「老人力」とか「鈍感力」とか言って、自分の老いを正当化なんかしたくない、と思う。この手の開き直りは僕には何だかとても往生際が悪く感じられて仕方がない。敢えて言うなら、醜悪ですらある。
歳をとるということはやはり何と言っても切ないことだ。人生を生き永らえてきたからと言って、生の真実に近づけた、などという考え方は僕にはどうしても受け入れ難い。やはり老いとは、死の前兆を、自分で諦念と伴に納得させる心と体における現れだ、と僕は思う。はっきり言って、老いたからといって特に何らの発見もないように感じる。むしろ、自分が鈍化し、磨耗していく感覚を覚えるばかりだ。何とも救いがない。たぶん、これまでの人生の過程で、いっとき輝いて、生の意味に接近したことがあったようには思う。しかし、そのことに気づける人は才ある人である。大抵の人々は、大切な自分固有の発見のときを見逃してしまうのではないだろうか? そして老いて後、自分の人生とは一体なんだったのか? という切ない嘆きを洩らすのではないだろうか? そしてその後は、各々の生の終息、つまり死という結末へまっしぐらだ。まあ、青年の頃の、疲れを知らない生を実感し、生が熟したとき、まだまだ自分はやれる、と将来への見果てぬ夢を追いつづけ、負けまいぞ、と自分を鼓舞し、そしてやがては抗いの果てに老いという終着点の間際まで一気に辿り着く。生のありようとはこんなものだろう。
自分の弱さ、情けなさ、切なさ、虚しさ、等々、たぶんこういう感覚を味わい尽くしてこその人生か、と背筋をピンを立てて、受け入れるのが老いの、おそらくは正しい受けとめ方ではないか、と僕は思う。「老人力」や「鈍感力」などと居直るのは、扱いにくい老人を増やすばかりで、青少年に迷惑をかけそうだ。何といっても老人大国だ。若者におんぶに抱っこの老後である。居直って大きな顔を晒すのもどうか、と思う。
やはり、ここは、個としての存在に立ち返って、自らの老いを受容したい、と切に願う。新たな希望などなくてもよい。むしろ絶望感の本質に気づく時期なのかも知れない、とも思う。切なさは若さの特権ではない。本物の切なさとは老いを受容した上で感得できるような気がする。青少年の抱く切なさには、苦いが、甘さもきちんと用意されていて、なにかしらの発見がある。あくまで未来に通じる力学が働いている。それが若さのもつ力だ。大いに誇ればよい。それに対して、老いとは自らの生に決着をつけるための、死への力学だ。だから大いに取り返しのつかない苦悩を感じつつ生の終着点に向けて突き進むのみだ。ある意味、ここまで来ると、哀しさもあるが、最後は何となく笑えてくる気もする。ちっとも進歩しなかった自分が情けなくもあり、切なくもあり、笑い飛ばしたくもある。
無理して居直らず、居住まいを正して、生の最終段階に訪れる死と直結した苦悩を味わい尽くすこと。これが老いを受容することだ、と僕は思う。それが正しい姿だ、とも思う。単に絶望しているのではない。個に立ち返って、自己の孤独な終焉をどのように演出するか、真面目に考える時期だろう、と思っている。それが今日の僕の観想である。
○推薦図書「走るジイサン」 池永 陽著。集英社文庫。老いのやるせなさと、生の哀しみと可笑しさを描いた作品です。僕もこの作品を紹介しながら、「走るジイサン」になりたいものだ、と思っています。すばる新人賞受賞作です。お薦めです。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
歳をとるということはやはり何と言っても切ないことだ。人生を生き永らえてきたからと言って、生の真実に近づけた、などという考え方は僕にはどうしても受け入れ難い。やはり老いとは、死の前兆を、自分で諦念と伴に納得させる心と体における現れだ、と僕は思う。はっきり言って、老いたからといって特に何らの発見もないように感じる。むしろ、自分が鈍化し、磨耗していく感覚を覚えるばかりだ。何とも救いがない。たぶん、これまでの人生の過程で、いっとき輝いて、生の意味に接近したことがあったようには思う。しかし、そのことに気づける人は才ある人である。大抵の人々は、大切な自分固有の発見のときを見逃してしまうのではないだろうか? そして老いて後、自分の人生とは一体なんだったのか? という切ない嘆きを洩らすのではないだろうか? そしてその後は、各々の生の終息、つまり死という結末へまっしぐらだ。まあ、青年の頃の、疲れを知らない生を実感し、生が熟したとき、まだまだ自分はやれる、と将来への見果てぬ夢を追いつづけ、負けまいぞ、と自分を鼓舞し、そしてやがては抗いの果てに老いという終着点の間際まで一気に辿り着く。生のありようとはこんなものだろう。
自分の弱さ、情けなさ、切なさ、虚しさ、等々、たぶんこういう感覚を味わい尽くしてこその人生か、と背筋をピンを立てて、受け入れるのが老いの、おそらくは正しい受けとめ方ではないか、と僕は思う。「老人力」や「鈍感力」などと居直るのは、扱いにくい老人を増やすばかりで、青少年に迷惑をかけそうだ。何といっても老人大国だ。若者におんぶに抱っこの老後である。居直って大きな顔を晒すのもどうか、と思う。
やはり、ここは、個としての存在に立ち返って、自らの老いを受容したい、と切に願う。新たな希望などなくてもよい。むしろ絶望感の本質に気づく時期なのかも知れない、とも思う。切なさは若さの特権ではない。本物の切なさとは老いを受容した上で感得できるような気がする。青少年の抱く切なさには、苦いが、甘さもきちんと用意されていて、なにかしらの発見がある。あくまで未来に通じる力学が働いている。それが若さのもつ力だ。大いに誇ればよい。それに対して、老いとは自らの生に決着をつけるための、死への力学だ。だから大いに取り返しのつかない苦悩を感じつつ生の終着点に向けて突き進むのみだ。ある意味、ここまで来ると、哀しさもあるが、最後は何となく笑えてくる気もする。ちっとも進歩しなかった自分が情けなくもあり、切なくもあり、笑い飛ばしたくもある。
無理して居直らず、居住まいを正して、生の最終段階に訪れる死と直結した苦悩を味わい尽くすこと。これが老いを受容することだ、と僕は思う。それが正しい姿だ、とも思う。単に絶望しているのではない。個に立ち返って、自己の孤独な終焉をどのように演出するか、真面目に考える時期だろう、と思っている。それが今日の僕の観想である。
○推薦図書「走るジイサン」 池永 陽著。集英社文庫。老いのやるせなさと、生の哀しみと可笑しさを描いた作品です。僕もこの作品を紹介しながら、「走るジイサン」になりたいものだ、と思っています。すばる新人賞受賞作です。お薦めです。
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文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃