ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

号泣して生きる

2007-09-26 23:20:56 | 観想
○号泣して生きる

人は号泣することによって精神の浄化を果たすことができるか? できる、と僕は思っている。号泣の対極にある笑いの効用についても僕は認める。しかし、あえて言うなら、笑いの効用よりは、号泣の意味は深いものがある、と思われる。それは、確かに笑いには心のエネルギーを高める効果はあるが、すでに心の奥深くに居座ってしまった暗い希死感を伴うような切実な欲動をなだめることは出来ない。その意味において泣くことの意味は笑いの意味に比べてより深いものがある、と僕は思う。

青年の頃、僕は泣きだしたい衝動にいつも付きまとわれていた、と思う。具体的にはこの場でも角度を変えて何度も書いてきたので、今日は略すが、生死の境を何とか危なげな足取りで渡ってきたように思う。そういうとき、僕はあえて笑い飛ばしていた、と思う。他者から見れば豪胆にも見えただろうが、自分の心の中の深い傷は、ますます深まるばかりであって、傷口からはいつも血が噴き出ていたように思う。救われることがなかった。僕の精神はいつもはりつめていたように思う。うつ症状が出なかったのは、僕のやせ我慢に過ぎない。いや現代のように精神疾患に理解がある時代であれば、たぶん僕はうつ病患者として治療の対象になっていたかも知れないが、精神が落ち込んで、もがき苦しんでいるのが、自分の思想性のベクトルか、と言い聞かせて耐えていたようだ。ただ、眠れなかった。事件にはならなかったが、母が父の胸を包丁で刺し貫いた時点から、殺人未遂者としての母を恨むようになった。父は訴えはしなかったが、明らかに母には殺意があった、と確信する。そんなおぞましい事件があってから数日後から僕の極度の不眠は始まった。眠ることを意思力で妨害しているフシがあった。まんじりともせずに朝を迎えるのが、僕の日常になった。21歳の頃だ。それ以降、僕は安らかな眠りを体験したことがない。60歳になったが、やはり僕は極度の不眠をもったままだ。たぶん死が訪れてくるまで、この不眠から解放されることはないだろう、と思う。強烈な睡眠薬で無理やり眠っているだけで、いやそれは眠りというものではなくて、気絶に近いものだ。

決して感情の起伏が平坦とは謂いがたい性格である。いま苦しんでいるのは憤りという感情だ。自分の誠意が他者に完璧に誤解されたようなとき、僕は憤り、自分の生を呪詛する。他者が許せないというより、己れの真実が誤解されて他者に伝わってしまうことの苦悩にのたうちまわる。かつては笑いで誤魔化してきた。が、もうそれも通用しなくなった。いまは泣いている。それもメソメソなどしない。号泣するのである。魂というものがあるとすれば、たぶんそれは脳髄の働きの結果なのだろうが、確かに僕の魂は浄化される。傷が完全に癒されることはないが、新たな精神のエネルギーは確実に出現してくる。何とか生きていられるのはそのためだ。

ともあれ、号泣したことのない人は一度は人目を憚ることなく声をあげて泣いてごらんなさい。少しは人生の暗部に光がさす。これは僕が保証します。

○推薦図書「FINE DAYS」 本多孝好著。祥伝社文庫。この短編集は号泣とまではいきませんが、切々とした語り口で作者が物語を編み出してきます。人生の切なさを感じさせてくれる、という意味合いにおいて、泣ける作品集です。ぜひどうぞ。

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