シュウジさんは、家内の叔父である。家内のお母さんの弟さんだ。2年前に亡くなった。胆管癌だった。享年58歳という若さである。'70年安保闘争の揺るぎなき闘士だった。彼は生涯を通じて、人に使われることなく、自主独立の精神で生き抜いてきた勇壮な男である。こういう人には必ずといってよいほど相応しい連れ添いが心の支えになっているものである。シュウジさんの連れ添いも大阪外大出の才女だ。立派な息子さんが二人、すでに独立して社会人になっている。
何故シュウジさんのことを話そうと思ったのか、と言えば、たくさんの言葉を交わしたわけではないが、この人にはかなわないな、という想いがあったからである。僕が教師を勤め上げるはずだった学校の理事会に抗い続けて23年にして、追われるように職場を去った後、前妻には簡単に見切りをつけられた。たぶん普通のサラリーマンが聞いたら叱られそうな程度の蓄財の全てを前妻と二人の息子の養育費(とは言え、その頃は二人の息子は21歳と18歳だったから、もう投げ捨て状態の財産分与だった、と思う)のために持たせた。僕の手許には100万に満たない額の金しか残っていなかった。学校を去る直前は年収で1000万を遙かに超えていたはずの収入だったから、何とも情けない23年間の教師生活の結果と言える。離婚は何の揉め事もなく成立した。そりゃあそうだろう。前の妻に文句はなかったはずだ。が、一つ問題があった。前妻の悪口をいまさら言うつもりはないが、シュウジさんのことを語るのに必要なので控えめに書いておく。離婚が決定的になってから、前妻は現在の妻のお母さんを喫茶店に呼びつけて、僕に関する罵詈雑言を投げつけた。それは周到に準備された、戦闘の様相を呈していたように思う。5時間喫茶店でお母さんは締め上げられたそうだ。当然僕の評価はガタ落ちだ。仕事もなくしている。現在の家内の親類縁者が僕のことをどんなふうに評価したか、誰にでも想像がつくはずだ。ともあれ、21年間に及ぶ永き結婚生活が終焉した。別れた妻はこれでもか ! というくらいに僕の悪評を残して去った。京都の左京区に新築して10年目の家が売れてから、退職金と家の売却代金の全てを残し、23年間の労働のナレノ果ての100万円そこそこを持って、僕は今の妻のマンションに電話した。家を離れる1週間前の出来事だった。
1週間後、僕は少ない趣味の中のネクタイのお気に入りを数本と、時計を幾つか、それに、少し多すぎる洋服と、多すぎる蔵書とクラッシック音楽の約500本のテープを持って家を出た。彼女の綺麗に片づいたリビングはパンダマークのダンボール箱で一杯になった。体のよい押し込みだった。それでも彼女は文句一つ言わず、僕を引き受けた。
一応片付けが終わり、しばらくのニート生活の後にいくつかの塾を渡り歩いたが、僕の英語教師としての力はまるで通じなかった。塾の世界は僕の英語教育理論の研究などむしろ邪魔な世界だった。何十年か前の英語の教え方が正当な教え方だった。おもしろいものだ。学校では研究熱心な教師は最先端の英語理論に基づく教育を生徒に施し、生徒は塾で大昔の英語の教え方で教えられる。まるでいたちごっこの世界だ。学校を離れて、生徒たちが置かれている現実が分かった。当然塾は続かなかった。自分に何が出来るのかが分かるまで随分考えたが、その間に仕事のない僕と彼女は区役所に行き、婚姻届けを出した。何とも寂しい再出発だった。またしばらくニートの生活が続く。
妻は親に電話で知らせたようだが、縁切りだ、と父親に言われたそうだ。その後、妻が働きに出た後のマンションに電話がかかってきたのは、婚姻届けを出して間もなくのことだった。その主がシュウジさんだった。シュウジさんはこの頃、すでに胆官癌が見つかって、京大病院に通院していた帰り路に電話をくれたのだ。誰にも相手にされない僕にお茶でも飲んで話をしようや、という気軽な様子をわざと装ってくれていた感じがする。僕はまだ妻の親戚に会う勇気など持ち合わせていなかったので、しどろもどろになって、丁重に、ウソの理由をつけてお断りした。
カウンセラーという生業がまだまだ成立していない頃、つまりは僕にまともな稼ぎがなかった頃に、妻の親戚と僕とを合わせる手だてをしてくれたのがシュウジさんだった。その頃はまだまだお元気で、ご自分の経営する魚料理の店に親戚一同を呼び集め、僕は皆さんの集中砲火を浴びることになった。決して誤魔化しは効かないと覚悟していたので正直に現状を告白した。シュウジさんは受容力も抜群にあったが、その一方で容赦のない質問を次々に僕にぶつけてきた。それでもシュウジさんには言葉の裏というものがなかった。彼はぶしつけだったが、格別人がよかった。たぶん僕がその場で耐えられたのは、シュウジさんのお蔭だった、と思う。それに妻の両親初め、親戚縁者の方々はことごとく人が良かった。何となく認められたのか? という感じを抱いてから、今日に至るまで妻の親戚の方々に親切にしてもらっている。前妻の親戚の中にいる時のたまらない居心地の悪さはまるで感じたことがない。
いよいよシュウジさんの容体が悪くなって、彼が腰に点滴のナイロン袋をぶら下げて、ご自分の実家の近くにある、すでに他界したシュウジさんのご両親のお墓に付き合って、無神論者を貫き通した彼が、ご両親のお墓の前で必死に手を合わせている姿には、人を寄せつけない何かがあった。声をかけられなかった。ただ、黙ってシュウジさんの後ろ姿を眺めることしかできなかった。彼は死を恐れていたのではない。たぶんシュウジさんはご両親と対話するために、死者と対面する方法に従っただけだっただろう。
数カ月後、彼はやせ細り、それでも自分の葬儀費用を葬儀屋に自分で交渉して値切り倒し、お別れの会の準備も自分で指示し、火葬場に運ばれる車に自分の棺桶がつまれ、家を離れる瞬時には、お決まりのようになっているプワーンというクラクションの音を鳴らすな、とまで注文をつけ、その数日後に夭った。見事な死にざまだった、といまでも思う。
ついこの間、シュウジさんのご次男の結婚披露宴に出席した。その場にシュウジさんがいないのが不思議で仕方がなかった。心を割って話し合ったわけではない。それでもシュウジさんという個性は確実に僕の心の中に生きている。立派な人だった。
○推薦図書「新左翼の遺産」大嶽秀夫著。東京大学出版会刊。この書は前にも紹介しましたが、'70年の安保闘争にともなう新左翼運動は'60年安保闘争の実体から読み解かなければ、なかなか本来の姿はつかめません。この書はニューレフトからポストモダンへ至るまでの思想的な動向までを視野に入れた良書です。ぜひどうぞ。
何故シュウジさんのことを話そうと思ったのか、と言えば、たくさんの言葉を交わしたわけではないが、この人にはかなわないな、という想いがあったからである。僕が教師を勤め上げるはずだった学校の理事会に抗い続けて23年にして、追われるように職場を去った後、前妻には簡単に見切りをつけられた。たぶん普通のサラリーマンが聞いたら叱られそうな程度の蓄財の全てを前妻と二人の息子の養育費(とは言え、その頃は二人の息子は21歳と18歳だったから、もう投げ捨て状態の財産分与だった、と思う)のために持たせた。僕の手許には100万に満たない額の金しか残っていなかった。学校を去る直前は年収で1000万を遙かに超えていたはずの収入だったから、何とも情けない23年間の教師生活の結果と言える。離婚は何の揉め事もなく成立した。そりゃあそうだろう。前の妻に文句はなかったはずだ。が、一つ問題があった。前妻の悪口をいまさら言うつもりはないが、シュウジさんのことを語るのに必要なので控えめに書いておく。離婚が決定的になってから、前妻は現在の妻のお母さんを喫茶店に呼びつけて、僕に関する罵詈雑言を投げつけた。それは周到に準備された、戦闘の様相を呈していたように思う。5時間喫茶店でお母さんは締め上げられたそうだ。当然僕の評価はガタ落ちだ。仕事もなくしている。現在の家内の親類縁者が僕のことをどんなふうに評価したか、誰にでも想像がつくはずだ。ともあれ、21年間に及ぶ永き結婚生活が終焉した。別れた妻はこれでもか ! というくらいに僕の悪評を残して去った。京都の左京区に新築して10年目の家が売れてから、退職金と家の売却代金の全てを残し、23年間の労働のナレノ果ての100万円そこそこを持って、僕は今の妻のマンションに電話した。家を離れる1週間前の出来事だった。
1週間後、僕は少ない趣味の中のネクタイのお気に入りを数本と、時計を幾つか、それに、少し多すぎる洋服と、多すぎる蔵書とクラッシック音楽の約500本のテープを持って家を出た。彼女の綺麗に片づいたリビングはパンダマークのダンボール箱で一杯になった。体のよい押し込みだった。それでも彼女は文句一つ言わず、僕を引き受けた。
一応片付けが終わり、しばらくのニート生活の後にいくつかの塾を渡り歩いたが、僕の英語教師としての力はまるで通じなかった。塾の世界は僕の英語教育理論の研究などむしろ邪魔な世界だった。何十年か前の英語の教え方が正当な教え方だった。おもしろいものだ。学校では研究熱心な教師は最先端の英語理論に基づく教育を生徒に施し、生徒は塾で大昔の英語の教え方で教えられる。まるでいたちごっこの世界だ。学校を離れて、生徒たちが置かれている現実が分かった。当然塾は続かなかった。自分に何が出来るのかが分かるまで随分考えたが、その間に仕事のない僕と彼女は区役所に行き、婚姻届けを出した。何とも寂しい再出発だった。またしばらくニートの生活が続く。
妻は親に電話で知らせたようだが、縁切りだ、と父親に言われたそうだ。その後、妻が働きに出た後のマンションに電話がかかってきたのは、婚姻届けを出して間もなくのことだった。その主がシュウジさんだった。シュウジさんはこの頃、すでに胆官癌が見つかって、京大病院に通院していた帰り路に電話をくれたのだ。誰にも相手にされない僕にお茶でも飲んで話をしようや、という気軽な様子をわざと装ってくれていた感じがする。僕はまだ妻の親戚に会う勇気など持ち合わせていなかったので、しどろもどろになって、丁重に、ウソの理由をつけてお断りした。
カウンセラーという生業がまだまだ成立していない頃、つまりは僕にまともな稼ぎがなかった頃に、妻の親戚と僕とを合わせる手だてをしてくれたのがシュウジさんだった。その頃はまだまだお元気で、ご自分の経営する魚料理の店に親戚一同を呼び集め、僕は皆さんの集中砲火を浴びることになった。決して誤魔化しは効かないと覚悟していたので正直に現状を告白した。シュウジさんは受容力も抜群にあったが、その一方で容赦のない質問を次々に僕にぶつけてきた。それでもシュウジさんには言葉の裏というものがなかった。彼はぶしつけだったが、格別人がよかった。たぶん僕がその場で耐えられたのは、シュウジさんのお蔭だった、と思う。それに妻の両親初め、親戚縁者の方々はことごとく人が良かった。何となく認められたのか? という感じを抱いてから、今日に至るまで妻の親戚の方々に親切にしてもらっている。前妻の親戚の中にいる時のたまらない居心地の悪さはまるで感じたことがない。
いよいよシュウジさんの容体が悪くなって、彼が腰に点滴のナイロン袋をぶら下げて、ご自分の実家の近くにある、すでに他界したシュウジさんのご両親のお墓に付き合って、無神論者を貫き通した彼が、ご両親のお墓の前で必死に手を合わせている姿には、人を寄せつけない何かがあった。声をかけられなかった。ただ、黙ってシュウジさんの後ろ姿を眺めることしかできなかった。彼は死を恐れていたのではない。たぶんシュウジさんはご両親と対話するために、死者と対面する方法に従っただけだっただろう。
数カ月後、彼はやせ細り、それでも自分の葬儀費用を葬儀屋に自分で交渉して値切り倒し、お別れの会の準備も自分で指示し、火葬場に運ばれる車に自分の棺桶がつまれ、家を離れる瞬時には、お決まりのようになっているプワーンというクラクションの音を鳴らすな、とまで注文をつけ、その数日後に夭った。見事な死にざまだった、といまでも思う。
ついこの間、シュウジさんのご次男の結婚披露宴に出席した。その場にシュウジさんがいないのが不思議で仕方がなかった。心を割って話し合ったわけではない。それでもシュウジさんという個性は確実に僕の心の中に生きている。立派な人だった。
○推薦図書「新左翼の遺産」大嶽秀夫著。東京大学出版会刊。この書は前にも紹介しましたが、'70年の安保闘争にともなう新左翼運動は'60年安保闘争の実体から読み解かなければ、なかなか本来の姿はつかめません。この書はニューレフトからポストモダンへ至るまでの思想的な動向までを視野に入れた良書です。ぜひどうぞ。