ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

「切なさ」という感情

2007-09-02 23:30:20 | 観想
○「切なさ」という感情

人は他者を愛するから切ないのか、切ないから、他者に対する愛を自覚するのか、というテーゼについて考えを巡らせてみる価値はありそうだ。いずれにせよ、他者を愛するという感情には他者への切ない感情がついてまわる、ということにはかわりがないだろう、と思う。別の角度から見れば、切ない、という思いは、他者を意識しなければ生まれては来ない感情であろう。それもかなり濃密な愛という観念性を意識の底で支えているような不可欠な要素でもあるだろう。誤解を恐れずに言えば、愛とは切ない行為そのものであるのかも知れない。満たされては愛し、愛しては満たされる。しかし、満たされても、常に満たされ尽くされ得ない感情が残る。切ない、とは、こういう愛というものが、他者を希求するがために生じる大切な感情の姿である。さらに言うと、切なさを伴わない愛など存在しないし、愛が生ずれば、切なさが愛の駆動力のように生まれ出る。

切ない、という感情には甘美な要素もあるが、それと同時に、苦さもある。ただ、切なさと苦さとは対極的な感情では決してない。苦さは切ない感情を理性の側から感じとった場合に生じる体感でもある。その意味においては切なさとは、ある種のセンチメンタリズムを伴う。いいではないか。おセンチであっても。愛がその要因抜きには存在し得ないものであるなら、おセンチ、大いに結構である。人間らしい温かさすら感じ取れるではないか。だからこそ切ない、という感情に人は身悶えて苦しむことになるが、絶望する必要などどこにもないのである。それは繰り返しになるが、理性の側からの抑え方に過ぎず、苦さだけが強調された意識形体だからである。むしろ人は切ない感情を育んでいくための精神的な強靱さがなければならないし、時として訪れる苦さにおののいてひるんでいる場合ではないのである。

人生は短い。短い人生の過程の中で、他者を愛することが出来る、ということは素直に喜びとして感じるべきである。切なさが伴い、苦さも在る。だから、愛から逃げる人もいるだろう。初めから愛を感じさえしなければ、切なさからも、生の苦さからも自由である、という錯覚だ。しかし、こんなのは愛ではない。愛がない性的関係を愛と錯覚する人もいるが、こういう感性はどこまでいっても不毛な試み、として終焉するだけだ。瞬時の快楽はあるだろうが、そこに人生の悦びは絶対に生じることはない。愛のない性的交渉は、他者の存在を自立したものとして認めない心性のことである。快楽が愛そのものである、という誤解に陥ってしまうと、生が脱け殻のようなものになってしまうだろう。性的な関係性を愛と錯覚するとは、その先に落とし穴が待ち受けているということでもある。いっときの性的関係性が行き着く先は、孤独という深淵である。さらに突き進むと、虚無感という悪魔が待ち受けている。もし、こんな人生を送っている人があるなら、残酷かも知れないが、さっさと人生と決別してもよいのである。生きている意味がないからだ。切なさから逃げてはならない。切なさを引き受ける勇気が生の実感を高める。

自我が肥大し過ぎると、他者が当然視えなくなる。エゴ(ego)という言葉は良い意味でも悪い意味でも使われるが、当然エゴが肥大し過ぎた人間には他者が愛せない。だから孤独や虚無感が襲ってくる。そんな人生にどんな意味がある?

再び言うが、人生は短いのである。自我(ego)は、他者が射程に入るような発達を遂げなければ生は虚しいばかりである。切ない、という気分が自分の裡から消えた、という自覚があったら、猛省すべきである。自我肥大ほど醜悪なものはない。愛を感じられない精神の型ほど、無意味なものはない。短い、いや短すぎる人生に輝きを与えること、それは切ない感情を伴った愛を育むことの別称に過ぎない。愛せよ、と僕は叫びたい。

○推薦図書「世界の中心で、愛をさけぶ」 片山恭一著。小学館文庫。愛に切なさが絶対的につきまとい、切なさこそが愛を深めるのだ、というテーマがこの小説を爆発的に有名にした所以でしょう。たくさんの人々が、この小説を読んだ、ということは、人生、棄てたものではないな、と感じさせてくれます。推薦の書です。

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