○生と死と
かなり前から死ぬことがちっとも怖くなくなった。人生を悟ったわけではない。僕の人格のあり方すれば、たぶん人生を棄てた、という方が正確だろう。もう何かをなし遂げようという幻想も消え失せた。だから、いま歩いている人生の延長線上で、自分にやがては訪れてくる己れの死を受け入れるだけだ。たぶん人生というものの虚飾を一切合切はぎ取れば、生とはやはりいつとは知れぬ自分の死を受容するまでの儚い夢に過ぎないのかも知れない、と思う。その意味においては死は公平だ。誰にも必ず訪れる。生の限られた瞬時に抗い続けて、何程ほどかの成功をおさめたとしても、死はその人間の生の営みの跡を時間の経緯と伴に無に帰する。生の営みの跡方が消滅するまでの時間の長短が、その人の生の成功や失敗を証明しているのかも知れない。成功者の名は当面は当人の死後、この世に残る。失敗者の死は誰にも気にもとめられないままに消え去っていく。凡庸な人の死はせいぜいが日本で言えば、彼岸の形骸化された儀式の中で、生者の記憶の中に一瞬蘇る程度だろう。それが死というものの、いや、生というものの実相なのだ、と僕は思う。この真実にいくら生の側からの、意味という衣をかぶせたところで、ある程度の気晴らしになるくらいのものだ。
まだ血気盛んな頃、自分の生に意味を見出すのに必死だった。もっともなことだろう。だからこそ、社会の活気が生まれ出る。いまにして言えることは、僕は人生における失敗者の側の人間だが、大きな成功をおさめたところで、生にどれだけの差がつくというのだろう? 旨い物をどれだけ食らっても、人生の総量で見れば、貧富による食い物の差などたかが知れている。昔のローマ帝国の貴族たちが、贅を尽くした食物を食らっては、無理やり吐き出し、また食らう。中国の楊貴妃が美の維持のために、普通の感覚からすれば唾棄したい素材を宮廷料理として、体の中に押し込む。秦の始皇帝は不死の食い物を捜し求めて飽きることがなかった。エジプトのファラオたちは生の蘇りのために死後はミイラになった。現代の日本人の金持ちたちの死後はどうだろう? どでかい墓でもおったてるのか? 死後の世界を無理失理信じようとするのか?
ではおまえに死の意味が分かっているのか? と問われれば、否、と答えざるを得ない。これだけ書くのが精一杯の才覚だ。凡庸そのものである。しかし、一つ確かなことは、凡庸だが死を恐れてはいない、とだけは明言できる。これが僕の今日の観想である。
○推薦図書「陽炎の。」藤沢 周著。文春文庫。生はどこからみても、不条理である。ただ、僕に言えることは生とは、死と抗うことではなく、死と伴に生きるということです。生は死を包含し、死は生を包含しています。そんな気がします。藤沢の作品集は、何気ない作風の中に、生の真理が垣間見えます。よければどうぞ。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
かなり前から死ぬことがちっとも怖くなくなった。人生を悟ったわけではない。僕の人格のあり方すれば、たぶん人生を棄てた、という方が正確だろう。もう何かをなし遂げようという幻想も消え失せた。だから、いま歩いている人生の延長線上で、自分にやがては訪れてくる己れの死を受け入れるだけだ。たぶん人生というものの虚飾を一切合切はぎ取れば、生とはやはりいつとは知れぬ自分の死を受容するまでの儚い夢に過ぎないのかも知れない、と思う。その意味においては死は公平だ。誰にも必ず訪れる。生の限られた瞬時に抗い続けて、何程ほどかの成功をおさめたとしても、死はその人間の生の営みの跡を時間の経緯と伴に無に帰する。生の営みの跡方が消滅するまでの時間の長短が、その人の生の成功や失敗を証明しているのかも知れない。成功者の名は当面は当人の死後、この世に残る。失敗者の死は誰にも気にもとめられないままに消え去っていく。凡庸な人の死はせいぜいが日本で言えば、彼岸の形骸化された儀式の中で、生者の記憶の中に一瞬蘇る程度だろう。それが死というものの、いや、生というものの実相なのだ、と僕は思う。この真実にいくら生の側からの、意味という衣をかぶせたところで、ある程度の気晴らしになるくらいのものだ。
まだ血気盛んな頃、自分の生に意味を見出すのに必死だった。もっともなことだろう。だからこそ、社会の活気が生まれ出る。いまにして言えることは、僕は人生における失敗者の側の人間だが、大きな成功をおさめたところで、生にどれだけの差がつくというのだろう? 旨い物をどれだけ食らっても、人生の総量で見れば、貧富による食い物の差などたかが知れている。昔のローマ帝国の貴族たちが、贅を尽くした食物を食らっては、無理やり吐き出し、また食らう。中国の楊貴妃が美の維持のために、普通の感覚からすれば唾棄したい素材を宮廷料理として、体の中に押し込む。秦の始皇帝は不死の食い物を捜し求めて飽きることがなかった。エジプトのファラオたちは生の蘇りのために死後はミイラになった。現代の日本人の金持ちたちの死後はどうだろう? どでかい墓でもおったてるのか? 死後の世界を無理失理信じようとするのか?
ではおまえに死の意味が分かっているのか? と問われれば、否、と答えざるを得ない。これだけ書くのが精一杯の才覚だ。凡庸そのものである。しかし、一つ確かなことは、凡庸だが死を恐れてはいない、とだけは明言できる。これが僕の今日の観想である。
○推薦図書「陽炎の。」藤沢 周著。文春文庫。生はどこからみても、不条理である。ただ、僕に言えることは生とは、死と抗うことではなく、死と伴に生きるということです。生は死を包含し、死は生を包含しています。そんな気がします。藤沢の作品集は、何気ない作風の中に、生の真理が垣間見えます。よければどうぞ。
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文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃