○世界は主観的な観念で支配されている、あるいは客観的なるものなど存在しない
僕たちは世界に放り出される前、学校教育という制度の中で、あたかも客観的世界が存在するかのように教えられてきた。あるいは世の中に出てからも、客観的なるものが存在するはずだ、という錯誤のもとで生きてきたように思われる。
しかし、敢えて言おう。この世界の中に客観的なるものなど存在しないのである。全ては人間の主観が創り出した世界なのだ、ということを。簡単に言えば1+1=2の世界などはあくまで切ない人間的な希求が生み出したものであり、ありていに言えば世の中とは1+1=3あるいは4あるいは5にもなる世界である。
まず世界の経済はどうであろう? 客観的なものによって動いているか? 否である。世界の株式はありとあらゆる人間の欲動に支配された主観によって上がり下がりする。世界情勢における偶発的な出来事で、株の売り買いが人間の主観によって行われる。そしてそれが世界経済の動向を左右する。金のある主観主義者が得をする世界なのだ。貧乏人はそのお零れを頂戴するか、なけなしの財産を一夜にして失うか、という危うい均衡の上で生きている。この世に確かなものなど何一つない。政治の世界はもう説明の余地はないであろう。誰にでも想像がつく。数学や理科の世界はどうだろう? 僕たちが学校で学習したものの中にさえ、主観の権化のようなものがある。それは進化論という主観主義的仮説である。こんなものは誰にも証明しようがない。ダーウィンの脳髄の世界が生み出した一つの世界像である。それでは進化論に対立する創造説や、その他の宗教的世界における絶対者の存在はどうか? これこそが典型的な人間の創造による実体のないエセものである。この世界に神など存在しない。世の中にはありとあらゆる神々が存在するかのように喧伝されているが、それらは人間の一個の存在の危うさを絶対者という揺るぎない? 存在を創造することによってそこに精神的に依存することで、世界というファジーな世の中で生き抜くための虚しい知恵に過ぎない。
数学や物理や天文学はどうだろう? 数学や物理の客観的に見える法則は、学習者のごく初期の頃に役立つだけの代物である。例えていえば、それは箸の挙げ下ろしの作法のようなものだ。これを客観的と呼ぶにはあまりにも空虚である。これらの研究者たちは、己れの創造力によって、新たな研究の対象を規定していく。創造性に欠けた研究者は挫折する。当然の結果だ。挫折者たちは、自らの主観性が閉じてしまった人々だからである。天文学はどうか? 宇宙の法則は絶対的なものだ、と信じている人々はある意味幸福である。僕から言わせれば、宇宙のことなど、殆ど分かっていないのが現状だ。僕たちが便宜的に使っている法則? たとえば、一年が365日で、一日は24時間という揺るぎないと見える生活の基盤など、例えば偶発的に大隕石が月でもよいし、地球でもよいし、その他の僕たちが知っている数少ない惑星に衝突したとしたら、僕たちの日常的な規範とする時間の概念すら、激変するのはあたりまえのことである。
主観が世界を動かしている。それ以外の真実はない。人々はその不安定感に耐えるために客観的ななにものかを規範にして生きている。しかし、規範など存在しないぶん余計に虚しい行為でしかない。では主観とはどこから生まれ出るのか? 人間の脳髄の中の小さな世界から生み出されている。これが世界という巨大な存在を認識している。養老孟史の「唯脳論」? いやいや、あれも脳髄の一部の世界を客観視しようという限定的な試みだ。ともあれ、僕たちはかなり危うい土台の上で生きている、そのことに想いが時折接近すればよい、と僕は思う。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
僕たちは世界に放り出される前、学校教育という制度の中で、あたかも客観的世界が存在するかのように教えられてきた。あるいは世の中に出てからも、客観的なるものが存在するはずだ、という錯誤のもとで生きてきたように思われる。
しかし、敢えて言おう。この世界の中に客観的なるものなど存在しないのである。全ては人間の主観が創り出した世界なのだ、ということを。簡単に言えば1+1=2の世界などはあくまで切ない人間的な希求が生み出したものであり、ありていに言えば世の中とは1+1=3あるいは4あるいは5にもなる世界である。
まず世界の経済はどうであろう? 客観的なものによって動いているか? 否である。世界の株式はありとあらゆる人間の欲動に支配された主観によって上がり下がりする。世界情勢における偶発的な出来事で、株の売り買いが人間の主観によって行われる。そしてそれが世界経済の動向を左右する。金のある主観主義者が得をする世界なのだ。貧乏人はそのお零れを頂戴するか、なけなしの財産を一夜にして失うか、という危うい均衡の上で生きている。この世に確かなものなど何一つない。政治の世界はもう説明の余地はないであろう。誰にでも想像がつく。数学や理科の世界はどうだろう? 僕たちが学校で学習したものの中にさえ、主観の権化のようなものがある。それは進化論という主観主義的仮説である。こんなものは誰にも証明しようがない。ダーウィンの脳髄の世界が生み出した一つの世界像である。それでは進化論に対立する創造説や、その他の宗教的世界における絶対者の存在はどうか? これこそが典型的な人間の創造による実体のないエセものである。この世界に神など存在しない。世の中にはありとあらゆる神々が存在するかのように喧伝されているが、それらは人間の一個の存在の危うさを絶対者という揺るぎない? 存在を創造することによってそこに精神的に依存することで、世界というファジーな世の中で生き抜くための虚しい知恵に過ぎない。
数学や物理や天文学はどうだろう? 数学や物理の客観的に見える法則は、学習者のごく初期の頃に役立つだけの代物である。例えていえば、それは箸の挙げ下ろしの作法のようなものだ。これを客観的と呼ぶにはあまりにも空虚である。これらの研究者たちは、己れの創造力によって、新たな研究の対象を規定していく。創造性に欠けた研究者は挫折する。当然の結果だ。挫折者たちは、自らの主観性が閉じてしまった人々だからである。天文学はどうか? 宇宙の法則は絶対的なものだ、と信じている人々はある意味幸福である。僕から言わせれば、宇宙のことなど、殆ど分かっていないのが現状だ。僕たちが便宜的に使っている法則? たとえば、一年が365日で、一日は24時間という揺るぎないと見える生活の基盤など、例えば偶発的に大隕石が月でもよいし、地球でもよいし、その他の僕たちが知っている数少ない惑星に衝突したとしたら、僕たちの日常的な規範とする時間の概念すら、激変するのはあたりまえのことである。
主観が世界を動かしている。それ以外の真実はない。人々はその不安定感に耐えるために客観的ななにものかを規範にして生きている。しかし、規範など存在しないぶん余計に虚しい行為でしかない。では主観とはどこから生まれ出るのか? 人間の脳髄の中の小さな世界から生み出されている。これが世界という巨大な存在を認識している。養老孟史の「唯脳論」? いやいや、あれも脳髄の一部の世界を客観視しようという限定的な試みだ。ともあれ、僕たちはかなり危うい土台の上で生きている、そのことに想いが時折接近すればよい、と僕は思う。
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文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃