ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

何で人間ってこんなにむすびつくのが難しいのだろう?

2007-09-21 23:52:46 | Weblog
昔から思っていたことである。人間どうしが理解し合えるというのは、ある意味奇跡に近い。僕が学生運動に夢中だった高校生の頃、言葉で組み立てた理論は稚拙なものだったが、大学生くらいは論破できるくらいの威力はあった。だからその意味では実力の世界である。僕は高校生にして組織の長に成り上がった。学校でも同級生を自分のコントロール下に置くことは案外簡単だった。たぶん僕はその頃だけ、異常に左脳が機能していたのだろう、と思う。特に言語機能に関して。成り上がりのおもしろさを身に滲みて感じた。ただ、その一方で僕はとても孤独だった。支配欲は満たされたのかも知れないが、本当に自分が他者のことを心配したり、他者から心配されたりすることにとても飢えていたように思う。確かに僕のまわりにはたくさん人がいたが、心の底から信じられる人はいなかった、と思う。
10代の後半の青年だ。頭の中は理想主義と性に対する盲目的な欲動が渦巻いていた。いまはただ醜悪な中高年に過ぎない、冴えない男になってしまったが、当時は幸いにも? 社会主義的思想を声高に語れれば異性にもてる時代だった。当然僕はその波に乗っかった。性的な関係性が、自分の孤独感を癒してくれるような錯覚を抱いていたのだ、と思う。何人かの女性と深い仲になった。なぜ一人の女性と付き合えなかったのか? というと、やはり僕の裡を抗いがたい力で貫いていた思想は、あくまで支配欲だったからだ、と思う。支配欲に駆られた人間ほど醜い存在はない。
僕は支配欲と愛とを完全に同一視していた感がある。当然のごとく両者はまるで異なる概念だ。愛は心を育むが、支配欲は支配する悦びが満たされると心が空虚になるだけだ。頭の中だけのドラマに終始した時代、それが僕の青春の一時期だった、と思う。哀しくなるほどに空疎な青春だった。読書量だけはたぶん誰にも劣らなかったが、僕は小説の世界からも哲学の世界からも、人間の真実の姿を発見することが出来なかった、と正直に告白しておく。僕の読書とは、他者を文学の分野においても哲学の分野においても、論破する素材に過ぎなかったわけで、そんな読みの中からは生の真理はザルから水がこぼれ出るように漏れていったはずだ。僕は単に文学や哲学の世界から、そのエッセンスだけを鷲つかみにえぐりとっていたに過ぎない。
あれから40年近くが経つ。読書を欠かしたことはこれまでも一度たりともなかったが、いま、青春の頃のような読書熱が僕を再び突き動かしている。青春の頃に読んだ本も何度も読み返したが、最近の作家の中に、光り輝くような才能を発見することが多い。何とか間に合った、という安堵の気持ちと伴に、この才能に溢れた表現者たちの作品を読みのがしてなるものか、という強い決意のような感覚が体中に漲っている。生きているうちに、僕なりの生の意味を自分の言葉にしたい、とつくづく思う。そのためには、才能溢れる作家たちの作品を大切に読み込むことだ、と感じている。
遅きに失する、というが、いまならまだ何とかなりそうな気もする。やっと愛の意味が、死に損ないの僕にも分かるようになった。やはり想う。愛は支配とは対極に在る存在だ。人が育んでこそ本物の愛の芽が出る。そんな簡単なことがいまになってやっと身に滲みて分かる。やはり遅きに失してしまったのだろうか? 僕にも他者が心の底から理解できるのだろうか?

○推薦図書「出口・廃墟の眺め」吉行淳之介著。講談社文庫。14編からなる短編集ですが、僕はこの中で、痛ましいまでの思春期の青年の心を描く「手品師」という作品が好きです。勿論他の作品も秀逸です。お勧めの書です。どうぞ。