ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

自分の未来を信じるということについて想うこと

2007-09-01 23:03:49 | 哲学
○自分の未来を信じるということについて想うこと

たとえ、自分の命に限りがあろうとも、未来に対する希望を見失ってはならないのではないか、と思う。勿論僕は無神論者だから、死後の世界などに何の意味も興味もない。むしろそんなものなどあってもらっては迷惑千万なのである。生には限りがあるからこそ、そして、その限りがあるという酷薄な真実があるからこそ、人は精一杯生きることが出来るのだ、と思う。死後の世界をまるであるかのごとくに語るような新興宗教などは、どこかにごまかしがあるように思う。どこにあるか? それは生が死という臨界点を超えて、異なった形で永遠に続くかのごとき内実に、生あるうちの信仰の深さが、強く影響するという視点にある、と思うからである。そこにはどこまで行っても、なにほどかの利害が絡んでいる。生死の問題に利害を持ち込むのはどこかにウソがあるように思えてならないのである。だから僕は死は全ての終末と考える。そのことに確信がある。

どうせ死によって、ある個人の生の軌跡が唐突に途切れるのであれば、生には本来、意味があるのか? という疑問を持つ方もいらっしゃるだろう。もっともな理由である、と僕も思う。この性向を究極まで押し進めるなら、その果てに信仰、死を通り過ぎて、なおかつ存在する今世とは別の世界における生き直しへの希求が生まれて当然とも言える。このような、生が死という臨界点を超えて、依然として存在するという大いなる錯覚、あるいは錯誤が人間の頭の中に生じて当たり前の話ではないか、とも思う。

しかし、僕は敢えて言いたいのである。人間の生には限りがあるからこそ、生が輝きを放つ瞬時が何度となく在る、ということである。生の本質的なありようは、起きて、食らって、何かの活動をし、また食らい、飲み、糞便を垂れつつ、寝ては、同じような朝をむかえる、ということの単純な繰り返しの中に、精神の活動がついてまわるものではないか、と思う。精神を体の生理機能から引き剥がして、純粋培養するような思想はエセものである。極端な言い方をすれば、人は糞便を垂れ流しながら、精神が向上する瞬間があってもよいのである。いやそれどころか、そうであるからこそ、人間がこの地球という環境の中で、唯一言葉で思想を編み出すことの出来る存在であり得るのではないか? 優れた思想は何らかの形で生を、あるいは普遍的な付加価値を他者の生にまで、その影響を及ぼすことになる。反対に凡庸な思想はせいぜいが、個としての生の価値意識の中に閉じ込められて終わる。自分が編み出す思想が普遍性を持ち得る人は、自分の生に自信と確信と幸運を感じて感謝すればよい。またそういう人がいなければ、殆どが凡庸なままに生を閉じる人々の生に輝きすら与えてくれはしない。優れた人がいることに感謝し、妬み心を起こすことなく、受容出来る力がありさえすれば、たとえその人が凡庸な生しか送れなかったにせよ、凡庸さに意味が加わる。それこそが、生の醍醐味だろう、と僕は思う。

人は必ず生の途中過程で生を閉じる。この真理に抗うことなどできはしない。生はいつだって、中途半端に唐突に終わりを告げる。だからこそ生はいつも一瞬であろうと輝く可能性に満ちているのである。生はある日、突然終わる。それがよい、と僕は思う。

○推薦図書「君たちに明日はない」 垣根 涼介著。新潮社刊。リストラを専門に請け負う会社に勤める主人公の泣き笑いの物語です。他者を泣かせる仕事をしつつ、己も泣かされる側の人間としての存在であることの切なさを垣根は生に真正面から抗う主人公にその姿を借りて正面突破をしてきた作者ですが、この書は垣根の別の角度からの生に対する真実のあり方を描いたものです。おもしろく読んでいただける物語だ、と思います。山本周五郎賞受賞作品です。よろしければどうぞ。

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