか生きていた。前に「中核と革マル」という立花 隆氏の本を紹介したが、あのままセクトに停まっていたら、それこそ生き死にの問題に巻き込まれていただろう。大学は毎日が授業料を稼ぐのに必死だった。誰も金銭的援助はしてくれなかったからであり、それを承知で半年の社会人生活から大学生という生活に戻ったからだ。授業料を稼ぐために大学に通えず、大学に通うと授業料が払えないという自己撞着に陥っていた時代だ。しかし、本だけは腐るほど読んだ。教師として就職し、結婚してからの23年間は退屈感に苦しんだ。家庭人を装っていたが、心の中は退屈でいつもムズムズしていた。結局23年目でキレた。ずっと理事会には労働運動で目をつけられ、管理職からは嫌われ、同期の数学教師とは特に不仲であり、彼が日本共産党員のくせに理事会にオベッカを使って教頭になって、ますます学校が嫌になった。(だからよけいに日本共産党が大嫌いなのです。まともな党員の方々、すみません)学校改革の時期に僕は単独で短期の留学を生徒にさせる目的で、旅行社数社と懇意になる努力をして、自腹を切ってカナダ・アメリカ・イギリスの、外国人を受け入れる施設と実際の授業を見学して回った。その成果を紀要にも報告した。が、これが悪用された。僕が旅行社と金銭的に癒着しているという嫌疑がかかった。校長・教頭は僕を失墜させるための努力をした。英語の教師だったが、一緒に立ち上げたはずのプロジェクトチームの仲間(だと思っていた)若い教師があること、ないことをわざわざ管理職に報告に言った。自分が助かりたかったからだろう。若い人の中にも情けない人間がいるのである。そうして僕は懲罰委員会というものにかけられることになった。そのメンバーたるや、かつて組合役員をしている時の理事会のメンバーばかりで構成された委員会だった。懲戒免職は免れなかった。だから僕は自分から学校を去ることにした。依願退職というやつだ。退職金を得るためだった。6月20日が僕の退職日になった。その日が給料日であり、その日から給料は止まった。教師には失業保険という制度が適用されないので、僕は給料が止まった時点で丸裸同然になった。妻とは10年ほど前からうまくいってなかったので、すぐにほころびが出た。離婚騒ぎがあり、ローンの残っていた家を売却し、その金を子どもたちのために、と思って、悪妻にすべて持たせてやった。僕は本当に丸裸になった。その時が自殺を実行し、失敗した時だった。どうやら、同情もあってか、当時の同僚の15歳歳下の社会科の教師が僕を拾ってくれた。僕たちは結婚し、彼女も学校を辞めて、僕は行き着くところまで来て、いまカウンセラーになった。ギリギリの生活である。将来が明るいとは決して言えないが、いま命だけはある。そしてカウンセラーをしていて、たまに凄い人間に巡り合う。その時だけは生きるエネルギーが少しは湧いてくる。こんなふうに自分の人生をさらっと鳥瞰してみると、出入りの多い人生だと思う。出入りの多い人生を歩んだという痕跡は今の妻と数人のありがたい知人たちが、僕が死んだ後も少しの間は覚えていてくれるであろう。それが個の人生の終わり方というものではなかろうか。いまはそんな気分で何とか生きているのです。

〇推薦図書「賢い血」フラナリー・オコナー著。ちくま文庫。今日は目先を変えて、アメリカ文学史上に特異な輝きを放つ、真摯でグロテスク(という概念は気持ち悪いというだけではなく、例えば僕のような生き方もグロテスクという範疇に入るのです)な生と死のコメディです。どうぞご一読を。

恋愛の不可能性について

2006-11-23 01:17:21 | Weblog
僕はいつまで、恋愛というとてつもない人間どうし、男女の間の感情と肉体の交歓に憧れ続けているのだろうか? この気分は50歳を越えてますますひどくなるばかりなのである。僕はかつて離婚し、二人の息子がいるが、前妻と息子には6年間も会っていない。前妻はよいとして、ふたりの息子はもう26歳と23歳になっているはずだ。もう一端の青年である。この二人には会いたいと時折痛切に思うが、男どうしとはこんなものか、とも考えて諦めることにしている。僕の死顔くらいは見にくるだろう。それでよい。再婚し、よき理解者であるいまの妻が側にいる。これで十分なはずなのだ。が、しかし、僕の裡で、何かが叫んでいるのである。恋愛、恋愛、これこそが、僕を日常性から飛翔させてくれる唯一とは言わないが、大切な要素なのだ、と。しかし、僕は恋愛の必要性を語りながら、その不可能性についても諒解しているのである。恋愛とははじまった時点で現実的な男と女の鬩ぎ合いが始まってくるのである。恋情の念と嫉妬のつらさ、肉欲という制御することのできない欲望に操られるようにして、現実の男と女になった関係性は解放されるどころか、隠微に世の中の片隅で恋心が囁かれることになる。僕は恋愛に救いを求めはするが、それが、たぶん現実問題となり、現実の男と女の交擦が見え隠れするようになったその瞬時から、恋愛は過酷な生の課題となってくるのではないか。不倫という名のエセ恋愛劇は、不潔なものである。精神と肉体が完全に分離している。いや、不倫劇を演じている当事者たちは無理失理に精神が純粋に求める恋心を心の底に押し込んで、肉欲に走ることになる。もしも、これが昨今の不倫ブームのかたちであるなら、これほど無意味な行為はないのではないか? 恋愛はどうあるべきなのであろうか? 恋愛は精神と肉体を無理に分けることの無意味な精神的行為に根拠を置いているのではない。恋愛とは精神と肉体とが分かち難く結びついた行為であり、これを僕は交歓と呼んでもいいと思っている。肉欲だけの結びつきだけでも不潔だし、精神だけの結びつきも、恋愛の要域まで踏み込まずに、友情の範囲に閉じ込めておかないと苦しくなるばかりである。恋愛は交歓であり、世界の中で、何の隠し事もなく行なわれる行為であり、精神的・肉体的な交流でなければ意味をなさない。ああ、僕には恋愛は不可能なのでしょうか?

〇推薦図書「モデラート・カンタービレ」マルグリッド・デュラス著。河出文庫。恋愛とは根底を探れば自分の属する社会からの脱出を意味するのです。主人公のアンヌは情熱を、脱出への期待をしだいにふくらませていくのです。カミュの「異邦人」をある意味思い出させる恋愛小説です。