○世の中、癒しの氾濫だが・・・
癒しブームである。確かに21世紀は生きづらい世の中になった、と思う。少なくとも青年たちは、未来に夢を託せなくなっている。社会への旅立ちとしては何とも心もとない心境だろう。50代は、引退のゴール前で喘ぎながら辛うじて息をしている。30代、40代の人々はたぶん前も見えず、頑張ったところでいつリストラの対象にされるか分からない不安定な状況の中に置かれているだろう。一部の悠々自適な生活を手に入れた人々だけが大手を振って世界を闊歩している。
こんな実情だ。疲れてあたりまえだろう。みんな息切れしかけながら生きている。目利きの鋭い人々がこういう人々をターゲットにして金儲けを試みる。癒しブームとはこのようなからくりの中から、雑草が生えるように、次々とその手法を換えて疲れた人々の消費を促しているかのように思われる。エステティックの世界も癒しの要素を組み入れなければ、美の追求だけではもはや商売にならない。しかし、世の中は癒しの空気が漂っているのに、それでもいっこうに街行く人々の顔つきは冴えないのはどうしたわけか?
その理由は想像に難くない。それは多くの人々が癒しというものの本質を錯覚しているからである。確かにその場凌ぎの癒しなら、数千円の価値として、薬の効き目が切れるようなものだ、と思って決して永続しない癒しの効用に踏ん切りをつけるしかない。栄養ドリンクを飲むような感覚であるなら、それも大いに結構だ。
しかし、本当の癒しを求めている一群の人々も確かに存在する。とりわけ心を病んだ人々たちの苦しさは、栄養ドリンクを飲んでおさまるような種類のものではない。生き死の問題だからだ。だから精神科は大流行りだ。栄養ドリンクの代わりに坑うつ剤や坑不安剤や精神安定剤に睡眠導入剤の服用、というわけだ。一部の優秀な精神科医を除けば多くの医師たちはまるで栄養ドリンクのごとくに、精神薬の処方だけをたかだか5分が10分程度の問診で処方する。理由が分からないままにやけに哀しいとか、精神が落ち込んで周りの風景すら見えなくなるほど視野が狭くなったり、眠れぬ夜を悶々と過ごすような症状はある程度とれる。そう、栄養ドリンク並には。しかし、精神薬の効用はたかだかここまでである。そういうふうに考えた方がよい。
さて、ここからが癒しの時期に入る。前記したように癒しというものをただ与えられるものだ、と思っているなら、そういう人々は生あるかぎり苦悩から脱出できはしない。矛盾した言い方かも知れないが、癒しとは、その過程で、必ず自己の内面と向き合わねばならない時期がやってくる。癒しを必要とする人々の心の中は、いろいろに姿を変えた内面のねじれがあり、そのねじれをもとに戻してやるある種の精神的な力を必要とする。精神疾患から立ち直っていく人々と、なかなか立ち直れない人々との大いなる違いはまさにここに在る、と言っても過言ではない。誤解を恐れずに言えば、苦悩を断ち切るための苦悩に耐えるだけの力が必要なのである。
へらへらクライアントの話を聴いているカウンセラーは毒にもならないが、薬にも決してなり得ない存在である。ただ、苦悩を抱えている人々の中にも不思議な心性があって、立ち直りたいという気分がある一方で、立ち直りを拒否する人々もいるのは否定し難い事実である。苦悩に安住してしまった人々だ。こういう人々にはへらへらと話をただ聴いてくれるカウンセラーが相応しい存在である。なぜなら、この手のカウンセラーは、一時の栄養ドリンクの役割をしていて、苦悩に安住した、自分の内面と向き合う勇気を喪失してしまった人々には、うってつけの役割を果してくれるからである。
僕と向き合う人の中にも、こういうクライアントは確実にいる。僕はクライアントの苦悩を根底から取り除くために、ときとして強い言葉を投げかける。勿論素人のような励ましの言葉ではないが、本当は苦悩の中で安住したがっている人々にとっては、僕の投げかける言葉は時として毒にも感じられる。そういう人々は自ずと僕のもとから去っていくことになる。それでよい、と僕は思っている。クライアントには自分の現状に合ったカウンセラーを選ぶ権利があるのだし、精神薬で少しは気分も上昇するわけだから、へらへらとしたカウンセラーに自分の苦しさを一方的に話して立ち直る奇跡を待つしかないのだろう。以前自己責任という言葉が流行ったが、まさにこの分野は、自己責任が支配する世界である。
以前この場で紹介した井坂孝太郎の「グラスホッパー」の登場人物が何度か口にする「死んでるみたいに生きたくない! 」と思う人が僕のところにやって来てくれればそれでよい。癒しは決して楽なものではないのである。勝ち取るものだ。
○推薦図書「精神科のくすりを語ろう-患者からみた官能的評価ハンドブック」 熊木徹夫著。日本評論社刊。「医者からもらった薬を知る本」の類はたくさん出版されているが、製薬会社の説明がただ羅列されているだけの解説書である。読んでいて決して頭の中に入ってはこない。また、副作用もどのように判断したらよいものかまるでわからない。そう、わからないように書いているからである。この書は精神科医が出した本だが、患者のいろいろな精神薬の効き目を自分の身体的な変化を余るところなくとりあげて、ごく軽いコメントで抑えているところが、たぶんいま飲んでいるお薬に対する自分なりの判断もつかない人々には朗報となる書です。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
癒しブームである。確かに21世紀は生きづらい世の中になった、と思う。少なくとも青年たちは、未来に夢を託せなくなっている。社会への旅立ちとしては何とも心もとない心境だろう。50代は、引退のゴール前で喘ぎながら辛うじて息をしている。30代、40代の人々はたぶん前も見えず、頑張ったところでいつリストラの対象にされるか分からない不安定な状況の中に置かれているだろう。一部の悠々自適な生活を手に入れた人々だけが大手を振って世界を闊歩している。
こんな実情だ。疲れてあたりまえだろう。みんな息切れしかけながら生きている。目利きの鋭い人々がこういう人々をターゲットにして金儲けを試みる。癒しブームとはこのようなからくりの中から、雑草が生えるように、次々とその手法を換えて疲れた人々の消費を促しているかのように思われる。エステティックの世界も癒しの要素を組み入れなければ、美の追求だけではもはや商売にならない。しかし、世の中は癒しの空気が漂っているのに、それでもいっこうに街行く人々の顔つきは冴えないのはどうしたわけか?
その理由は想像に難くない。それは多くの人々が癒しというものの本質を錯覚しているからである。確かにその場凌ぎの癒しなら、数千円の価値として、薬の効き目が切れるようなものだ、と思って決して永続しない癒しの効用に踏ん切りをつけるしかない。栄養ドリンクを飲むような感覚であるなら、それも大いに結構だ。
しかし、本当の癒しを求めている一群の人々も確かに存在する。とりわけ心を病んだ人々たちの苦しさは、栄養ドリンクを飲んでおさまるような種類のものではない。生き死の問題だからだ。だから精神科は大流行りだ。栄養ドリンクの代わりに坑うつ剤や坑不安剤や精神安定剤に睡眠導入剤の服用、というわけだ。一部の優秀な精神科医を除けば多くの医師たちはまるで栄養ドリンクのごとくに、精神薬の処方だけをたかだか5分が10分程度の問診で処方する。理由が分からないままにやけに哀しいとか、精神が落ち込んで周りの風景すら見えなくなるほど視野が狭くなったり、眠れぬ夜を悶々と過ごすような症状はある程度とれる。そう、栄養ドリンク並には。しかし、精神薬の効用はたかだかここまでである。そういうふうに考えた方がよい。
さて、ここからが癒しの時期に入る。前記したように癒しというものをただ与えられるものだ、と思っているなら、そういう人々は生あるかぎり苦悩から脱出できはしない。矛盾した言い方かも知れないが、癒しとは、その過程で、必ず自己の内面と向き合わねばならない時期がやってくる。癒しを必要とする人々の心の中は、いろいろに姿を変えた内面のねじれがあり、そのねじれをもとに戻してやるある種の精神的な力を必要とする。精神疾患から立ち直っていく人々と、なかなか立ち直れない人々との大いなる違いはまさにここに在る、と言っても過言ではない。誤解を恐れずに言えば、苦悩を断ち切るための苦悩に耐えるだけの力が必要なのである。
へらへらクライアントの話を聴いているカウンセラーは毒にもならないが、薬にも決してなり得ない存在である。ただ、苦悩を抱えている人々の中にも不思議な心性があって、立ち直りたいという気分がある一方で、立ち直りを拒否する人々もいるのは否定し難い事実である。苦悩に安住してしまった人々だ。こういう人々にはへらへらと話をただ聴いてくれるカウンセラーが相応しい存在である。なぜなら、この手のカウンセラーは、一時の栄養ドリンクの役割をしていて、苦悩に安住した、自分の内面と向き合う勇気を喪失してしまった人々には、うってつけの役割を果してくれるからである。
僕と向き合う人の中にも、こういうクライアントは確実にいる。僕はクライアントの苦悩を根底から取り除くために、ときとして強い言葉を投げかける。勿論素人のような励ましの言葉ではないが、本当は苦悩の中で安住したがっている人々にとっては、僕の投げかける言葉は時として毒にも感じられる。そういう人々は自ずと僕のもとから去っていくことになる。それでよい、と僕は思っている。クライアントには自分の現状に合ったカウンセラーを選ぶ権利があるのだし、精神薬で少しは気分も上昇するわけだから、へらへらとしたカウンセラーに自分の苦しさを一方的に話して立ち直る奇跡を待つしかないのだろう。以前自己責任という言葉が流行ったが、まさにこの分野は、自己責任が支配する世界である。
以前この場で紹介した井坂孝太郎の「グラスホッパー」の登場人物が何度か口にする「死んでるみたいに生きたくない! 」と思う人が僕のところにやって来てくれればそれでよい。癒しは決して楽なものではないのである。勝ち取るものだ。
○推薦図書「精神科のくすりを語ろう-患者からみた官能的評価ハンドブック」 熊木徹夫著。日本評論社刊。「医者からもらった薬を知る本」の類はたくさん出版されているが、製薬会社の説明がただ羅列されているだけの解説書である。読んでいて決して頭の中に入ってはこない。また、副作用もどのように判断したらよいものかまるでわからない。そう、わからないように書いているからである。この書は精神科医が出した本だが、患者のいろいろな精神薬の効き目を自分の身体的な変化を余るところなくとりあげて、ごく軽いコメントで抑えているところが、たぶんいま飲んでいるお薬に対する自分なりの判断もつかない人々には朗報となる書です。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃