○眠りの効用
語り尽くされたことが書きたくなった。敢えて書くことにする。読みながらうんざりしたら、その瞬時に読むのを止めてくださって結構だ。それほど分かりきったことを書くことになる。
さて、人は何故眠るのか? という定義である。脳髄が異様に発達した人の眠りの意味について語るので、この際は、人間以外の生物の眠りについて、今日の僕は無関心を決め込む。結論から言うと、人の眠りは、死への準備を、本当にやって来るであろう死そのものに対する耐性を高めるための行為である、と僕は思っている。これだけ脳髄が異様に発達してしまった生き物としての人間が、眠りという死への準備なしに、唐突に襲ってくる無への回帰としての死に耐えられるはずがない。死に直面して潔い人もあれば、見苦しいほど生にこだわって抗い抜いて死んでいく人もいる。いずれにしても、人は多少見苦しくても最後は諦念が裡に芽生えて死を受容する。何故そうなれるのか? と言えば、僕の考えでは人は眠りという訓練によって、とりわけこの世界との永遠の別れになる死を受け入れることが出来るのである。いくら抗っても最期の瞬間、人はむしろ積極的に己れの死を受け入れることが出来る。僕に言わせれば日頃の、いや生を受けたその瞬間から始まる眠りという死への準備を、生きることと平行して始めていることになる。だから人が生を授かるというのは、同時に死を授かるという意味でもある。歳老いてから死へのカウントダウンが始まるのではない。生を授かったその瞬間から死へのカウントダウンが始まっているのである。それは無意識の日常的な訓練である。
人は眠れないと言っては不平をこぼす。睡眠薬さえ使う。単純な人は眠れないと明日の労働や勉学に差し支える、と思っている。眠りは新たな力を再生する大切な行為である、と思っているのである。別に反論するつもりはない。そう思った方が楽な人はそれでよい。この大いなる錯誤が、生を活き活きとさせてくれるなら錯誤も立派な役割を果しているからである。ただ、本質的なことを言えば、この考え方はあまりに単純過ぎるし、人の生き死にの真実とはかけ離れた発想であると、指摘しない訳にはいかない。表現を単純化しよう。人は毎日死を、正確には疑似的な死を体験しつつ、生きているのである。その意味で生の側からの虚飾をはぎ取ってみれば、死は日常的にとても身近な存在なのである。生は死と伴に在る、と言って過言ではない。むしろ無意識であるにせよ、眠りたい、という欲求が、己れの死を毎日欲している証左でもある。
だからこそ死を飼い馴らせた人の死は潔いし、死の意味から遠ざかっている人ほど、死に直面して、往生際が悪いのである。訓練の質的な差の結果である。人は小難しいことを言っても、一皮剥けばどこまでも単純な存在なのである。こんなふうに書けば僕は死を侮っているように感じる人がいるかも知れないが、そんなことはない。むしろ正反対だ。僕は、日常の中で己れの死を忘却している輩が嫌いである。それは裏を返せば生を冒涜していることでもあるからだ。こういう人は必ず生をぬらりと生きて悦に入っている。そして死の瞬間見苦しい姿を晒すことになる。救いは無意識のうちに日常的に行われる眠りという疑似的な死の訓練が最期の諦念に至らしめることだけだ。だから人は程度の差こそあれ、ちゃんと死んでいけるのである。こういう結論に到達すると、必ず、死をなめているだろう、という生の、いや生の意味しか理解不能なアホーな輩は、眉をひそめて非難するはずだ。しかし、考えてもみなさい。人間は死から絶対に逃れられない存在なのである。とりわけ近代以降は日常性の中から死を隠蔽してきた歴史そのものである。死は、ビジネスとして、祈る専門家である僧侶や葬式屋によって綺麗に片づけられる。だからあたかも死というものが存在しないかのごとく僕たちは錯覚させられる。死は葬式という様式の中に埋もれてしまう。かくして世界から死はあたかも無きがごとくに不当に処理される。脳死などという臓器移植のための死の定義すら人は発明してみせた。これなどは圧倒的な生の側からの死の圧殺である。心肺停止すら否定する暴挙である。薄っぺらなヒューマニズムが脳死の論理を底支えしている。馬鹿げたお祭り騒ぎだ。ある部族は、身内に死者が出れば、死者と伴に、死者が腐敗し、土塊にもどっていく寸前まで同じ屋根の下で生活する。たぶん近代主義者たちは眉をひそめ、なんと残酷で、無知な人々の粗野な風習であろうか、と言うに決まっている。が、これも大いなる錯誤である。死者に対する尊敬の念をこれほど深く諒解している部族は、優れた死生観の持主たちである、と僕は思う。
人は生きる力が失せたときに死ぬのではない。人は死と伴に生を生きているのである。その意味では、人の生とは有と無との共存の上に成り立っているような存在である。眠りは意識するかしないかは別にして良き訓練の機会である。これが今日の結論である。
○推薦図書「生きるための自殺学」 K・ジャミソン著。新潮文庫。人はなぜ自ら死を選ぶのか? という問いから、死の深い洞察から生の意味を問いなおす知的試みです。こういう書が文庫で読めるのは幸福なことではありませんか? ぜひどうぞ。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
語り尽くされたことが書きたくなった。敢えて書くことにする。読みながらうんざりしたら、その瞬時に読むのを止めてくださって結構だ。それほど分かりきったことを書くことになる。
さて、人は何故眠るのか? という定義である。脳髄が異様に発達した人の眠りの意味について語るので、この際は、人間以外の生物の眠りについて、今日の僕は無関心を決め込む。結論から言うと、人の眠りは、死への準備を、本当にやって来るであろう死そのものに対する耐性を高めるための行為である、と僕は思っている。これだけ脳髄が異様に発達してしまった生き物としての人間が、眠りという死への準備なしに、唐突に襲ってくる無への回帰としての死に耐えられるはずがない。死に直面して潔い人もあれば、見苦しいほど生にこだわって抗い抜いて死んでいく人もいる。いずれにしても、人は多少見苦しくても最後は諦念が裡に芽生えて死を受容する。何故そうなれるのか? と言えば、僕の考えでは人は眠りという訓練によって、とりわけこの世界との永遠の別れになる死を受け入れることが出来るのである。いくら抗っても最期の瞬間、人はむしろ積極的に己れの死を受け入れることが出来る。僕に言わせれば日頃の、いや生を受けたその瞬間から始まる眠りという死への準備を、生きることと平行して始めていることになる。だから人が生を授かるというのは、同時に死を授かるという意味でもある。歳老いてから死へのカウントダウンが始まるのではない。生を授かったその瞬間から死へのカウントダウンが始まっているのである。それは無意識の日常的な訓練である。
人は眠れないと言っては不平をこぼす。睡眠薬さえ使う。単純な人は眠れないと明日の労働や勉学に差し支える、と思っている。眠りは新たな力を再生する大切な行為である、と思っているのである。別に反論するつもりはない。そう思った方が楽な人はそれでよい。この大いなる錯誤が、生を活き活きとさせてくれるなら錯誤も立派な役割を果しているからである。ただ、本質的なことを言えば、この考え方はあまりに単純過ぎるし、人の生き死にの真実とはかけ離れた発想であると、指摘しない訳にはいかない。表現を単純化しよう。人は毎日死を、正確には疑似的な死を体験しつつ、生きているのである。その意味で生の側からの虚飾をはぎ取ってみれば、死は日常的にとても身近な存在なのである。生は死と伴に在る、と言って過言ではない。むしろ無意識であるにせよ、眠りたい、という欲求が、己れの死を毎日欲している証左でもある。
だからこそ死を飼い馴らせた人の死は潔いし、死の意味から遠ざかっている人ほど、死に直面して、往生際が悪いのである。訓練の質的な差の結果である。人は小難しいことを言っても、一皮剥けばどこまでも単純な存在なのである。こんなふうに書けば僕は死を侮っているように感じる人がいるかも知れないが、そんなことはない。むしろ正反対だ。僕は、日常の中で己れの死を忘却している輩が嫌いである。それは裏を返せば生を冒涜していることでもあるからだ。こういう人は必ず生をぬらりと生きて悦に入っている。そして死の瞬間見苦しい姿を晒すことになる。救いは無意識のうちに日常的に行われる眠りという疑似的な死の訓練が最期の諦念に至らしめることだけだ。だから人は程度の差こそあれ、ちゃんと死んでいけるのである。こういう結論に到達すると、必ず、死をなめているだろう、という生の、いや生の意味しか理解不能なアホーな輩は、眉をひそめて非難するはずだ。しかし、考えてもみなさい。人間は死から絶対に逃れられない存在なのである。とりわけ近代以降は日常性の中から死を隠蔽してきた歴史そのものである。死は、ビジネスとして、祈る専門家である僧侶や葬式屋によって綺麗に片づけられる。だからあたかも死というものが存在しないかのごとく僕たちは錯覚させられる。死は葬式という様式の中に埋もれてしまう。かくして世界から死はあたかも無きがごとくに不当に処理される。脳死などという臓器移植のための死の定義すら人は発明してみせた。これなどは圧倒的な生の側からの死の圧殺である。心肺停止すら否定する暴挙である。薄っぺらなヒューマニズムが脳死の論理を底支えしている。馬鹿げたお祭り騒ぎだ。ある部族は、身内に死者が出れば、死者と伴に、死者が腐敗し、土塊にもどっていく寸前まで同じ屋根の下で生活する。たぶん近代主義者たちは眉をひそめ、なんと残酷で、無知な人々の粗野な風習であろうか、と言うに決まっている。が、これも大いなる錯誤である。死者に対する尊敬の念をこれほど深く諒解している部族は、優れた死生観の持主たちである、と僕は思う。
人は生きる力が失せたときに死ぬのではない。人は死と伴に生を生きているのである。その意味では、人の生とは有と無との共存の上に成り立っているような存在である。眠りは意識するかしないかは別にして良き訓練の機会である。これが今日の結論である。
○推薦図書「生きるための自殺学」 K・ジャミソン著。新潮文庫。人はなぜ自ら死を選ぶのか? という問いから、死の深い洞察から生の意味を問いなおす知的試みです。こういう書が文庫で読めるのは幸福なことではありませんか? ぜひどうぞ。
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長野安晃